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10 頬の痛み

「おはようございます」


 書記長は痛ましげに息を呑んだ後、案じるように尋ねてきた。それは三日ぶりの出勤だった。


「ディディ、怪我をしたそうだな。どうしたのだね? 転んだのかね?」


「酔ったぺポロに殴られました。これでも少しはマシになったんですよ」


「そうか。あいつは総監のお気に入りなのだよ。粗野で自己中心的で攻撃的だが、ああいうのが戦場では役に立つのだよ」


 確かにそうなのかもしれない。


 あいつは殴られて気絶したというのにピンピンしている。


 書記長が灰色の瞳の奥を絞りながらディディの腫れた顔を見守っている。


 きっと、懸命に痛みをこらえているディディを不憫に思っているのだろう。


「無理はしなくてよろしい。今日のところは帰って休みなさい」


「平気ですよ。今日こそはハレムに向かいますね。ジゼル様の御様子を記録したいんです」


 ハレムへと向かうとセルディーが悲鳴に近い声で叫んだ。


「どうしたんだい!」


 ディディが来るのを心待ちにしていたらしい。ソワソワしたように言ったのだ。


「イーダ、食事を運んでおくれよ」


 すると、すべて心得ていますとばかりにイーダがしとやかに藍色のスボンの裾を揺らしながら頷いた。


 男性の前では女達はベールで髪を隠すのだが、ここはハレムなので隠す必要は無い。


「イーダの髪型ってセルディーに似てるね」


「あの子があたいの髪を結い上げているからね。髪型も似るんだよ。ていうか、あたい達、身長も体型も似てるよね」


 イーダの貝殻を象った銀製の耳飾りに見覚えがあった。あれは、王妃との会食の日にセルディーが身に付けていたものである。もしかしたら、セルディーがプレゼントしたのかもしれない。


「お待たせしました」 


 イーダが昼食を運び込むと、ディディのお腹が素直に鳴った。羊肉の内臓の腸詰。鶏肉のスープ。丸いパン。床にはホカホカの御馳走が並んでいる。


 やがて、イーダが立ち去り、二人だけになると、早速、事情を話したのだ。


「やだねー。ペポロは、あんたの店でも暴れたのかい? あたいも、あいつには手を焼いたよ」


「あなたも、あいつの被害に遭ったことがあるの?」


「あいつは、オッパイのでかい腰周りがモッチリとした女が好きなんだよ。気の毒な事に、あたいの先輩が殴られたのさ。自信がない奴に限って態度がデカイからイヤだよ! 駱駝のオッパイをしゃぶりやがれってんだ」


 さすが娼婦という感じの毒を吐いている。


「あいつが酔っ払って一人で夜道を歩いている時に後ろから飛び蹴りをしてやったことがある。泥の中に顔、突っ込んでグーグー寝ていたよ。背中を踏んで歩いたおかげで、新調した衣裳の裾が汚れなくて済んださ。あはは!」


「大胆だね」


「ていうか、ああいう奴に真正面から向かってどーすんのさ? 人の話なんて聞くもんかよ! 弱い者の話を聞く耳を持つ奴は少ないよ。レイ王子みたいに知性のある人は聞いてくれるけどね」


 確かにそうかもしれない。これまでのことを振り返りながら、しみじみと呟いた。


「レイ王子って不思議な人だね。でも、秘密主義なところもあるかもしれないよね」


「そうかねぇ。純粋で真面目な人だよ」


 ディディは、セルディーと王子の馴れ初めが気になって仕方がない。いつから付き合っているのだろう。


「セルディーガ元気そうで良かったよ。書記長様のところに戻るね。今、仕事が忙しいの。また明日もここに来るからね」


 ディディは御馳走様と言ってから退出した。ハレムの中庭が見える回廊を進んでいると前方から誰か歩いて来た。


「えっ?」


 似ている。うそっ。一瞬、セルディーと間違いそうになった。


 擦れ違いざまに顔を確認すると、やはり、その娘は侍女のイーダだった。


(さすがに、近くで見ると違いは明確なんだけど、離れたところから見ると双子みたいに似てるのね)


 彼女は猫のミルクと餌の入った器を手にしていた。


 猫のお世話をしてくれているようで何よりだ。


 ディディと目が合うと彼女は会釈しながら淡く微笑んだ。


 しずしずと通り過ぎると、気紛れな猫のように身体をしならせながら回廊の向こうの建物へと入ったのだった。


              ☆


 デイディは、毎日のようにハレムを訪れている。実際のところは、女同士で寛いでいるだけなのだ。思えば、昔から、セルディーは奔放な娘だった。


『ディディ、一緒に草叢でおしっこしようよ。あたい、山羊の泣き真似が上手いんだよ。めぇーーーー。めぇーーーーーー』


 おしっこをしながら大声で山羊の物真似を披露していたっけ。


『ほらよ、サボテンの実だよ。うめぇよ。とっとと食べな』


 あれこれと世話を焼いてくれていた。そして、今も、同じように向き合って食べ物を分け合っている。セルディーは甘い物に目が無いのだ。


「はぁー、こりゃ、最高にうめぇ」


 セルディーは器の底に溜まっている氷菓子のピスタチオの粉を匙ですくっている。


(奔放なセルディーとレイ王子って、不思議なカップルだわ。レイ王子の私生活って、書記長様が記された伝記を読んでも、内面まではよく分からないのよね。聡明で活発な少年だったみたいだけど、今は、何だか屈折しているのよね)


 ディディは、その顔を見つめながら、前から知りたかったことを聞いてみる。


「ジゼル、あなたは、普段、レイ王子とどんな話をするの?」


 すると、セルディーは困惑したように目を細めてボソッと告げた。


「本物のジゼルがあたいのことをジゼルと呼びかけるなんておかしいよ。セルディーって呼びな」


「でも、侍女たちが聞いているもしれないよ」


「心配ないさ。遠くの部屋に追いやっているからね。猫ちゃんがゲロを吐いて汚した籠と首輪を洗っているところなのさ。侍女のことなんだけどね、あんたのおかげで、あいつらに感謝される立場になったんだよ」


 何のことなのかと思いきや……。男女交際の実技に関して身振り手振りを交えて伝授してあげたというのだ。


「一番年上のイーダって娘が喜んでいたよ。みんな、男と付き合ったことがないんだって。キスのいろはを教えてやったよ。子供の頃から、クソ退屈なハレムにいたら身体も心も干からびちまうよ」 


 ガハハ笑った後、セルディーは、そっとディディの頬に手を添えて瞳を細めた。しんみりした声だった。


「あんた、まだ痣は残ってるね……」


「うん。そうだね」


「そう言えば、あたい、街にいた頃、ペポロに飛び蹴りした話をしたことがあるよ。そしたら、王子は、ものすごく笑っていた。あたい、自分の武勇伝を聞かせることが多いかな。あの人って笑うのが好きなんだよね」


 意外だった。ディディは不思議そうに目を丸める。


「あたしは、あの人が嫌味をぶっこいている印象しかないけどなぁ」


 レイ王子の笑顔……。セルディーだけに見せる顔なのだろうか。複雑な顔つきのディディに対して、セルディーは、どこか可笑しそうに目元を緩めている


「確かに、あんたに対しては、あの人、ちょっと威張っているかもしれないよね。いつも、どこかぎこちないよね。でも逆に言うと、あんたのことを意識しているって事だ」


 ディティは悪い意味に受け取っていた。


(警戒しているってことなのかな? 怪しい奴だと思われているのね)


 話しているうちに胃の辺りが苦しくなってきた。今夜の食事はおいしかった。それなのに急に気分が悪くなるとは妙だ。レイ王子の居住区に入ってすぐに濃密な匂いがしたのだが、あれは何だったのだろう。


「気のせいかな? 廊下が甘い匂いで一杯なの。なんていうか、南国の花を煮詰めたみたいな匂いがする」


「気のせいじゃないさ。。あの女の匂いが鼻に残って気持ち悪いんだわ。猫ちゃんも吐いちまったよ」


「あの女って?」


「ばばぁが送り込んできた女だよ。絶世の美女の名前はニバルってんだ。あいつが来てから胸が苦しいんだよ」


 ニバルは蕎麦以外の穀物は実らないような山岳地帯の女だという。


「ヤクという動物の背に乗って山奥から来たのさ。近寄らない方がいいよ。食事を運んだイーダ達も気分が悪そうにしているよ。いやぁ、参ったよ」


「吐く……?」


 もしかして異国の疫病か何かを移されたという事なのだろうか?


 歴史書を読むことで色んなことが見えてくる。


 一千年前。アスベールに侵略者が押し寄せた。その直後、謎の疫病が流行り大勢が亡くなったという。


 しかし、ニバルは王妃の贈答品。まさか、疫病に感染した女をハレムに連れて来るとは思えないが、用心に越したことはない。とりあえず、ニバルの顔を見に行くことにしたのである。


「すみません。ぼ、僕はディディと申します」


 確かに妙な臭いが漂っている。息苦しく感じながらも部屋に近づくと足元が不安定に左右に揺れるような錯覚に陥った。


 そのまま何度か、ニバルに声をかけると部屋からヒラリと出てきた。


「□○☆※☆☆」


 よく分からない言葉を早口で発している。ディディは気圧されたように後ずさる。黒髪。褐色の肌。大きな胸と大きな尻が見事で豊満という言葉が似合う艶やかな大人の女性だ。


 さぁ、私の胸で眠りなさいと言わんばかりに腕を広げている。


 いきなり、ニバルが腕を広げて抱きついてきた。間髪入れずに濃密に口付けられている。突然のことに驚いてしまい、ディディは怯えたように腰を引く。


「なっ……!」


 初めてのキスが豊満な美女が相手! そんなバカな……。息が詰まり、クラクラしてきた。力が抜けた。フッとよろめくと、母親が子供を慈しむようにディディを抱き止めて頭を撫でた。


 ニバルの身体から発する甘い匂いは何だろ。正体不明だ。


 強烈だった。これは生理的にうけつけない匂いだ。拒否したいが、彼女はアズベール語を理解していない。博識な書記長様でさえも会話は無理だろう。それにしても、この女は男を見たら抱きつくように教育されているのだろうか。


 愛しげに、頬をさすりながらディディの唇に再び顔を寄せようとしている。いやいや、それは困る!


「違いますよ! 僕は王子じゃありませんよ! 王子じゃないんですってば……」


 離れなければならない。しかし、息が苦しくて一人で立っていられない。


(な、何なのよ。苦しいよ!)


 逃げるようにニバルの部屋から離れて、セルディーの部屋まで戻ろうとしていたというのに視界が乱れてきた。


 どうして! なぜか、急に足に力が入らなくなっている。廊下の途中で膝が崩れ落ちている。どうしよう。色彩がザーッと揺れて薄くれていく。光の渦の先端が千切れてるように回転しながら消えている。


 苦しい。苦しい。もう、無理だ。喉が痺れて呼吸が出来なくなってきた。足に力が入らない。


(こんな異国の地で、ニバルは言葉も通じない相手と……)


 ディディはガタガタと小刻みに震えた。なぜ、こんなにも苦しいのだろう? 身体が思うように動かせない。病気を移されたのだとしても早過ぎるではないか。


 どうして誰も出てこないのだろう。声が掠れて何も言えやしない。助けて……。足元がグニャリと不安定に揺れて意識の底がパラパラと粉砕して崩れていく。


(ああ、もう駄目だわ。どうしよう……)


 気付くと、ディディは汗びっしょりの状態で四柱の寝台に横たわっていた。


 青、緑、白、緑。幾何学模様のタイルで彩られた壁。蜂の巣を思わせる天井の飾りが豪華だ。綺麗な布団の上にいるみたいなのだが……。


 枕元のテーブルには、銅製の盆とクリスタルの水差しと銀製の盤が置かれていた。


 ふと、壁際の長椅子から誰かが立ち上がる気配がした。フアリと優しい気配と共に白檀の香りが舞い降りてくる。


「気が付いたのか?」


 金色の髪に青い瞳。相変わらず壮麗な王子が労わりに満ちた眼差しで、こちらを覗き込んでいる。


(レイ王子?)


 幻覚なのではないかしらと思い、試しに彼の頬に右手の指を伸ばしていくと、彼は、ディディの右手を両手で包むように握った。ディディは半身を起そうと努力するか、腹部に圧力がかかった弾みでウッと吐き気をもよおしていた。爆発寸前で我慢できない。


「いいから、ここに吐いてしまえ」


 銀製の大きな盤を喉元に差し出してくれている。盤を通り越しておおっぴらに嘔吐していた。王子の美しい衣服の袖口に嘔吐物が降りかかってしまっている。


「ゲホッっ!」


 また吐いた。たちまち、キーンッと頭を締め付けられたかのような痛みが走る。胃が捻れるような痛みが辛過ぎる。喋ることもままならない。


「ディディ、無理はするな。そのまま寝ていろ……」


 真剣な眼差しだった。壊れ物に触れるようにしてディディの手を握りしめている。


「指先の感覚はあるか? 目は見えているのか? 足はちゃんと動くのか? 足し算は出来るのか?」


 王子は慎重に確認していた。そして、無事だと分かると王子は心からホッとしたように囁いた。


「良かった……。どうやら、重度の麻痺は出ていないようだな」


 王子が、両手でディディの頬を包み込み、自分の子供に接するように優しい声で囁いている。


「あと少し見つけるのが遅かったなら死んでいたかもしれない。間に合ってよかった」


 ヒシッと強くディディを抱擁した。


 先刻、王子は涙をこらえるような表情を浮かべていた。


 抱きしめられた瞬間、王子の切ない気持ちが、彼の体温と一緒に押し寄せてきた。


 どうやら、自分は、かなり危険な状況に陥っていたらしい。 


      

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