ラット
外へ出ると涼しい風が吹いてくる。今は十月。昼間は日差しが強く、暑いときもあるとはいえ、日が暮れれば外を歩くのに心地のよい気候だ。繁華街と違ってネオンの少ない住宅街の夜道を、秋の明るい月が照らしている。
僕と燐太郎さんは言葉少なにコンビニまでの道を歩いた。ときどき会っているとはいえ、二人きりになるのは久しぶりのことだ。別れたとはいえ、僕には初めての恋人。二人きりになれば距離感が分からなくて戸惑ってしまうのは、たぶん仕方のないことだろう。恋愛経験を重ねれば、いつかはこんな状況でも上手く立ち回れるのかもしれない。でも、今は他の誰かを好きになることはできそうになかった。リョウスケたちと交流を持つようになってから格段に初対面の人と会う機会が増えたとはいえ、だ。
それでも、聞くべきことは聞いておくべきだろうと思い、口を開く。
「燐太郎さんは、作曲活動に戻ってどうですか? もう以前の勘を取り戻しました?」そう聞いてから、これではあまりにも異動して元の部署に戻った人への話の振り方だなと気づく。けれど、他になんと言えばいいのか分からない。「その、生活が変わったので、いろいろ大変なんじゃないかなと思って。僕はたまに遊ぶだけだけど、リョウスケとかその周囲の人たちって普通の勤め人の生活リズムとは違うから」
「そうだね……。少し疲れてるかも」
そう微笑む燐太郎さんの表情は、何だか精彩を欠いている。思った以上に彼が疲れているのではないかと感じて、僕は眉をひそめた。リョウスケは燐太郎さんの傍にいて、どうしてこの状態を放置しているのだろう。
「大丈夫ですか? つらいならリョウスケに言った方がいいんじゃ……」
「リョウスケは関係ない。これは俺の問題だ。作曲家として復帰すると決めたのは俺自身なんだから」
そう言う燐太郎さんの声は穏やかだけれど、その奥にピンと張りつめた糸のようなものがあるように感じられた。触れればプツンと切れてしまいそうなか細い糸が。
――だめだ。この人は全然、大丈夫じゃない。
僕は帰ったら燐太郎さんのことを、リョウスケに話さなければと心を決める。二人が今、恋人関係にないにしても、いちばん近いところにいて仕事の繋がりもあるリョウスケが、仲間として燐太郎さんを助けるべきだ。
「分かりました。音楽業界のことは僕には分からないから、これ以上、口は出しません。とにかく、買い物を済ませて帰りましょ。……あ、僕、アイス食べたくなってきたな。燐太郎さんもどうです?」
「あ、ああ……うん。俺も――」
話が変わってほっとしたのか、燐太郎さんが表情を緩める。いつしか僕らは比較的、賑やかな通りに出ていて、目的のコンビニが目と鼻の先に見えてきていた。街の明るい照明が、燐太郎さんの顔を照らしている。このところ、顔を合わせるとき、燐太郎さんは薄くメイクをしていた。リョウスケや彼の友人たちもよく薄いメイクをしているから、業界的にそういう文化なのだろうか。
――やっぱり、いろいろ大変そうだな。
そう思ったときだった。前を歩いてきて、すれ違いかけた若い男二人がこちらを見て「あ」と声を上げる。
「あんた、ネットで女装して動画を上げてる『クロシェット』だろ? 前のライブ映像のとき、女装してなかったからその顔に見覚えがある」
「ほんとだ。たしか、オメガなんだよな? へぇ……」
男たちはニヤニヤしながら、嫌な目つきで燐太郎さんを眺めた。僕は彼らの視線を直接向けられたわけではないが、その眼差しに何だか背中がぞわぞわして肌が粟立つ。敵意とは異なる、蔑視と征服欲と性欲が複雑に入り混じったその目つきは、今まで自分が向けられたことのないものだった。
なんだ、これは。僕が呆然としている間に、男たちは近づいてきて僕らを囲む。二人は僕など目もくれず、燐太郎さんに絡みはじめた。
「なぁ、俺たちの相手をしてくれよ。オメガは淫乱で抱かれたがるって話じゃないか。ちょうどいい」
「俺たちもそっちも欲求を満たせる。いい話だろう?」
「――……」燐太郎さんは男たちを無視して僕に行った。「行こう? 早く戻らないとリョウスケたちが心配する」
「おっと、そうはいかねぇ。無視しないでくれよ」
歩きだそうとした燐太郎さんの進路を、男たちの片方が塞いでその肩に手を掛けた。その光景を目にした瞬間、僕の腹の底から激しい憤怒の感情が噴き出してくる。とっさに男の手を跳ねのけて、燐太郎さんと二人の間に割って入った。
「――どうするつもり? これ以上、絡んでくるなら警察を呼ぶけど」
低く唸るようにそう告げる。ただ怒っているのとは違う、威圧のこもった声音に相手は驚いたようだった。が、すぐに片方がニヤニヤと嫌な笑みを深める。
「お前、アルファか。それらしい雰囲気がなかったから、気づかなかった。『クロシェット』が番のリョウスケ以外のアルファと一緒にいたって拡散されたら、大変なことになるな」
そう言うと、もう一人の男がスマホを取り出して僕らをカメラに納めた。そのシャッター音に燐太郎さんははっきりと青ざめて、「やめろ」と手を伸ばす。しかし、仲間に阻まれてスマホを取り上げることができない。
「拡散されたくなければ、付いて来いよ。俺たちの相手をしろ。番持ちのオメガを抱くなんて、滅多にできることじゃないからな」
「そうそう。しかも、そこそこ名の売れてるオメガを抱けるなんて」
燐太郎さんは蒼白な顔でたたずんでいた。その表情には混乱や不安、恐れ、戸惑いがめまぐるしく浮かんで消える。「燐太郎さん、無視してもう行きましょう」と僕は小声で言ったが、彼は硬い表情のままだ。
「拡散されたら、大変なことになる」
「拡散されたからって何ですか。警察に行きましょう――」
僕がそう言っても燐太郎さんは動かなかった。「拡散されたら、また前と同じになる……」うつむいたまま、怯えたように呟いている。この状況が彼の中のトラウマか何かを蘇らせたのかもしれない。燐太郎さんが何を恐れているのか、僕には分からなかった。だって、こちらに疚しいことは何もないのだから。とはいえ、さすがに僕一人で成人男性を抱えて逃げることはできない。それなら、何とか男たちを追い払わないと。
意を決して僕は一歩前に出た。怯えて固まる燐太郎さんを背に庇いながら男たちをにらみつける。腹の底では相変わらず怒りが渦巻いていた。
「何だ? お前みたいな弱いアルファの威圧なんか、怖くねぇよ」
「そこをどけよ。俺たちは、アルファには興味はねぇんだ」
男の一人が僕の肩を掴む。その手を捉えてひねり上げた。「触るな。僕にもこの人にも」腹の底からこみ上げる強い怒りのままに、僕はありったけの威圧を視線に乗せた。全身の産毛が逆立つような奇妙な感覚。こんなに強い怒りを感じたのは、おそらく生まれて初めてのことだ。怒りに支配されながら、僕は頭の冷静な部分で自分の状態を奇妙に思った。まるで自分が自分から切り離されたかのようだ――。
こちらの様子の変化に、男たちはニヤついていた表情を変える。僕は肩を掴んでいた男を思い切り突き放した。
「こいつ……ヤべぇ。アルファらしくないから分からなかったが、この威圧、強いアルファじゃねぇか」
「っ……。だから何だよ」
「強いアルファと揉めるのは面倒だ。行こうぜ」
突き放された男をもう一方が宥めるようにして、二人はその場から去っていく。本来ならほっとする場面のはずなのに、どうしてか僕の怒りは収まらず去っていく二人を追いかけようとした。
と、腕を掴まれる。振り返れば燐太郎さんが必死の表情で僕を引き留めていた。普通ならそこで立ち止まって彼と話をしようとしただろう。けれど、今の僕の状態ではなかった。激しい怒りと敵意がいまだに消えず、男たちを追いかけようとしてしまう。
「放して、燐太郎さん。あいつらを逃がしたくない!」
「落ち着いて。行っちゃダメだ」
「でも、あいつら、燐太郎さんを侮辱した……! このままで済ませるわけにはいかないよっ。だってあいつら――あいつらは――僕のものを」
「鋭利君っ!」燐太郎さんが鋭い声で僕を呼んだ。「落ち着いて、鋭利君」
「僕は冷静です」
なおも僕が奴らを追いかけようとすると、燐太郎さんは僕を引き寄せて強く抱きしめた。香水とその奥に香る燐太郎さんの匂いが嗅覚を刺激する。その匂いさえ僕の異様な興奮状態を煽るスパイスにしかならなかった。すべて振り払って駆けだしたい衝動に、僕は燐太郎さんの腕の中で激しくもがく。
その動きに比例して、燐太郎さんの僕を抱きしめる腕はいっそう強くなった。
「鋭利君……!」
「――……っ。放してっ!」
「ダメだ! 君は――今の君はいわゆる『ラット』の状態……アルファとしての本能の高まりで、攻撃性が暴走してるんだっ!」
叫ぶように燐太郎さんが言う。その言葉を聞いた瞬間、僕はギクリとして動きを止めた。ラット、アルファの性質、攻撃性……。頭を支配していた怒りが急速に引いていくのが自分でも分かる。体から熱が引いて指先が冷え、引いていく血の気とは逆に吐き気がこみ上げてきた。
アルファとしての性質なんて、言ってしまえば自分の暴力性が抑えられない人間の言い訳だと思っていた。自分はそれを嫌悪しているから、アルファらしく他人を威圧したり、暴力的になったりしないだろうと。だけど、好きな人が危険になったとき、僕はあっさりと自分の中にあった暴力へのハードルを飛び越えたし、過剰な怒りに乗っかって他人に暴力を振るおうとした。
やはり、僕の中には持って生まれた副性が――アルファがいる。どれだけアルファであることを嫌がっても、オメガになりたがっても、逃れようもなく僕はアルファなんだ。
――こんな僕は、いなくなればいいのに……!
「――りく……鋭利君!」燐太郎さんの声で僕は我に返った。燐太郎さんは背後から僕を抱きしめたまま、前に回した手で宥めるようにお腹をさする。「大丈夫。もう大丈夫だから。落ち着いて……」
燐太郎さんの声を聞きながら、僕は荒い呼吸を繰り返した。きっと今はひどい顔をしているだろう。誰にも今の自分の表情を見られたくなくて、僕はうつむく。
そのときだった。
「燐太郎と鋭利……?」リョウスケの声が聞こえる。顔を上げると通りの向こうにリョウスケと英田さんの姿が見えた。「帰りが遅いから迎えに来たんだけど、いったい何があった……?」
その言葉で、僕ははっとして燐太郎さんの腕を振り払った。「ごめん。用事ができた」とっさにそれだけ言って僕は身を翻す。三人に背を向けて一目散にその場を走り去った。
自宅に帰り着いたのは午前二時前のことだった。スマホには燐太郎さんやリョウスケからの連絡が来ていたが、目を通す気にはなれなかった。ひどく疲れていたけれど、何とかシャワーを浴びて寝支度をしても眠りは訪れない。ベッドに横になり、目を閉じると男たちに絡まれて怒りに我を忘れたときのことが甦ってきた。
アルファらしい自分が、吐き気を催すほど気持ち悪い。消し去ってしまいたい。それは十代の頃からのお馴染みの自己嫌悪で、嫌悪感そのものは激しくとも付き合い方は分かっている。数日間、耐えれば消えはしなくとも薄まっていくものだ。耐えろ、と頭の冷静な部分が言っていた。
さすがにいつまでも連絡を無視するわけにはいかないから、燐太郎さんにだけ「ごめんなさい」と一言だけメッセージを送る。今の状況で謝罪が適切な言葉なのかどうかは分からない。だけど、他にふさわしい言葉が見つけられなかった。




