第17話 透明な壁の向こう側
管理局の「通行不能区域」は、ダンジョンの至るところにある。
立て看板と黄色いテープで仕切られた境界線。
「魔力不安定区域につき立入禁止」「構造上の危険あり、調査中」。
そういう文言が書いてある。探索者もハイエナも、誰もそこには踏み込まない。管理局の職員が定期的に確認に来るが、それだけだ。
春山はその境界線を、3週間前から観察していた。
きっかけは、Dブロックの端に設けられた通行不能区域だった。立て看板の向こうに、薄暗い通路が続いている。50メートルほど先で曲がっているため、奥が見えない。管理局の記録では「魔力不安定区域。壁面崩落の危険あり、無期限閉鎖」となっていた。
春山がその境界線に近づいたとき、奇妙な感触があった。
テープの手前1メートルほどのところで、空気の質感が変わった。踏み込もうとすると、足が自然に止まる。強制されているわけではない。見えない透明な壁があるのではない。自分の脳が、その1センチ先へ足を下ろす命令を、静かに拒否している。実行しようとして、実行できない。
前職で出来の悪いシステムが、処理の途中で止まって返してくるエラーと、同じ味がした。
通行禁止フラグ。
そんなものがこの岩場にあるはずがない、と春山は思った。しかしこの感触は、どうしてもそれ以外の言葉で表現できなかった。
神秘でも、魔力の壁でもない。何か別の、もっと無機質な拒絶だった。
「……なるほど」
春山はノートを開いた。
管理局は「魔力不安定」と記録している。しかし実際にここで感じるのは、魔力の揺らぎではなく、この「停止の感触」だ。もし管理局の職員たちも同じ感触を体験していたなら、それを「魔力の不安定さ」と解釈したのは自然な判断かもしれない。あるいは、正体がわからないまま「危険」と分類して、それで終わりにした。
どちらにせよ、誰もその先を調べていない。
春山はノートに書き込んだ。
『仮説:通行不能区域の境界線は、何らかの拒絶処理による通行禁止の可能性がある。管理局は魔力不安定と記録しているが、感触が一致しない。前職のエラー挙動に類似』
書いてから、少し考えた。
前にイレギュラー個体の魔物と遭遇した時の、前後に進めなくなったあの感触と、この感触は似ている。あのときは個体の消滅とともに解消された。ならば今回も、特定の入力によって解除できる可能性がある。
問題は、何をトリガーにするかだ。
以前は、物理演算のフリーズが原因だった。今回は常時この状態が維持されている。常時維持されているということは、何らかの処理が継続して走っているということだ。その処理を、ウィンドウ開閉で割り込ませる。
世界の歯車が噛み合う瞬間の、わずかな軋みに自分を滑り込ませる。前職でバグまみれのシステムを強引に動かしていた時と同じ、不快なほどの静寂がそこにはあった。
「……やってみるか」
ウィンドウを開閉した。
存在の輪郭が、コンマ数秒だけ曖昧になる感触。
その状態で、一歩踏み出した。
足が、境界線を越えた。
「……抜けた」
振り返ると、黄色いテープが後ろにある。自分は今、通行不能区域の内側に立っていた。
管理局が「魔力不安定」と恐れる場所を、ただの「設定ミス」として踏み越える。神秘を神秘として扱わない自らの歪んだ視界が、今の自分に道を開いている。それはかつて、物流センターのシステムを「ただの数字の羅列」としか見なさなかった冷徹さと、同質のものだった。
春山は、その事実を特に掘り下げなかった。
周囲を確認する。崩落の危険があるという壁面は、見た目には問題がなかった。岩盤の亀裂は確かにあるが、Cブロックで普通に見る程度のものだ。
「……未開発ゾーンだ」
通路を進んだ。
曲がり角を越えると、空間が広がっていた。
Cブロックの清掃区画の倍以上の広さがある。天井が高く、壁面の岩盤が複雑な形をしている。照明はないが、岩盤のあちこちに淡い光を放つ鉱石が露出していて、通路全体がうっすらと青白く照らされていた。
足音が、響きすぎた。
Cブロックでは、足音は岩盤と砂利に吸い込まれて、こもった音になる。しかしここでは、一歩ごとに反響が鋭く返ってくる。吸音されない、裸の反響だ。誰も歩くことを想定されていない場所特有の音だった。
床に、魔石が転がっていた。
誰も回収していない魔石が、あちこちに散らばっている。しかしその散らばり方が、Cブロックとは違った。
規則正しかった。
岩盤から生えているものも、床に転がっているものも、等間隔で並んでいた。まるで最初からそこに置かれたかのような、人工的な整列だ。自然に生成されたものが、なぜこんなに均等に並ぶのか。
春山は立ち止まって、その並びを見た。
また、あの感触が来た。
前職で倉庫の棚を確認するとき、補充されたばかりの商品が完璧に整列しているのを見たときの感触。人の手が入った後のような、整然さ。しかしここには人が来ていない。管理局の記録でも、この区画への立入は記録されていない。
「……誰かが、補充した?」
違う、と春山はすぐに思い直した。
誰かが補充したのではなく、補充されたように見える並びで、生成された。最初からこの配置で、出現した。
「……気持ち悪いな」
独り言が、反響して返ってきた。
回収を始めた。
純度が高い。Cブロックで拾うものより明らかに上だ。スタックせずとも、このままで十分な価値がある。袋が、みるみる重くなっていく。
1時間後、通路を引き返した。
境界線を越えて、外側に戻った。
黄色いテープの前に立つと、また足が自然に止まる感触があった。内側から外側への移動は、制限されていない。拒絶処理は「外から内」への進入だけを止めている。内側の者を閉じ込める設計にはなっていない。
一方通行だ。
出口だけあって入口がない。あるいは、内側から出るための非常口として設定されていたが、対応する入口の処理が機能していない。
いずれにせよ、設計として不完全だ。
ノートに書き込んだ。
『進入確認。拒絶処理は外から内のみ。内から外は自由。未開発区域内にて高純度魔石および自然生成素材を確認。ドロップ配置に規則性あり、均等間隔。自然生成とは思えない整列。原因不明、要観察』
その日の夜、神戸まで車を走らせた。
国道43号線から阪神高速に乗る。助手席の回収袋の中に、今日の未開発ゾーンからの回収品が入っていた。
発車してすぐ、スマートフォンが震えた。
通知かと思って見ると、電波表示がノイズのように乱れていた。一瞬で元に戻る。気のせいかもしれない。しかし春山はシートの下に袋を移した。
念のためだ。
合理的な根拠はない。しかし、本来誰も入ったことのない場所から持ち出したものを、車の中に積んでいる。それだけのことだ。
夜の阪神高速は流れが良かった。
大阪湾が、高架の向こうに黒く広がっている。工場の明かりが、水面に滲んでいる。春山は前を見ながら、今日の回収量をざっと計算した。
一人の清掃員が一生かけて稼ぐ額を、数ヶ月で追い越してしまう。そんな、計算機のバグのような数字が脳裏をよぎった。
型落ちの軽自動車が、夜の高速を走っている。外から見れば、ただの安い車だ。しかし今この車には、一人の人間の「適正な報酬」を遥かに逸脱した価値が、ただの荷物として積まれている。
春山はその事実を、特に感慨なく確認した。
前職のとき、深夜のサーバールームで1人でバグを潰していた。誰も知らない場所で、誰も気づかない修正を加えていた。今やっていることも、構造は同じだ。
誰も知らない場所で、誰も気づかないものを、静かに回収している。
高速を降り、国道2号線との合流地点に差し掛かると、そこには見慣れた赤いテールの列が続いていた。
深夜近くになっても解消されない、この街の慢性的な目詰まり。
「……今日も、混んでるな」
標準語が静かに落ちた。
神戸の夜景が、フロントガラスに広がっていた。




