補い合う
どれくらいそうしていただろう。ふと部屋の空気が動く感覚があって、僕ははっとして顔を上げた。気づけば燐太郎さんがすぐ傍に立っていた。彼は僕の目をのぞき込みながら、耳を塞いでいた両手を外させる。その手の力は決して強引ではなかったけれど、僕は燐太郎さんの眼差しに諭されてされるがままに手を下ろした。
「今回の『コーライティング』で互いに補い合うのは、最初から織り込み済みなんだ。だから、一人ですべてを背負う必要はないんだよ」
燐太郎さんが僕の背中をさする。気がつけば僕は涙を流していた。そのとき初めて、記者の接触を受けてからずっと自分が不安だったことを悟る。燐太郎さんは僕が落ち着くまで、ずっと背を撫でてくれていた。
ひとしきり涙を流すと何だか気持ちが落ち着いてくる。間もなく泣きやんだ僕は、袖口でぐいと涙を拭って顔を上げた。気持ちを切り替えるように、燐太郎さんにもう大丈夫だと告げる。彼はよかったと微笑んで、手荷物からノートパソコンを取り出した。テーブルの上にそれを設置して、電源を入れる。通話アプリを立ち上げると、すぐにリョウスケが画面に現れた。
「えぇと……これはいったい……」
戸惑う僕に向かって、燐太郎さんは「実は三人で打ち合わせをしようと思って来たんだ」と答える。画面の向こうのリョウスケは、僕が泣いていたことに気づいたのだろう。けれど、それに触れることなくニッと笑ってみせた。
『よぉ、いい顔してるじゃねぇか』
「いい顔? そう? 隈があってひどい顔でしょ」
『だけど、覚悟が定まったって顔をしてる。好きだよ、俺はそういうの』
そのとき、燐太郎さんが「リョウスケ」とたしなめる声音で名前を呼んだ。
「打ち合わせを始めよう」
『分かってるさ』
呆然としている僕の前で、燐太郎さんとリョウスケは冷静に打ち合わせを始めた。画面に僕が作詞した歌詞を表示して、リョウスケが歌詞のとおり歌ったデモ音源を流す。繰り返し音源を流しながら、リョウスケは歌いにくい部分や歌詞の言葉が硬すぎる部分などを挙げていく。燐太郎さんは歌詞全体を見ながら、リョウスケの意見を元に修正案を挙げていく。
その様子を、僕は目を丸くして見ていた。
「すごい……。僕の味気ない歌詞が歌っぽくなっていく」
思いもかけない抽象的な比喩や踏韻であちこち彩られて、色気のない文章が『歌詞』へと変わっていく。
「お前が作詞してきた歌詞は、悪くなかったぜ」画面の中でリョウスケが言った。「作詞を覚えたのは一年前だって聞いたけど、それでちゃんと歌詞の上にストーリーを展開してるんだから大したものだ」
「そうだよ。鋭利君の作った歌詞は視点の切り替えやストーリーの展開もまとめられてるし、言葉の選びも悪くはない。ただこれは歌詞というより、どちらかと言うと小説みたいだね。ショートショートみたい」
燐太郎さんがディスプレイに映し出された僕の歌詞を指先で軽くなぞった。彼の言葉に、僕は息を呑む。高校生のとき初めて書いた小説を否定されて、アルファには向かないからと言われて。十年以上も忘れていた小説を、それでもまだ僕は忘れていないらしい。
なんだか不思議な気分で、僕は自分の書いた歌詞を眺める。
「あ、ここの言葉の言い換え、思いついたかも」
僕が代替のフレーズを口にすると、燐太郎さんとリョウスケはそれについて議論を始める。そんな風にして二時間が経ち、打ち合わせは終了になった。リョウスケが挨拶をして通話アプリから抜けていく。その間際にリョウスケが僕へ目を向けた。
『ごめんな、鋭利。お前まで巻き込んで苦労を掛けてる』
「違う。僕は巻き込まれたわけじゃない。リョウスケや燐太郎さんは大事な友達だから、二人と関わったことは何ひとつ後悔してないよ」
きっぱりとそう伝えれば、リョウスケは嬉しそうに笑ってみせてから通話を切った。
コーライティングで制作した楽曲が完成し、動画共有サイトへの投稿日も二週間後に決定した。この日、リョウスケは配信上で引退を宣言する予定になっている。
僕は落ち着かない気持ちで日々を過ごしていた。五月半ば頃からメディアの取材やネット上での職場特定行為などによって会社に居づらくなり、僕は休職状態にあった。それが曲の投稿日が決まったことで何となく気持ちの整理が付き、会社へ退職願いを提出したのだった。
本当なら退職するにしても転職先が決まった後に伝えるのが望ましいのだが、身辺が騒がしい今は転職活動もなかなか難しい。それでも、取材やネット上での特定行為から興味本位の電話やメールが会社に来ることもあり、迷惑を掛けているため働きつづけることはできそうにない。そこで、上司に相談して有給消化した上で翌月末での退職という形で、退職の手続きを取ることにした。
そのことを燐太郎さんとリョウスケに話したところ、暇ならば自分の仕事を手伝わないかと誘われた。リョウスケは音楽プロデュースに関わる会社を運営しているのだという。リョウスケ自身や燐太郎さんは、その会社に所属してマネジメントを委託している形らしい。僕はこれまで音楽や芸能関係の仕事を志望したことはなかった。実家とは没交渉ながらも、無意識のうちに堅実な両親の影響があるのかもしれない。
食べていくためには我がままは言っていられない。それでも、燐太郎さんが過去に一度、引退した理由や今回のメディアによる記事、そしてネットの反応を思えば人の注目を浴びる業界というのは恐ろしいものだと感じてしまうのだった。
会社に行くことはなくなり、転職活動のための準備を整える日々の中、僕は兄からのメッセージを受け取った。大学生活が終わる頃、アイドルの追っかけをはじめた僕を両親は不気味がって、腫れ物に触るような態度になっていった。それをいいことに僕は就職を期に家を出て、実家とはあまり行き来しなくなったのだ。もう二年間ほど、実家に里帰りをしていない。兄の連絡先も知っていたが、両親の希望どおり小児科医になって順風満帆な人生を歩んでいる彼とはさほど気が合わない。そのため互いに連絡を取り合うこともなかった。
その兄が、急に何の用なのか。気になって電話を掛けると、平日の昼間にもかかわらず兄が電話に出た。自分で電話を掛けた癖に少しびっくりする。
「兄さん? 急に電話してごめん。今日は休み?」
『あー……まぁ、休みかな。最近、いろいろあってちょっと休職してる』
「えっ? 兄さんが休職って何があったの?」
兄は医師として、熱心に仕事をしていた。高校生のときに花梨との婚約破棄を経験したことをのぞいて、彼の人生はおおむね順風満帆だったはずだ。そんな兄から返ってきた言葉が予想外すぎて、僕は思わず大きな声を上げる。
『どうってこともないけど……何となく疲れたんだ。お前の記事がネットに出ただろう? それが職場の上司に伝わったみたいでさ。嫌味を言われたからカッとなってキツめに反論したら、それが問題になった』
「えっ!? 僕の記事って、燐太郎さん――ネットシンガーで作曲家のクロシェットさんと抱き合ってたっていう、あの記事?」
『そう、それ。上司の身内にメディアの関係者がいたらしくって、そこから聞いたらしい。世間って狭いよな』
あれほど熱心だった小児科医としての仕事をできていないのに、兄はなんだか妙に飄々とした態度だ。
「僕のせいで、ごめん。……もう遅いかもしれないけど、僕がその上司の方に謝りにいこうか?」
『お前が謝る筋合いの話じゃない。生まれ直すには痛みが要る――これは俺が引き受けるべきものだ』
「なに? それ、どういうこと? 花梨も前に同じようなこと言ってたけど……」
『花梨が……そうか』兄はふっと笑うような吐息を漏らした。父の方針に従って生きてきたはずなのに、兄はそれに反する事態の渦中に在りながらも妙に穏やかだった。達観した態度と言えるかもしれない。『それより、もし父さんから帰省しろって言われても、しばらく帰ってくるなよ』
「どういうこと?」
『面倒なことになりそうだから、しばらく帰ってくるな。なに、心配ない。時間が経てばこっちも落ち着くからさ』
「それじゃ分からないよ、兄さん。説明してくれないと――」
僕は質問を重ねようとしたが、兄はさっさと通話を終了してしまった。そればかりか、時間をおいて再び電話を掛けてみても応じてくれない。僕を着信拒否にしたのだろうか。だが、直前の会話を思い出しても、兄は僕に怒ったり嫌悪したりしている様子はなかった。
いったいどうしたのだろう。訳が分からない。
あまりに異様な兄の様子が気になって、僕は妹の愛莉に電話を掛けてみた。愛莉は大学院生で家を出て大学近くで暮らしている。ただ、母親と仲のいい彼女はたびたび実家に帰っているから、何かしら兄の状況を知っているかもしれない。




