63◆決戦――希望を失った者
――ああ、久しいな。
三百年ぶりに肌で直接風を受けたとき、ファブス・レクスが抱いた感想はその程度のものだった。
封じられていようといまいと、やることには変わりない。今はただ〝絶望〟の苦痛から逃れるため、絶望を食らうのみ。
だが、今回は趣が少々異なる。
なにせ地に堕ちて初めて、この身を滅ぼす可能性と対峙するのだ。
人の手で神は殺しきれない。
しかし彼らは、あろうことかこの身の一部を宿し、疑似的な神となったのだ。
まさか切り離した分身に裏切られようとは。長く生きていれば、不測の事態は起こるものだ。
本来なら人が神の力を得れば、反動で体が耐えきれない。異なる魔力系統であるため、体が『異物』と認識して拒否反応を示すためだ。
が、彼らは『死』を予め質とすることで、それを克服した。
悪竜を倒す、との制約を果たせば良し。そうでなければ、彼らには強制的な死が待っている。
決死の覚悟。
これまで挑んできた勇者たちも同じ気持ちだったろうが、彼らはむしろ死を予約したことで、清々しいまでに伸び伸びと、生き生きと動き回っていた。
脚を抉られた。
カウンターで放った尾による殴打は意味を成さない。
首を斬られた。
五つを駆使して叩き落そうとするも、わずかな隙間をかいくぐられる。
ああ、痛いな。
実に心地よい痛みだ。
日々、刻々と受ける『絶望』の痛みに比べれば、『生』を実感できる分、心地よい。だからこそ、『死』が間近であるのが身に染みる。
――認めよう。
この戦いは、自身の敗北で決着する。
行動は常に〝彼〟に先読みされ、それを〝姉妹〟たちから模倣しただけの意識共有ネットワークで瞬時に伝えられるのだ。
こちらの攻撃は届かない。
いずれエルフの少女は疲労から集中が乱れるだろうが、それをカバーするだけの力量が他の者たちには備わっている。
そも、時間切れであるのはむしろこちら側。
〝彼〟が動いた。
今世、当代の勇者メル・ライルートが、風の道を駆け上がっていく。
どうやら見つけたらしい。
我が弱点を。
ここに至り、ファブス・レクスは感心し、敬服した。
いくら〝神の眼〟を持っていようと、人の身でありながら神の内側を覗くのは自殺行為だ。
混沌の呪いを、自らの意思で受け続けるようなもの。
事実、陽に向かって走る少年の髪は真っ白に色が抜けていた。壮絶な苦痛を受けたろうに、口の端にはうっすら笑みをたたえて駆けている。
――認めよう。
頭上から白刃を振り下ろす少年を見据える。
最後の悪あがきにと、瘴気を弾丸にして撃ち放つも、『勇者の剣』の無敵効果でまったく意味を成さなかった。
――諸君らの、勝利である。
額に剣が突き立てられた。深々と刺さった剣を、少年は容赦なく滑らせる。額は大きく割られ、心が露わになった。
七色に輝く光玉が、最高神の残り滓であり、悪竜の本体だ。
もはやなす術はない。
そこに『神性』を宿した攻撃が加えられれば、この巨躯は維持できず、崩壊する。
いや、それを待たず、行き場を失くした膨大な魔力は暴走し、数キロ先のエナトス火山をも巻きこむ規模で、付近一帯を消滅させるほどの大爆発が起きるのだ。
けっきょく、最後まで地上に残った大地母神ペリアナ・セルピアはその事実を語らなかったようだ。
倒しても『死』。倒さなくても『死』。
彼らはこの戦いに勝利するが、同時にその命も潰える。
少年も『勇者の剣』の無敵効果を使ってしまった。
この場で生き残れるのは、一人としていない。
語り部のいない結末。
いや、おそらく妖精王は覗いているだろう。であれば、彼らの偉業にも意味はあるか。
「なに達観してんだよ、お前」
神の心を暴いた少年が、呆れたように言った。
「そんなの、ペリちゃんがポロッと零しちゃったから知ってたよ。でもな、俺は誰も死なせるつもりはない。ああ、お前だけは例外だ。悪いけど、一度死んでくれ」
『な、にを……?』
「へえ、神様でもわからないことはあるんだな。いや、ペリちゃんはお惚けキャラだったか……」
とにかく、と少年は続ける。
「アケディアと話してて思ったんだけど、やっぱお前、どっか壊れてるんだな。それ、たぶん死ななきゃ治らないぞ」
少年は白色化した髪を揺らし、白い歯を見せた。
と、ファブス・レクスは違和感を覚えた。
おかしい。
不自然だ。
どうして、今まで気づかなかったのか。
人の身で神の内面を暴くのは自殺行為だ。だからこそ、彼は白髪になるまでの苦痛に耐えた。
しかし、それはおかしい。
だって彼は、悪竜――元最高神ファブス・レクスの分身をその身に宿し、『神性』を手にしているのだ。多少の負担はあるだろうが、白髪化するほどではないはず。
つまり、彼は――。
その答えを、少年は自ら示した。
懐をまさぐると、真っ白な球体を取り出したのだ。
「俺一人が『死』の制約を免れるってのは気が引けたけど、やっぱりこれは……これだけは、俺がもらうわけにはいかなかったんだよね」
少年は、ゆっくりと球体を掲げる。
「すべてに絶望した大バカ野郎にこそ、こいつは必要だ。お前が捨てようとした、〝希望〟ってやつがな!」
『愚かな……。そのようなモノが、今さら戻ってきたところで――』
結果は何も変わらない。
力が強まるわけでもなし。滅して彼らを巻きこむのも止められはしない。そう、思っていたのに。
「言っただろ? お前は一度死ね。そして、溜めこんだ膨大な魔力とやらは、新たな生に使うんだよ」
転生――少年はそれを成せと告げる。しかし――。
『我が望まぬ以上、けっして成し得ぬ』
「ああ、そうだろうな。今のお前なら、そう言うさ。そのための〝希望〟だろう?」
『そも方法がない。現実不可能なモノに、希望はけっして芽生えぬ』
そうだ。方法がない。神は誰かを転生させることはできても、自らを転生せしめる手段を持たないのだ。
「ほんと、お前らって神様のくせに物を知らないよな。〝神眼〟ってみんな持ってるんじゃないの? ペリちゃんも最初は無理無理って連呼してたけどさ」
神ならばこそ知る現実だ。
ゆえに、薄っぺらい我欲にまみれた『希望』を得たところで、真の希望は生まれはしない。
生まれ得ぬ希望に、縋ることもできない。
「御託はもうたくさんだ。俺だってなんの根拠もなく〝希望〟を返して『あとはよろしく』なんて無責任はしない」
少年は、無理をして光を失いかけた瞳で告げる。
「方法は見つけた。お前はお前自身が育んだ〝希望〟を抱き――」
白色の球体を、
――俺という希望に縋れ!
ファブス・レクスの心へと押し付けた――。