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初投稿です、よろしくお願いいたします。
朝六時。
梶若葉は、自室の深緑色のカーテンの隙間から差し込んでくる朝日の気配で目を覚ました。
寝起きは良い方だと自負している若葉は、それでもボンヤリした頭をどうにか動かしながらゆっくりと上半身を起こし、温かい毛布から引き抜いた足をベッドから降ろす。今日はシーツを洗濯すると上司が言っていたので、ベッドから剥がして丸め、ベッド脇の床に転がし、そして、すぐにカーテンを左右に開けた。
紺色の夜からオレンジの朝焼けに向かってグラデーションが出来た南の空の下に、庭園の緑がよく映える。冬の時期なので花はそう多くはないが、濃い色の葉の間からピンク色の山茶花がいくつも咲いているのが若葉の部屋からよく見えた。
本当ならばこのまま窓を開けて部屋にこもった空気を入れ換えたいところなのだが、もこもことした厚手の生地の冬用パジャマを着ているとはいえ、2月の朝の外気が冷えている時間帯に窓を開ける勇気はない。
朝日を浴びたことで完全に頭が覚醒したことを自覚しながら、身支度を始めた。
部屋に備え付けの洗面所で顔を洗い、仕事着である白のブラウスと黒のロングワンピース、白いフリルエプロンと黒のタイツに着替える。正直に言えば動きにくく汚れやすい服装だと思うのだが、上司がどうしてもと定めたらしいこの職場の制服だ。デザインはクラシカルでシンプル、若葉も好みなのでまあ文句はない。よい手触りの生地はきっと高価なのだろうが、借り受けている支給品であるので、そこは考えないことにしている。襟元に黒い(きっとこれも高価な)リボンを結ぶと着替えは完了だ。次はヘアセットをするべく、ブラシを持って鏡の前に立つ。肩上辺りで切られた若葉の髪の毛は黒く艶やかではあるのだが、癖を持って右に左に跳ねあがっていることに少しだけ眉をひそめた。この癖毛とはそれこそ生まれたときからの付き合いなのだがなかなかどうして言うことを聞いてくれない。バラの香りのするスプレーを髪に馴染ませ、なんとかブラシを通していく。 まっすぐにすることは最早不可能なので、ゆるくパーマをかけたように見せるよう敢えてくしゃくしゃと握りこんだ。繰り返すこと20分、ようやく誰に見られても大丈夫なくらいに落ち着いてきたことに若葉は疲労と安堵の息をついた。
時計を見ると、朝礼まであと一時間強。
それまでに化粧をして朝食を終えなければならない。
化粧は中学の頃から興味本位で母親のものにこっそり手をつけていたので、二十歳の女性にしては知識も経験もある方だ。
この10年でこの国の治安も物流もうなぎ登りによくなっているので若葉のような末端の庶民でも気軽に化粧品を購入することが出来るようになってきた。おかげで若い女性が(加えておしゃれに興味がある男性も)化粧をすることが最近の主流だ。
大豆を絞って作った自作の化粧水を顔や首に塗り、眉を切り揃え整えて、特殊な鉱物で出来た粉を顔全体に散らす。露店で奮発して買った貴重な紅花のチークを指で少し頬に乗せ、最後に色付きオイルリップを唇に塗れば完成だ。数十年前に外敵に国が襲われる前まではもっと化粧品にバリエーションがあったようだが、今の時代はこれが限界。
鏡のなかには、寝起きのボンヤリした女から、これから仕事に行くしっかりとした女性に成った若葉がいた。
うん、よし、今日も可愛い。
仕上げに制服の一つであるカチューシャを頭頂部より少し前に差し込んだ若葉は一昔前のアイドルのように自分を脳内で褒め、鏡の中の自分と目を合わせて頷く。お得意の笑顔を浮かべればもう完璧。どこに出しても恥ずかしくない美女の出来上がりだ。
現在二十歳の若葉が小学生になった頃からW不倫をしていて、年に二度も帰ってくるか来ないかといった両親がくれたのは、生きるのに困らないギリギリの額の生活費と、滅多に風邪をひかない健康な体と、一般的に可愛いと言われる部類の容姿だけだった。
それだけは両親に感謝している。
ただし、生活費に関しては義務教育が終わる15歳の3月でスパッと打ち切られたので、若葉は高校へ進学せずアルバイトを掛け持ちして自分一人分の生計を立ててきた。この激動の時代に産まれたこどもたちには、残念ながら高等教育をうけないという選択肢を選ぶことも多いので、若葉はすんなりフリーター人生を決めることが出来た。
少しだけ、ほんの少しだけ、学力コンプレックスがあることは秘密だ。
この職場は通算五ヶ所目の働き口で、2ヶ月前に始めた仕事。
とあるお金持ちのお屋敷の家事手伝い。いわゆる『使用人』という、貧富の差が激しい現代では珍しくない仕事だ。
住み込み・制服貸し出し・三食おやつ付きというこの時代では破格の待遇に迷わず面接を受け、奇跡的に採用されて今に至る。
もう親にお伺いを立てながら高額の家賃を支払いつつ、あの誰も帰ってこない家に住み続けることはないのだと思うと、晴れ晴れとした気持ちで一杯になる。20年住んで、思い出も無いわけではないので寂しい気持ちもあるにはあったが、後ろ髪引かれるほどの未練はなかった。
先日貰ったお給料は今までのどの仕事よりも高額で、封筒を持つ手が震え目が飛び出る思いがしたものだ。これは次の休みの日に有名高級菓子店に行けそうだと思わず口の端が機嫌よくつり上がる。
若葉の人生目標の一つは一人暮らしをしながら自由気ままに生きていくことなので、そのための貯金も必要だが、初任給くらい贅沢をしたっていいじゃないか。
ルンルン気分で黒いルームシューズを履き、自室のドアを内側に開くと、深紅の絨毯が敷かれた廊下に出る。丸めたシーツと衣類などの洗濯物を籠に入れてドアの前に置いておくと洗濯係が洗っておくシステムなので、その通りにしておいた。まあ、恐らく自分で洗うことになるとは思うのだが。
現在の時刻は6時45分。
廊下にある大きめの窓のカーテンを開けて見える景色は、端の方に朝焼けが黄色く残る程度で、青空が広がっていた。薄く雲がかかっている箇所もあるが、今日もいい天気になりそうだ。天気がいいと大きな洗濯物も思い切りを干せるので仕事の進みが早くて助かる。
廊下を進んで調理場のドアを開けると、先輩たちは既に調理場の横にある6人がけのダイニングの席について、話をしながら朝食に手をつけていた。この職場では準備が出来た者から食べ始めることになっているので若葉にもちろん異存はない。
「おはようございます」
努めて明るい声で挨拶をすると、
「おはようございます」
「おはようございます、若葉ちゃん」
向かい合って食事をしていた上司と先輩が挨拶をを返してくる。
向かって左手に座る三つ編みの若い女性が若葉のすぐ上の先輩の内田夏蓮、右手に座るひっつめ髪の妙齢の女性が若葉の直属の上司、使用人頭の高橋真耶だ。
朝食は自分でパンを焼いて鍋に入ったスープを温めて、冷蔵庫の作り置きのサラダを出すことになっている。飲み物も紅茶かコーヒーを自らが準備する方式となっているからだ。屋敷内の食事に関して全てを一手に引き受けている男性がいるのだが、彼は住み込みではなく通いのコックなので、使用人たちの朝食や夜食などは前日帰る前に作りおいてくれる。
このご時世、美味しくて暖かいものが食べられるのは贅沢だとされるので、朝食含め使用人への豪華な賄いは若葉がこの職場を気に入っている要因の一つだ。
手早く自分の分の朝食を盛り付ける。飲み物はストレートの紅茶にした。スープの温めやパンをトーストにする作業は先にきていた二人が多めに準備していてくれたようなのでお礼を言いながら夏蓮の隣に座ると、お互い様という意味合いの返事が異口同音で返ってきた。
「今日もいいお天気だけど、寒くなりそうね」
と夏蓮がおっとりと話しかけてくるので、若葉もそうですねとゆっくり返しながらトーストを口に運ぶ。
「今日は征一郎様がお帰りになる前にシーツを洗濯してしまいましょう」
食後のコーヒーを口に運ぶ高橋が硬質な話し方で今日の予定を口にするので、若葉も急いでトーストを飲み込んでから生真面目にはいと返事をした。
高橋はもう食べ終えてしまったようで皿は空だ。夏蓮は半分くらいまだ残っているのできっと高橋のほうが先にここにやってきたのだろう。
先ほど朝食の準備中に食器が一揃え既に洗われているのを見かけたので、きっとあれはこの屋敷で一番の早起きの、執事の桜木だろうと当たりをつける。
桜木はこの屋敷の主人が生まれる前から主人の父親に仕えていたらしいので、職場内では一番の古株ということになる。片目だけにかけるメガネ…所謂モノクルという珍しい道具を常用し、いつも白髪交じりの前髪を後ろに撫で付けて隙の無い様子の桜木は誰よりも早く起きて敷地内を早朝から見回るのを日課にしている。きっと今ごろは屋敷内を見終わって庭に出ているのではないかと若葉はぼんやり考えた。
隙の無い、といえば斜向かいに座る高橋もそうだ。
誰も髪を下ろしたところを見たことのない黒髪は一糸の乱れもなく高い位置でお団子状に結われており、年齢不詳の容貌には毎日必ずしっかりと化粧が施されている。
高橋こそ、使用人の女性が例のワンピースとエプロンを着ることを主人にゴリ押しした人物だという逸話を聞いたのはつい先日だ。この真面目一徹の上司がどういう経緯で可愛らしい制服を制定したのかとても気になるところではあったが、なかなかきっかけが掴めず聞けずにいる。
「若葉さん」
「はい!」
食事の手を止めること無く上司に対してとりとめのない思いを馳せていた時に突然当の本人から話しかけられて背筋を伸ばして返事を返す。
顔をあげると、高橋は食べ終えた食器を持って立ち上がりこちらを見下ろしていた。無表情の視線が自分の顔に鋭く突き刺さった気がして咄嗟に謝りかけるが、特に悪いことはしていないと思い直し謝罪の言葉を飲み込む。
それに、冷たく見える高橋は実際そこまで怒っても呆れてもいないことはこの1ヶ月で少し理解し始めていた。
高橋は調理場の洗い場のすぐ上に付けられた時計にチラリと視線を向けたあと、素っ気なく若葉にこう告げる。
「あと十分で朝礼です。必ず間に合わせるように」
「っ、わかりました!」
ボンヤリしているうちに朝礼の時間が迫ってきていたようだ。
行儀悪く見えないように気を付けながらトーストをスープで流し込んでいると、手早く食器を洗い終えた高橋は足音を立てること無く調理場を出ていく。上司の目がなくなったところで大口を開けてコールスローサラダを口に押し込んでいると小さく笑った夏蓮が立ち上がった。
「若葉ちゃん、ギリギリでもご飯は残さないわよね」
「ここのご飯、美味しいので」
嘘偽りない事実だ。
通いのコックである斉藤哲は少し…かなり変わったところはあるものの気さくかつ腕のいい料理人だ。手料理に馴染みのない若葉にとって人生でトップクラスに美味しいもの。残すだなんてとんでもない。
それでも朝礼に遅刻するわけにはいかないので味わう暇もなく完食して立ち上がる。明日はもっと急いで身支度を済ませなければと考えながら洗い場に食器を運ぶと夏蓮が自分の食器を洗い終えたところだった。微笑みながらこちらに片手を差し出してくる。
「ついでに洗ってあげる」
「え、そんな!自分の分は自分で…」
「急がなきゃいけないでしょう?」
「…ありがとうございます、夏蓮さん」
いいえ、と食器を受け取った夏蓮は手際よく食器を泡のついた布で擦り始めた。甘えるところは甘えておくのが上手い生き方だと経験上学んでいる若葉は、泡をすすぐ係に徹する。
若葉の6つ年上のこの先輩は、この職場で若葉に一番年が近い女性だと言う縁で教育係を受け持ってくれていた。親は政府に勤めているという育ちのよい女性だが、とても気さくで教え方も上手く、こうして若葉のような新人にも優しく接してくれている。たっぷりした艶やかなアッシュブラウンの髪を緩く三つ編みに編んで左右にたらした、穏やかでおっとりしたように見えるこの先輩は、一つ年下の旦那さんに彼女から一目惚れをして、押して押して押しまくって結婚したらしい。人は見かけによらないものだと思ったが、こういうタイプの方が強かなのかもしれないと思い直す。
おかげであっという間に洗い終えることが出来たので、二人で一緒に朝礼が行われる玄関ホールへ向かうことにした。
調理場のドアを閉めて、道すがら廊下の大きな窓から外を見ると、もう朝焼けは残っておらず、所々に雲が浮かぶ青空のみが広がっている。真冬の時期だからか太陽が登るのが早い。太陽の強い光に目を反らした若葉は、二歩先を行く夏蓮の後を小走りで追いかけた。
玄関ホールに到着したのは朝礼開始五分前。既に使用人頭の高橋は定位置である、白地に薄紅色の幾何学模様が描かれた陶磁器の花瓶の横におり、背中にまるで定規が刺さっているかのようにピシッと姿勢よく立っている。花瓶の中には昨日と変わらず生花のアネモネが飾られており、窓からの陽光を受けて赤く輝いていた。あとで水を変えなければならないと考えながら若葉は夏蓮の右横、高橋の目の前に立つ。
高橋の隣には執事の桜木がこれまた姿勢良く立っていた。黒髪のなかに白髪が見え隠れしている様も彼の魅力の一つとして溶け込んでいる。黒い三つ揃いのスーツと臙脂色のネクタイは彼の仕事着で、ネクタイは毎日変わるもののいつも通り皺一つない見事な出で立ちは彼の実直で少し堅めの印象を際立たせていた。夏蓮と若葉がおはようございますと口を揃えて挨拶をすると、おはようと重低音の返事と微笑みが返ってきた。
「おはよっすー」
あくびをしながら気の抜けた夏蓮の隣に立ったのは背が高く、白いコックコートを着た男性。帽子代わりの黒いバンダナは左手に握りこんでくしゃくしゃになっている。
「おはようございます斉藤さん、遅刻しなくてすんだようですね、今日は」
「寒くて早めに目が覚めたんすよ、今日は」
少しイヤミ混じりの高橋の挨拶に怯むこと無くヒラヒラと右手を降りながら緩く応えるのは通いの料理人、斉藤哲。無精髭と坊主頭がトレードマークの35歳独身(自分で言っていたので間違いないはず)だ。
隣に立つ一回り前後年下の女性二人に目を向けると少し得意そうな笑みを浮かべ、髭を撫でながら軽口を開いた。
「よぉ、お嬢さん方。今朝のメシはどうだった?」
「美味しかったですよ」
「いつも哲さんのご飯は美味しいです」
無難に優雅に返答する夏蓮の横から、にっこり笑って若葉も答えた。文句無しに美味しかったのもあるし、ぶっちゃけ年上の男性には愛想良くしておくに越したことはない。少しの打算を込めた若葉の笑顔に気を良くしたのか、斉藤の目尻が心なしか下がる。
「そりゃあ良かった!サラダのドレッシングには一工夫したんだが気がついたか?」
その一言に若葉の笑顔が一時停止し、若葉の右隣では夏蓮が身を固くする気配がした。
この1ヶ月で、斉藤について学んだことがひとつある。
「わかんねぇかー、若い子には難しかったかなー。なんと!地下街で見つけたクミンってスパイスを混ぜこんだんだよ!海外でしか手に入らねぇめちゃくちゃ貴重なもんらしくて、いやー、あれはいい買い物だったわ」
「スパイス…?」
「斉藤くん、それはいくらしたのかな?」
「一瓶さんま…おっといけね」
斉藤の『一工夫』には、目が飛び出るほどのお金がかかっているということだ。
若葉の嫌な予感を込めた聞き返しに重ねた桜木の質問に素直に答えようとした斉藤は慌てて自分の口を塞いだが、時既に遅し。桜木が重苦しいため息をついた横で高橋がエプロンのポケットから出したメモに冷静に何かを書き付けた。
「斉藤さんのお給料から三万円引いておきます」
「うおおおおおせめて半額…!」
「なりません」
少し粗暴でルーズなところはあれど、これさえなければ腕がよく気さくないい料理人なのに、と若葉は張り付けた笑顔の奥で苦く思う。
そのとき
「すみません、遅くなりました!」
がっかりと肩を落とした斉藤の向こう、庭に繋がる屋敷内の通用門がバタンと騒がしく開き、バタバタと小柄な男性が駆け込んできた。
薄い茶色の猫っ毛に大きな瞳。童顔といっても差し支えない男性は、桜木と同じく黒いスーツに身を包んでいるものの、桜木とは違い高校生のブレザーのように見えるのは彼の若々しさからか、それとも騒がしさからか。息も整わないまま桜木の隣に立った彼は、ギリギリ一分前だ、との桜木の声にすみませんと身を小さくした。
内田智也。執事見習いの歴とした成人男性であり、夏蓮の夫に当たる。とても優しくて真面目でよく気がつく所謂『いいひと』なのだが、どうも要領が悪いところがあるようでいつも慌てている印象があった。妻である夏蓮は智也のギリギリ到着についてどう思っているのかそっと右隣を盗み見たが、夏蓮は穏やかに微笑んでいるだけだった。まあ、正直この光景はいつものことなので動揺などしていたら身が持たないだろう。
智也の息が整う前に、玄関の柱時計がカチッと音を立てて7時半を差した。
朝礼の時間だ。
出席すべき人員が揃っているのを視線のみで確認した高橋が口を開く。
「では、本日の朝礼を始めます。本日午後4時頃、征一郎様が三日間の都外視察からお戻りになる予定です。それまでに掃除と洗濯を済ませ、主人を出迎える準備をしておくように。夏蓮さんと若葉さん、シーツの洗濯と玄関・廊下・窓の掃除をお願いします。時間厳守です」
「はい」
「はい」
「斉藤さん、征一郎様がお戻りになられた際の軽食の準備を。恐らくリアム様もご一緒でしょうから、ご要望次第でお出し出来るよう作る量は多めに。くれぐれも、余計なものは買わないようにお願いしますね」
「へーい」
「智也さん、征一郎様の居室と書斎の整理と掃除、郵便物のチェックをしてください。征一郎様のお着替えの準備も。全て終えたら桜木さんの指示を仰いでください」
「はいっ」
「よろしい。桜木さんからは何かございますか?」
「いや、特にないよ」
「承知しました。では、各自持ち場についてください。本日もよろしくお願い致します」
「「「「よろしくお願い致します」」」」
声を揃えて頭を下げ、それぞれが持ち場に向かって動き出す。若葉の仕事は洗濯と掃除。同じ仕事を言い渡された夏蓮に目を向けると、小首を傾げた穏やかな茶色い瞳がこちらを見ていた。
「わたしは洗濯の準備をしておくわね。若葉ちゃんは洗濯物を集めてきてくれる?」
「わかりました!」
笑顔で答えて足早に歩き出す。
この屋敷には主人の部屋を筆頭に来客用・住み込みの使用人のものなど10ほど部屋がある。使用人達個人の洗濯物は廊下に出してあるとはいえすべての洗濯物を集めて回るだけでも一手間だ。まずは主人の部屋がある二階へ向かった。
その部屋で寝るべきただ一人は、二日前の朝に出たきり帰ってきていないのでシーツその他は汚れていないだろうが、例えば埃が積もっていたり、以前見たときは汚れていたことに気付けていなかったり、何があるかわからないので洗濯前にチェックを怠ってはならないと教育係から教わった。
階段を上がり、一番奥の大きな扉が応接室、この更に奥が、屋敷の主人の居室だ。
ドアをゆっくり押し開けた若葉はカーテンが閉められて薄暗い室内を見て感嘆の息をついた。
「いつ見ても、広いなー…」
30畳弱もある部屋の奥に進み、床から天井まである深紅の重たい遮光カーテンを開けると大量の太陽の光が差し込んできて思わず目を細める。振り返ってベッドを見るが、汚れどころか皺一つない。冬用の分厚い掛け布団も、主人が出掛けた後すぐに干したおかげで染みひとつなくふわふわに見える。洗濯の必要がなければ、後のベッドメイク等は部屋のことをまかされている智也の仕事だ。一応、備え付けの風呂場のドアも開けてタオルやマットをチェックする。風呂にお湯を溜めて浸かる=大変な贅沢だという認識の一般人若葉からすれば、個人の部屋に風呂場があること自体まず信じられない。さすがは『あの戦い』を勝ち抜いた英雄は金を持っているとどこか他人事のように考えた。
『紅丸征一郎』
それが若葉の雇い主でありこの屋敷の主人である人物の名前だ。
この都でその名を知らないものはいないだろう。
ちょうど10年前、この国は滅亡の危機にあった。若葉のようななんの力もない国民には詳しいことはわからないのだが、それまで都を守ってくれていた『白の塔の姫』が裏切って国を滅ぼそうとした。それを命懸けで阻止したのが『紅丸征一郎』を含めた15人の異能力を持った未成年の少年少女だったと言う。
都を囲んでいた結界が消え去り、平和だったはずの街が、噂でしか知らなかったモンスターに蹂躙、破壊されて泣きながら逃げ惑った恐怖の記憶が若葉の記憶のなかに甦った。当然のように若葉の実の両親は側におらず、優しい近所のおばさんが一緒に手をつないで走ってくれたのだが、それでも立ちはだかるモンスターの姿に絶望したのをよく覚えている。
十歳の若葉を含めた数十人の街の人たちを背に庇ってくれたのは、揃いの軍服を来た、少しだけ年上の子どもに見えた…ような気がする。如何せん10年前のことであるし、その後も生活が安定するまで混乱を極めたのでその頃のことは記憶が薄い。それでも、英雄として報道された燃えるような赤い髪の美青年が『紅丸征一郎』であることはさすがに覚えているし、リーダー格の『紅丸征一郎』『藤野翡翠』『一條天鞠』の三人の名前はもはや一般常識だ。だからこの屋敷の求人を見つけたときは、あの紅丸かと目を丸くしたものだ。
『紅丸征一郎』はこの国の首相の息子であることも取沙汰されていたし、英雄たちには多額の報償金が出たことも噂に聞いている。それは個人の居室に風呂増設するくらい当たり前に近いのだろうと肩をすくめ、風呂場のドアをそっと閉めた。
*********
午後17時。太陽は山の向こうに沈んで、橙色の夕焼けを西の空に残したまま全体が薄暗くなってきたころ。
屋敷正面の重苦しい門が開かれる音が響き、玄関ホールに立った若葉は改めて背筋を伸ばした。馬の蹄の音とともにガラガラガラと車輪の音がする。
すぐ外で馬車の音が止まり、桜木の「おかえりなさいませ」の声と足音が同時に聞こえた。
若葉たちと共に並び立っていた智也が進み出て扉を目一杯開き、外に向かって溌剌とした笑顔を向ける。
「おかえりなさいませ、征一郎様!」
そこに在るのは、目の覚めるような赤。
太陽のような、圧倒的な存在感。
「ああ、ただいま」
屋敷の主人、紅丸征一郎の帰宅だ。
「おかえりなさいませ」
目が眩んだようにまばたきを繰り返していた若葉は一瞬の後、高橋の落ち着いた挨拶で我に返った。先輩たちに習って両手を臍の位置で揃え、頭を下げる。そして三秒心のなかで数えてから、元の姿勢に戻った。この職場で最初に習った『主への挨拶の仕方』だ。
屋敷の主人ー紅丸征一郎は、使用人全員を見渡して安心したように目を細めた後、ただいま、と繰り返した。
「上で少し休む。何か軽く食べるものを部屋まで持ってきてくれないか、リアムの分も頼む」
「承知しました、すぐに」
「え、俺もう帰りたいんですけど」
「まあそう言うな、行くぞ」
智也に手持ちの荷物を渡した征一郎がそう告げるのを聞いて、若葉は心のなかで高橋に賞賛を送った。朝礼で斉藤に告げた指示通りだ。さすが女傑と言われる使用人頭、帰宅直後の主人の行動はお見通しらしい。
征一郎の後ろから青い瞳の、これまた整った顔の青年が心なしか疲れた顔で玄関ホールに入ってきた。
石竹・リアム・グッドイナフ。
幼いころから征一郎に付いているらしい彼もまた、『あの戦い』で活躍した一人だ。今は征一郎の秘書として働いているので、この屋敷にも頻繁に顔を見せる。チョコレートブラウン色の髪は昔はかなり長かったと桜木が言っていたが、今はさっぱり短く切っている。が、きっと長髪も様になっていたことだろうと思う。だってすごく甘い顔立ちをしているのだ。これは絶対にモテる、と若葉は確信している。どうやれ既婚者らしいがそれでも言い寄る人間は数多くいることだろう。
堂々と歩いて通りすぎる征一郎と、「ったくよー…お邪魔します」と桜木以下使用人に声をかけるリアムを見えなくなるまで見送って、若葉は息をついた。
(ああ、相変わらず顔がいいなぁ。)
外面的には微笑みを張り付けたまま、ぼんやりと若葉は思う。
若葉よりも頭一つ以上は高い身長、痩せて見えるが鍛えられているであろう身体、意思の強そうな太めの眉。顔立ちは真面目さが滲み出ているものの、バランスよく整っている
そして特徴的なのはその髪と瞳の色だった。短く整えてある少し硬そうな髪、異能力を持つもの特有の鮮やかな髪色は赤。切れ長の二重瞼がまばたきするたびに煌めく瞳はピジョンブラッドを思わせる深紅。
彼がかつて率いたチームの名は『紅』であったという。紅丸という彼の姓といい、名は体を表しすぎではないだろうか。
使用人として随分近くに立つことになったものの、紅丸征一郎という人間は若葉にとって雲の上の存在。歌って踊るアイドルと同じようなものなのだ。
かっこいい、素敵、しかし手は届かないし近づこうとも思わない。
主人への直接の応対は大体が桜木か高橋、智也が行う。お声をかけられることはたまにはあるが、雇われてまだ1ヶ月、お話ししたことは数えるほどしかない。
若葉はそのことに不満は全くなかった。若葉は若葉に与えられた仕事を、するだけだ。
なので。
頼まれてしまったら、征一郎の部屋までお茶を運ぶことも、仕事のうちなのだ。
例え、掃除洗濯以外の仕事が初めてでも。
主人に直接何かをするのは本当にはじめてなので、緊張で心なしか手がふるえるのだが、絶対絶対溢すわけにはいかない。居室前の応接室の扉の前で深呼吸をすると、隣に立った夏蓮が小さく笑って小声で話しかけてきた。
「大丈夫よ、配膳は桜木さんか智也くんがしてくれるから、私たちはこれを手渡すだけ」
夏蓮の持つお盆にはティーセット、若葉の持つお盆にはサンドイッチ。
一人で持ちきれる量ではないし、高橋は電話対応中、斉藤は夕飯の支度、桜木と智也は部屋のなかで待機中だ。
そう、渡すだけ。
夏蓮の言葉ににっこり笑って頷くが、内心心臓が鳴りやまない。いや、鳴りやんでも困るのだが。
こっそりテンパっている若葉を尻目に、片手で器用にお盆を抱えた夏蓮がドアをノックする。
「失礼致します、軽食をお持ち致しました」
「ああ、ありがとう、入ってくれ」
中から征一郎の促しがあり、開いたドアから智也が顔を出した。
自分の旦那に小さく目配せをした夏蓮が先に入り、若葉も続いて入る。
10畳ほどの応接室には皮貼りの黒いソファがコの字型に置かれ、奥に征一郎が、右側にリアムが座っていた。制一郎の背後に立っていた桜木が配膳のためにこちらに歩いてきたので、予定どおりサンドイッチを手渡す。夏蓮が持っていたティーセットは、ドアを閉めた智也が受け取ってドア脇の銀色の配膳台に乗せた。
「夏蓮、桜木のモノクルはお前の意見を聞いたものだそうだな。相変わらずいいセンスだ」
「恐れ入ります、制一郎様。アンティークのものを運良く見つけましたもので、おすすめ致しました」
夏蓮は芸術的センスに優れている。家具や食器、細かい装飾品に至るまで桜木や高橋から相談を受けることもあるらしい。
先輩が誉められるとなぜか若葉まで誇らしいが、もちろん、顔には出さない。使用人足るもの、余計な口出し・顔出しはしないものだ。おまけに若葉は新人だ、大人しく静かにしているに限る。
あとはお辞儀をして部屋を辞するだけ。
だったのだが。
「ああ、若葉。仕事には慣れたか?」
「えっ」
正直、声をかけられるだなんて思っていなかった。
緊張しきった心臓が跳ねる。
しまった、やっちゃった。すぐにお返事しなくちゃ。
あわてて得意の微笑みを張りつける。とにかく愛想よく笑って。焦ってはだめ。緊張は声にも顔にも出さないように。
脳裏に両親の顔がちらつく。
余計なことはしない、言わない。
わたしは笑っていればそれでいいの。
「はい、皆さんよくしてくださるので、楽しく働かせていただいてます」
「そうか、それは良かった」
目をまっすぐ見つめられた気がして若葉は怯みそうになるが、なんとか笑顔を崩さずまっすぐ立っていられた。よろけなかった自分を誉めてあげたい。
若葉は未だに信じられないのだが、征一郎は極端に視力が弱い。どうやら『あの戦い』で大ケガを負った後遺症らしいが、全くそんな素振りは見られない。目の前のものはなんとか見えるが、大体がボヤけて見えるので桜木や智也、リアムが補助をしているらしい。だが、歩みは危なげないし、手すりは使うものの躓いたり手探りをしていたりといった行動は見たことがない。
若葉の目がどこにあるのかも見えていないはずなのに、見つめられている気がするのも声を頼りに目を向けているに過ぎないのだろう。
でも。
(圧が、すごい)
決して怖くはない。怯えもない。
だが、なんというか、有無を言わせないところがあるというか。
この主人の前で堂々と立っていられるのにはまだ修行が必要そうだ。
今は当たり障りのない答えしか返せない。
サンドイッチを取り分けた小皿を征一郎の目の前に置いた桜木がにこやかに口を開いた。
「彼女はよくやってくれていますよ。丁寧で細かいところまで気がつきます。倉庫の中を使いやすく並べかえてくれたり、宅配や郵便の者と上手くコミュニケーションを取ったり、花瓶の水を変えるタイミングもこちらから頼む前にやってくれておりました」
「そうなのか」
若葉は、桜木がそこまで見ていてくれたことに驚いていた。この1ヶ月で若葉の動きまでよく把握してくれたものだ。もしかしたら、高橋や夏蓮たちからの伝聞もあるのかもしれないが。
ストレートに誉められるのは、少し、恥ずかしい。
小さな声で「大したことはしてません」と返すと、「謙遜しなくていい」と桜木から穏やかに告げられる。
次いで、征一郎も若葉から目を外すこと無く口を開いた。
「ありがとう、助かる。お前は飲みこみが早いんだな。これからもよろしく頼む」
嬉しい、嬉しい。
認められることは素直に嬉しい。
空になったお盆を胸に抱えた若葉は、自然な喜びが胸を満たすのを無意識に感じて、いつもの貼り付けた笑顔が緩むのを堪えられなかった。
「…ありがとうございます」
いつもだったら、人好きのする笑顔で弾むように、ある種のあざとさを含めて礼を伝えたはずだったのに。子どものようにはにかんだ返事になってしまったことを即座に若葉は自覚し、恥じた。
征一郎に認められることが、こんなにも強い喜びに結び付くとは思わなかった。
何故か。
理由を深く考えることは、無意識下で憚られた。
部屋を出た若葉は夏蓮のからかいを受けつつ浮き立つ心を抑えるのに必死で、征一郎がその時どんな顔をしていたのか、それを見たリアムと桜木がどんな言葉をかけたのか、気にかける余裕がなかったのだった。
読んでくださりありがとうございました。
次回投稿は未定ですが…なるべく…はやく…




