幕間 残響のエラーログ
事務所に残っているのは、本田1人だった。
スタッフは全員帰宅している。ライカも、ユウリも、セイラも、それぞれの場所へ戻った。蛍光灯を半分落とした事務所に、モニターの光だけが青白く広がっている。
本田はタブレットを手に取って、Eブロックの環境ログをスクロールした。
画面には、魔力濃度の推移グラフが表示されていた。横軸が時刻、縦軸が濃度。
ライカたちが侵入した時点から、グラフは緩やかな上昇曲線を描いている。戦闘が始まると、曲線の傾きが急になる。イレギュラー個体が出現した時点で、濃度が急上昇する。ライカたちが離脱した直後から、グラフは下降に転じる。
ここまでは、想定の範囲内だ。
しかし本田が見ているのは、その先だった。
ライカ達が離脱し、春山が1人で孤立した後のデータ。その区間に、異常がある。
通常、魔物が消滅するとき、魔力濃度のグラフはなだらかな下降曲線を描く。霧散するように散逸していくエネルギーが、時間をかけて減衰していく。どんな強力な個体でも、消えるときは緩やかだ。それがこれまでの全ての観測データが示していた法則だった。
しかしEブロックのログでは、ある一点で反応が垂直に落ちていた。
なだらかな曲線が、突然、絶壁になっている。
グラフの形が、崖から落ちたように見えた。
一瞬で、消えた。
霧散ではなく、切断。エネルギーが散逸したのではなく、存在を消去されたかのような形だ。
本田はそのグラフを、しばらく見ていた。
「……切断」
声に出したつもりはなかったが、出ていた。
このログの形は、今まで見たことがない。20年以上、ダンジョンの環境データを見続けてきた。イレギュラー個体の出現記録も、国内外のデータベースを参照してきた。しかしこの形は、どのデータとも一致しない。
本田はタブレットを机に置いて、代わりに1枚のクリアファイルを手に取った。
春山の調査書だ。
ハイエナの随行員として指名する際、本田は全員の経歴を確認する。習慣だ。現場に入れる人間の情報は、事前に把握しておく。
『春山 享 34歳 前職 大手IT企業インフラ保守部門 物流センターの在庫管理システム保守担当 AI移行によりリストラ 現在、南港ダンジョン清掃員』
経歴は、至って平凡だった。
戦闘経験なし。魔法適性なし。スキルは【メニュー高速化】。
測定センターが「ゴミスキル」と分類する種類の能力だ。
本田が春山を指名したのは、1つの理由からだった。獲物に群がらない。指示があるまで動かない。現場で余計な動きをしない。本田が必要としているのは、ライカたちの動きを邪魔しない「静かなパーツ」だった。春山はその条件を完璧に満たしていた。
しかし。
「本田さん、お疲れ様です」
扉が開いて、ライカが入ってきた。
手にコーヒー缶を2つ持っている。1つを本田の机に置いた。
「深夜まで何を見てるんですか」
「ログの確認です」
「Eブロックの?」
「ええ」
ライカがモニターのグラフを覗き込んだ。
「これ、何がおかしいんですか」
「個体が消えた瞬間の形が、通常と違います」
ライカがグラフを見た。春山の名は出さなかった。しかしライカは、あの通路で何が起きたかを知っている。春山が孤立したこと、個体が消えたこと、空間が安定したこと。
「……春山さん、次も指名ですよね?」
明るい声だった。しかし本田には、その声の底に何かが混じっているのが分かった。
本田はタブレットのグラフを閉じた。代わりに春山の調査書を見た。
前職、在庫管理システム保守担当。
システムの「保守」。
本田は少し考えてから、クリアファイルを閉じた。
「……ええ、指名です」
短く答えた。
ライカが「よかった」と言って、自分のコーヒーを飲んだ。
本田はモニターに視線を戻した。
絶壁のグラフが、まだ画面に残っていた。
研ぎ場の扉を、店主が開けた。
堺の旧市街の路地裏。表通りからは見えない場所に、その工房はあった。
研ぎ師の奥村とは、素材を扱い始めた20年前からの付き合いだ。変わった素材が手に入ったとき、いつもここへ持ってくる。
「夜分にすまんな、奥村さん」
「ええよ。何を持ってきたんや」
店主は布袋から爪を取り出して、作業台の上に置いた。
奥村が爪を手に取った。六十代の研ぎ師で、指先の皮膚が分厚くなっている。長年、刃物と素材を触り続けた手だ。その手が、爪の表面を静かに撫でた。
「硬いな」
「ああ。どう思う」
奥村は爪を光に透かした。表面に、細く不規則な線が走っている。奥村の目が細くなった。
「ちょっと削らせてぇな」
グラインダーのスイッチを入れた。
刃が回転する音が工房に響く。奥村が爪の端をグラインダーに当てた。
火花が散った。
1秒、2秒。
奥村がグラインダーを止めた。削れた面を確認する。指先で触れる。眉が動いた。
「……おかしいぞ、これ」
「何が」
「硬いだけやないわ」
奥村が削れた断面を、ルーペで覗いた。
「密度にムラがなさすぎるんや。普通、魔物のドロップ品には必ず生物特有の個体差がある。同じ種類でもな、根元と先端で硬さが違うし、成長の痕跡みたいなもんが必ず残る。天然もんには、絶対それがあるんや」
奥村がルーペを下ろして、店主を見た。
「けど、これにはそれがない。全体が均質すぎる。……まるで、設計図通りに分子を並べたみたいやな」
「設計図通り?」
「天然の魔物からこんなんが出るかいな。どこぞのメーカーが粒子レベルで圧縮した『精錬品』の横流しちゃうか。大手ギルドが開発してる、新型の加工素材にそっくりや」
店主は黙って爪を見た。
精錬品。加工素材。横流し。
しかし、違う。あの男から受け取ったのだ。
型落ちの軽自動車で来た、地味な中年男。作業着の汚れが板についていて、余計なことを一切しゃべらなかった。「Cブロックで拾った」と言った。目が、嘘をついている種類の目ではなかった。
ただ、「何かを言っていない」目だった。
「精錬品じゃない。拾いもんだと言っとった」
「拾いもん? Cブロックで? 嘘言いな」
奥村が、信じられないという顔をした。
「あんな観光客でも入れるような場所で、こんなんが出るわけないやろ」
「出ないはずなんだがな」
店主は爪を受け取って、布袋に戻した。
あの男の顔を思い出す。
春山、という名前だったはずだ。領収書を出さなかったので、記録には残っていない。ただ、顔は覚えている。目の色を、覚えている。
あの目は、宝物を隠している人間の目ではなかった。
しかし、とんでもない何かを知っている人間の目だった。
「……あの男、とんでもない鉱脈を隠し持っているのかもしれんな」
店主は呟いた。
奥村がグラインダーの電源を落とした。工房が静かになった。
「また持ってくるかもしれんのか」
「わからん。ただ」
店主は布袋を手の中で握った。
「来たら、今度はもう少し詳しく聞いてみる」
奥村が頷いた。
工房の外、路地裏に夜風が通った。
堺の夜は、静かだった。




