華やかな世界
リョウスケにスタジオに連れていかれてから一年ほど。僕はときどき、リョウスケと燐太郎さんに会うようになっていた。スタジオに遊びに行くときもあれば、リョウスケの家に招かれたり、ご飯に誘われたりすることもある。たまにライブに招待してもらったりもした。燐太郎さんとリョウスケが別れた僕の元恋人とその元彼という間柄でなければ、友達といってもいいくらいだろう。花梨にこのことを話すと、彼女は心配そうな顔をしていた。
『芸能界にせよ、ネット上の華やかな世界にしろ、人の注目が集まる場所には人を狂わせる何かがある気がするの。鋭利君がそれに巻き込まれないか心配』
アイドルとして活動していた際に、花梨はあるときふと自分の感覚が狂いはじめていると感じて、怖くなったのだという。金銭感覚や他人に対する距離感などが、高校生までのそれとは変化していたのだと。成人したからでも、仕事をしているからでもない。明らかに、アイドルではない普通の人とは違う――はっきり言語化はできないけれど、違うことが分かってしまうのだそうだ。
『でも、アイドルを続けていたら、いずれ自分の感覚がズレていること分からなくなるでしょう。卒業したのは、それが怖かったからでもあるの』
――鋭利君は、今のままでいて。
そう言う花梨は切実な目をしていた。僕は花梨を安心させたくて、『分かってるよ』と何度も頷いてみせたものだ。
でも、心のどこかで僕は花梨の忠告を杞憂だと考えていた。だって、僕はネット上で活動をしているわけではない。ただ友達と会っているだけなのだから。花梨の忠告を軽視したわけではないけれど、僕はリョウスケや燐太郎さんと会い、楽曲が動画共有サイトに投稿されればそれを観て感想を言った。
僕に声を掛けるのは、燐太郎さんよりリョウスケの方が少しだけ頻度が多かった。いったいどういう了見で僕を遊ぶ仲間に入れるのか、尋ねてみたことがある。
あれはリョウスケの家で宅飲みをすることになっていて、僕が約束の時間より少し早く到着したときのことだ。つまり、燐太郎さんはまだ来ていなかった。他にもリョウスケや燐太郎さんの仕事の音楽関係の友人が二人、参加すると聞いていたけれどその二人もまだいなかった。
そこで、軽くおつまみでも作ろうということになって、僕はリョウスケの家のキッチンを借りていたのだ。この頃には、僕とリョウスケは――少なくとも僕の感覚では――恋のライバルというより、普通の友達のようになっていた。
「いったいどうして、僕を友達みたいに扱うの? リョウスケからしたら、僕は番の『間男』なんでしょう?」
あえて棘のある言い方をすると、リョウスケは肩をすくめた。
「あのときは悪かったよ。初対面で、ひどい言い方をした。……でも、カッとなってたんだよ。俺はもともと燐太郎と別れたくなかったけど、あいつが望むから俺の前からいなくなることを許したのに――恋人を作ってるなんて」
「そりゃあ、まだ好きな気持ちがあるなら、離れたくないっていうのは理解できるよ。けど、恋愛関係にしろどんな関係にしろ、お互いが続けていこうという気持ちがなきゃ、続かないものじゃないの?」
「確かにそうだ。……けど、アルファの性質が強いと厄介なんだよ。番が他のアルファと恋愛するなんて、考えただけでも苛々する。それに番の絆というか……そういうのが分かっちゃうしな」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。番になるにはアルファがオメガの項を噛む必要がある。その番を解消できるのはアルファだけ。オメガからは解消できない。だけど、番の絆が弱まってたら別のアルファが上書きすることは可能だ」
リョウスケの説明は、僕がまったく知らない事柄だった。
今でこそ、義務教育における性教育は男女ともに同じ内容が教えられる。男子でも女子の月経や妊娠について教わったり、男女共通で受精の仕組みを学んだりする。ただ、アルファやオメガの性質や性の仕組みについては、ほとんど共通の教育というものが行われない。アルファやオメガといった副性を持つ者が人口の割合の中で少ないからだ。
加えて、僕自身はアルファ性というものを嫌悪していたから、何かの機会にアルファの性質を解説されても聞き流していた。むしろ、学ぶことで自分の中にアルファとしての性質が存在すると発見してしまうのが恐ろしかったのだ。――まさに、最初にリョウスケと燐太郎さんのスタジオでの出来事のように。
「……お前、そんなことも知らないのか?」
「だって、アルファについてはなるべく知らないようにしてたから」
「アルファ性が嫌なのに、オメガの燐太郎とどうなるつもりだったんだよ? お前は知らなかったにしても、いずれ番になるらお前が俺と燐太郎の間にある番の絆を上書きしなきゃならなかったのに」
「僕は自分がアルファなのが嫌だったんだ。オメガになりたかった。燐太郎さんもそのことは知ってた。もしかしたら、恋人を続けていても番になろうっていう話にはならなかったかも」
そう言うと、リョウスケははーっと大きく息を吐いた。
「……なるほどな。おかしいと思ったんだ。アルファはオメガにいったん付けられた番の絆を上書きすることができる。でも、アルファの性質として他のアルファの『所有物』に手を出すのにはすごく抵抗を感じるはずなんだ。争いになるから」
「こら、人間のことを所有物って言うなっ」
僕は肘でリョウスケを軽く小突いた。この程度は軽いじゃれあいなので、彼も受け止めて「わりぃ」とやんわり謝る。
「俺が燐太郎のことをモノだって思ってるわけじゃなくて、なんていうか、そういう説明が一般的だからさ。とにかく、番の絆を上書きすることは、そのオメガの相手であるアルファへの挑戦だけど、お前にその意識はなかったんだな。番になろうとしたわけじゃないから」
挑戦だから初対面のとき、リョウスケは僕に対して敵意を表していたのか、とようやく納得がいく。けれど。
「……番を守ろうとするとか、番の絆が上書きされようとしたら脅威に思うとか、それってアルファとしての性質だって説明しちゃっていいのかな? 本人の性格だったり、『そういうもの』だからついそう振る舞ったりしちゃうってことはないのかな?」
「そういうことは考えたことがなかったな。……だけど、今更そうやって分離できるものだって逃げたりはしない。俺はシンガーとして、アルファを売りにしてきたようなところがあるから」
その言葉に僕は何と答えたのだったか。間もなく家で飲む約束をしていたメンバーがやって来て、リョウスケの家はにぎやかになっていた。
「――ところで、水城さんはクロシェットさんの弟子なんだって?」
ゲームをしながらの飲み会で、その場に来ていたメンバーの一人が僕に尋ねる。三十代後半くらいの彼・英田さんは音楽プロデューサーだという。リョウスケのように人前に出る仕事ではないせいか、英田さんは一見ごく普通の勤め人のような風貌をしていた。
「弟子というのは大袈裟すぎると思います。僕は音楽教室の受講生の一人で、たまたま友達になっただけです」
「教えを受けたという意味では弟子みたいなものでしょ。作曲とか作詞とか、してるの?」
「してますよ。たまに燐太郎さんに見せてます。素人の手慰みだから、つまらない曲しか作ってませんけど」
僕はスマホに入れたDTM用ソフトを起動して、半年前に初めてリョウスケと対面した後に作曲した『すき焼き食べたい』の曲を流した。メロディーがごく単純な一分ほどの曲で、自分で作った歌詞を歌う僕の歌声つき。基本的に僕は音痴なのだけれど、曲の品質を高めるために歌声を調整するミックスという作業がやってみたくて、あえて自分で歌ったものだ。
作曲には小説に似ているところがある。曲はストーリーで、詞は台詞。表現に使うスキル自体は異なるけれど、作業の行程や狙った表現へ持って行くための思考法には共通点があるように思う。だから、技術不足でDTMソフトで狙いどおりの演奏を再現できないということはあるけれど、作曲の考え方そのものは予想したより馴染みやすかったのだ。
英田さんは、真面目に僕の歌を聞いて「初心者だけど基本が押さえられててるね」と感想をくれた。プロなら初心者の稚拙な作品には目もくれないかと思っていたが、意外とそうでもないらしい。
リョウスケや燐太郎さんに会うとき、彼らの傍にいる友人たちは英田さん以外でも音楽関係者が多かった。インディーズのバンドのメンバーだったり、作曲家やシンガーだったり。そんな彼らはときに僕の初心者そのものの曲を聴いて、感想をくれたり、曲作りについて教えてくれたりした。音楽業界なんて自分には無縁の異世界のように思っていたけれど、接してみれば意外に普通の人だった。
それでも、彼らの話を聞いていると、普通に会社勤めをしている僕とはやはり生きる世界が違う印象を受けた。彼らがいるのは華やかな世界で、ときに人気の芸能人と対談したり、プライベートで飲みにいったりすることがあるらしい。
そんな話を耳にしても、僕は華やかな世界をうらやましくはなかった。朝起きて、仕事をして、週に二日間は休みがあって。見る人から見ればつまらないかもしれないが、そういう淡々とリズムを刻むような生活が自分に合っている。それに何だか華やかな世界は現実感がなく、きちんと地面に立っている感じがしなくて妙な不安さえ覚えることがあった。
そんな根拠のない不安が次第に形を持ち始めたのはいつのことだろう。ご飯に行ったり、遊んだりするときに顔を合わせる燐太郎さんに、どことなく疲れた様子が見えるようになってきた。体調が悪そうというほどでもないのだが、笑顔が少なかったり、以前なら冗談を口にしていたであろうタイミングで黙っていたりと、初めはごく小さな違和感だった。
ゲームの合間、おつまみが切れて、僕が買い出しに行くことになった。酔いが回り初めていたから、外の風に当たれるのはちょうどいいと立候補したのだ。玄関で靴を履いていると、燐太郎さんが僕を追いかけてきた。
「一緒に行くよ。一人だと大変だろうから」
「……ありがとうございます」
親切な申し出に、付き合っていたときに二人で歩いた記憶の破片が意識の底から浮上してきて、胸に小さな傷を付ける。傷は傷でもほんの掠り傷だ。わずかな胸の痛みを顔には出さないようにして、僕は燐太郎さんに微笑みかけた。




