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少女がいなくなると雨の気配まで完全に感じられなくなった。じきに陽が照り、街を白ませている霧も晴れて、夏の炎はよみがえるだろう。久志はさっき落としてしまった傘と鞄を思い出して、川岸に打ち揚げられた魚のように転がっているのを拾ってきた。
「夏紀ちゃんと何か話した?」
優斗が持ち上げ式の古いシャッターを開きながら久志に聞いた。
「夏紀ちゃんて、あの子?」
久志は現場を上がる肉体労働者のように、汚れたスーツの裾、ズボンの尻を払いながら言った。
「ああ。そっか、まだ紹介してなかったな。まあとにかく彼女もまだまだ若いから。愛想良くする仕方が分からないんだ。大目に見てくれると助かるよ」
「いや、僕が考え無しだったのは間違いない。あの仔犬だって拾ったまでは良かったけど、そのあとのことはなんにも考えてなかった。彼女に言われて目が覚めたよ。とにかく助けてくれてありがとう」
「気にしないで。まあしばらくはうちで預かるよ。夏紀ちゃんもああは言っても優しくて面倒見のいい子だから」
「ありがとう」
「じゃあ、失礼するよ。結局台風も来なかったから、これから用事が入ったんだ。顧問弁護士の先生と店について相談があってね。ただ小滝君、その前に僕から一つだけ、お願いを聞いて貰ってもいいかな」
久志は立ち止った。久志には優斗の願いをどう断る理由も無い。
「明日からすぐとは言わないけど、気が向いたらうちにまた来てほしいな。あの仔の様子を見に来てよ。仔犬はきっと、君を待ってる」
去り際に久志は頷いて、優斗に向けてはにかんだ。
その日のうちに熱帯夜が帰還した。久志は眠りに就く前に、アパートの丁度家主の住居と同居している敷地の中庭側の引き違いの窓を開き、網戸を閉めた。流れ込む熱帯びた夜気が久志の額を抱擁した。
遮る雲のない星々に満たされた海のような夜空、台風一過の蒸された干し草のような匂いと、夏虫の唱和のさざめく小夜の喧騒がする。それは不思議な体験だった。まるでそのとき久志は、この世界と別の世界とが薄い障壁で接している窓を開いたかのようだった。しかもそのとき久志は、決して世界の外側を感じていたのではなくて、世界の内側を感じていたように思われた。これまで自分こそが世界の理の外側にいて、壊れかけの世界に触れ、苦しみに満ちた世界を感じ、永遠の枯渇した世界を傍観していたというのは全て久志の幻想で、実は世界の方がずっと、久志がそこへやってくるのを待ち眺めていたのではないか、と。
騒々と、久志の心に落ちてくるものがある。遠い水平線の向こうの潮騒のような、か細い滝壺の滾々と折り重なる波の高鳴りのような寝付けなさが。
夜はもう、どれだけその典雅を極めようと、久志を決して脅かそうとしないのだった。




