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遅い夕食

 好きな人の元恋人を目の前にて、おそらくここぞという場面ながらも、急に僕は自分がまだ夕飯を食べていないことを思い出してしまった。急速に意識が憤怒の激情から引き戻されて、エコバックの中で傷みかけたネギや割れた卵の存在が浮かぶ。

「――……お腹空いた。僕、ご飯食べるから。キッチン借りる」

「は?」

 唐突な僕の発言にリョウスケが目を丸くする。その彼に向けて、ゆっくりと言い聞かせるように繰り返した。

「キッチン、貸してもらうから」

「……何言ってるんだ?」

「会社帰りの僕を無理に連れてきたのはそっちだろ。僕はまだ晩ご飯食べてなかったのに、もう十時になってる。僕は自分のご飯を作るから、キッチンを借りるよって言ってんの」

「えぇと……鋭利君、ご飯食べるならウーバーでも取るよ? リョウスケが君の都合を聞かずに勝手に連れて来たのは無礼だったから、おごるよ。どうせ俺たちも夕飯まだだし……」

「は?」今度は僕が言う番だった。「こんな時間にまだご飯を食べてないんですか? 二人して?」

「え? ああ……うん……。ちょっと忙しくて……」

「じゃあ、一緒に作ります。ここへ連れて来られるとき、買い物袋を落としちゃって、卵が割れたし野菜も傷んでるんです。このままだと、割れた卵が袋に染みてくるかも……」

「げっ」

 リョウスケはギクリとした表情で僕から距離を取った。卵が割れたのは彼のせいなのに、若干の理不尽を感じる。

「――それなら、傷んだ食材を消費しないとね。俺も作るの手伝うよ。ただ、ここのキッチン、調味料はあまりないよ?」

「塩と砂糖と醤油あります?」

「あるよ。あと、いちおう出汁の素もある。何する? 買ったもの、見せてくれる?」

 燐太郎さんはソファから立ち上がって傍にやって来た。二人で買い物袋をのぞき込む。男三人が食べるんだから、ということで僕は奮発して、野菜をすべて提供することにした。食材を見ながらあれこれ話す燐太郎さんはなぜか楽しそうで、隈はあるものの先ほどより元気そうに見える。

 二人でキッチンに向かおうとすると、リョウスケが怯んだように後ずさった。

「なんで燐太郎までいきなり飯とか言い出すんだよ……」

「だって、夕飯食べてないのは事実だろ。このまま夜を抜くのも不健康だし、ついでだから一緒にご飯食べた方が早いだろ?」

 呆然としているリョウスケを置き去りにして、僕らはキッチンに立った。割れた卵と溶けかけの冷凍うどんを消費したいので、あれこれ考えたものの、結局、すき焼き風の味付けの鍋焼きうどんを作ることにする。燐太郎さんがざくざくと野菜を切っている隣で、僕は出汁の素と水を入れた鍋を沸騰させ、野菜を放り込んでいった。それから、燐太郎さんが切った野菜の中でなかなか火が通らなさそうなものから、鍋に放り込んでいく。肉の代わりに買い物袋にあった厚揚げを、うどんとともに放り込んだ。

 醤油と砂糖、それに少量の塩で味を調整していく。最後に溶き卵を落としてゆっくりとかき混ぜた。

「リョウスケ、器と箸出してー」燐太郎さんが少し大きめの声で指示を出す。

 リョウスケはじっと固まったまま。僕らを無視する気なのかと思ったが、長い間の後に彼はようやく動き出した。キッチンの隅の棚を開けて、割り箸とどんぶり鉢を三つ出してくる。

 勝手にキッチンを使い始めたけれど、何だかそれを許してもらえた気がして、僕はリョウスケに「どうも」とお礼を言った。リョウスケは何だか間違い探しの間違いの箇所を見つけたような表情でうなずく。

 あまり気にしないことにして、僕は用意された器にうどんを分けていった。すき焼き風のうどんは、野菜を奮発してたくさん入れたことで、そこそこのボリュームになった。肉は入っていないから物足りないかもしれないが、取りあえずお腹は膨れるだろう。

 器をソファの前の作業用テーブルに運んで、事務用椅子を持ち寄って三人で遅い夕飯を始めた。

「味、どうですか? 適当に味付けしたけど、薄くない?」

 僕は燐太郎さんとリョウスケに尋ねる。燐太郎さんはにっこりして「おいしい」と答えた。リョウスケは困惑した表情で箸を動かしている。その本心は分からないが、味に問題はないものとして僕もうどんをすすった。

「やっぱりこの味付けだと、肉がほしいな。牛肉。どうしてもすき焼きを思い出しちゃうし」僕は呟く。

「別に、これはこれでうまいんじゃねぇの?」リョウスケが言葉を発した。

 僕は箸を止めて彼を見る。リョウスケは僕の視線に気づいて眉をひそめた。

「何だよ?」

「いや、何というか、悪い奴じゃないんだよなと思って。わりと無礼ではあるけど。……作詞作曲講座の佐々木さんから、燐太郎さんは二年前に番の相手から離れたって聞いてたけど、その相手っていうのが悪人じゃないみたいで正直ほっとしてる」

「ほっと? なんでだよ?」リョウスケが尋ねる。

「好きな相手が実はヤな奴だったって、何となくつらいからさ。一度、惚れた相手には、やっぱり尊敬できる部分とか憧れる部分とかは、ずっと持っててほしいでしょ? たとえば、恋人が僕と別れようとお年寄りや小さい子には親切でいてほしい、みたいな……」

「分かんねぇよ。小さい子やお年寄りに親切って、それ当たり前のことだろ。自分の恋愛が上手くいないからって、親切じゃなくなるとかねーよ」

 肩をすくめてリョウスケは言い、うどんをすすった。それから小さく「うまい」と呟く。僕は片眉を上げながら燐太郎さんに目配せをした。こいつ、やっぱりいい奴ですね、と。燐太郎さんはこちらの視線の意味をきちんと読みとったらしく、肯定と申し訳なさそうな色が複雑に入り混じった淡い笑みを浮かべてみせた。

 ――どんな事情があるにせよ、僕に申し訳なく思う必要はないんですよ。

 そんな意味を込めて僕も薄く笑みを返してから、リョウスケに顔を向ける。

「――で、なんで僕を連れてきたの? 聞きたいことがあるって言ってたけど、何?」

「水城鋭利、お前はアルファなんだろ? そして、燐太郎と番になろうとした」

 断定的なその言葉に僕は眉尻を跳ね上げた。

 僕は燐太郎さんと付き合っていたけれど、それはごく最近の短い期間のことだ。もちろん、作詞作曲講座を受講した縁で知人として友人としてはお互いのことをそれなりに知っている。けれど、恋人としての関係はまだ浅い。番になろうなんて話は出ていない。もっと言えば、たとえ付き合いが長くなったとしても燐太郎さんと僕が番の関係を望むかどうかは未知の領域のことだった。

 オメガとアルファの恋人だからといって、必ず番にならなければならないわけではない。僕はほとんど初対面のリョウスケに勝手に自分の人間性を決めつけられた気がして、ぐっと眉をひそめた。

「僕がアルファって、どうして分かったの? 副性なんて外見じゃ推測できない、行政機関とかでなければ資料もないはずなのに」

「感覚で分かるさ。……というか、お前、アルファなのにその感覚を知らないのか? 自分の番や好意を寄せるオメガを他のアルファに奪われそうなとき、そうだって感じるんだよ」

「知らないよ。そんな本能とかって、本当にあるの? 運命の番と同じ迷信じゃないの?」

「そういうアルファとしての本能みたいなものは、やっぱりあるよ」

「僕はそういうのよく分からないな……」

「分からない? でも、さっきお前が燐太郎にちゃんと飯食わせて寝かせろって怒ったのも、たぶんアルファとしての本能だろ。一度、自分の保護対象と認識した相手の生存を維持しようとするっていう」

 その言葉に僕は手の中の箸を取り落とした。

 僕にアルファとしての本能が備わっていて、それに応じた行動をしているだなんて。ずっとオメガになりたいと思っていた。アルファらしさを期待されたくなくて、副性をあまり前面に出さずに生きてきた。アルファとして求められるのは嫌だったから、燐太郎さんと知り合うまで誰とも付き合ったことがなかったくらいだ。

 なのに、そんな僕にアルファらしさがあるなんて。オメガに訪れるヒートにかこつけて――実際はヒート状態のオメガのフェロモンが性欲を誘発することはないというのに――弱い立場の彼らを襲うアルファ。優れているとされる評価にあぐらをかいて、偉そうにするアルファ。そんな奴らは大嫌いなのに、僕は選んだわけでもない生まれ持った副性で厭わしい奴らと同じ性質を有しているという。

 ――そうならないように、生きてきたはずなのに。

 脳裏に学生時代、ノートに書いていた小説を回し読みされたときのことが浮かんできた。拙いファンタジーを、アルファの癖にこんなもの書いているのかとあざ笑うクラスメイトたち。小説なんてオメガの得意な分野だからお前には無理だと言う両親。もう僕は大人で、自由で、一人暮らしをしているから、小説を書こうが何をしようが文句を言う人間はいない。もう苦しまなくていいことのはずなのに――アルファとしての特権とアルファに張られたレッテルとを思い出して、どうしようもなく気分が悪くなる。

 ――いつもなら、流せるはずなのにな。燐太郎さんへの失恋で、あんまり元気じゃないのかも。

 そう思いつつ急に黙りこんだ僕に、リョウスケが不思議そうな顔をした。

「おい、どうしたんだ?」

「鋭利君、大丈夫?」さっきまで僕とリョウスケが話すのを静かに聞いていた燐太郎さんが、テーブル越しに僕の肩に触れる。「顔色がよくない。具合が悪くなった?」

「いえ、平気です。お腹いっぱいになっただけ。……でも、もう遅いしそろそろ帰りたいな。お腹いっぱいになったら急にすごく眠くなってきて」

 明るい口調で言って、僕はあくびを堪えるふりをしてみせた。本当は吐き気で胸がムカムカする。眠いというのは嘘だけれど、ここでリョウスケと燐太郎さんに弱いところをみせたくなかった。だって、彼らは番で僕は部外者なのだから。

 とはいえ、余所で料理をして片づけもせずに帰るわけにはいかない。

 僕は立ち上がって空いている器を下げようとした。と、その腕を燐太郎さんが掴む。

「鋭利君、本当は体調悪くなったんでしょ? 顔が強ばってるから分かるよ」

「ちがいますー。隈がひどくて体調悪いのは、燐太郎さんでしょ」

 茶化すように言って逃げようとしたけれど、彼は動じなかった。彼は毅然とした口調でリョウスケに「器片づけといて」と頼む。意外にもリョウスケは殊勝な態度で動き出した。

「ここのスタジオ、仮眠用の部屋があるから休んでおいで。本当は車で送っていきたいけど、俺たちあと一時間くらいでライブ配信の予定があるから」

「……本当に燐太郎さんが作曲家のクロシェットさんなんですね……。ネットで活動してる人って知り合いにいないから、なんかびっくりするっていうか……」

「別に、普通だよ。確かに配信はしてるけど、俺たちは鋭利君と何も変わらない」

 燐太郎さんの口調は、事実を述べるというより、そうでありたいという願いの方が強い気がした。もっとも、そのことは指摘せずに僕はただ曖昧に頷く。理解はしていないけれど、あなたの言葉はいちおう受け取りましたよ、という意味を込めて。

「これから配信するんですか……? 僕より燐太郎さんとリョウスケが眠った方がいいと思うけど」

「そういうわけにもいかないんだ。せっかく空いてるんだから、君が仮眠用のベッドを使って」

 燐太郎さんは僕の手を引いて寝室風の小部屋へ連れていった。そこには確かにベッドが一台、置かれている。ただし近くにクローゼットやタンスの類がないのが、普通の家と違うところだろうか。

 ――もしかして、ここで燐太郎さんとリョウスケが抱き合ったこともあるんだろうか。

 ふっとそんな考えが浮かんだものの、慌ててそれを打ち消した。普通、仕事の場所でそういうことはしないものだし、燐太郎さんとリョウスケが今、恋愛関係なのかどうかも分からない。考えるだけでも下世話なことだ。

 僕は無礼な想像をしてしまった自分を恥じながら、燐太郎さんにお礼を言ってベッドに腰を下ろした。傍らのテーブルに通勤用の鞄を置き、スーツの上着とベルトを取る。燐太郎さんはそれを見届けてから、部屋を出て行こうとした。そんな彼を僕は呼び止める。

「あの、明日は始発で帰ります。車で送ってもらう必要はありません」

「いいよ。リョウスケが無理に連れてきたんだから」

「……でも、あなたもリョウスケも徹夜でしょ? 運転してもらうのはちょっと不安です」

「それもそうか。とにかく、ゆっくり休んで」

 燐太郎さんが出て行くと、僕は部屋の明かりを消してベッドに横になった。相変わらず胸のムカつきは居座っていて、それを宥めるように目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返した。

 深夜になったビルは静かだ。ここはスタジオとして使われているそうだけれど、今は僕の他に二人しかいないせいか物音がほとんどしない。むしろ、ビルの外を走る車の音や遠くから響く電車の音が聞こえてくるくらい。

 僕のマンションはもう少し郊外にあって、上下や左右にはごく普通の人が生活しているから、ときどき生活音が耳に届く。そんな普段の環境からすれば、街中で日々の生活から切り離されたようなこんな空間で眠るのは、まるで生者の世界から隔絶されたかのような気がした。燐太郎さんが近くにいるとはいえ、彼はもはや僕とは深い繋がりのない人だ。今の僕は世界から忘れ去られたみたいに孤独で、一方でそんな自分を興味深くモニターしている自分がいた。




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