傾国の悪姫より、太陽の騎士へ言祝を。
柴野いずみ様主催「身分差逆転ラブストーリーアンソロジー」
断頭台から見る景色に色はない。
それでも傾国の悪姫は、断頭台に登る間もたおやかな笑みを絶やさなかった。
「待って! 姫様は悪くない! お願いだから!」
小さな少年が断頭台にかじりつく。
兵士たちがそれを引き剥がすけれど、少年はしつこく断頭台によじ登ろうとする。
とうとう兵士が鞭で少年を打とうとした瞬間、凛とした声が響いた。
「ソリス、大丈夫。私は大丈夫。あなたの未来はこれからよ。でも忘れないで。いつか、国が平和になったら、また私と会いましょうね」
きゃん、と小さな悲鳴が上がる。
傾国の悪姫は跪き、断頭台に首を添えられた。
少年が絶望の表情で断頭台を見上げている。
悪姫は仕方なさそうに処刑人へと微笑みかける。
「私の死が、あなた方の太陽になりますように」
そう言い遺して、傾国の悪姫は処刑された。
◇ ◇ ◇
モガナティック王国にはかつて、傾国の悪姫がいたらしい。
齢十八にして無知で無垢だったモガナティック王国の王女様。彼女の声は特別で、聞いた人々を酔わせてしまう。そのせいで国が混乱し、下級貴族を筆頭とした国民が蜂起。今から十六年前に革命が起きた。
傾国の悪姫は処刑され、二度と王女のような異端が生まれないよう、元王族一族は厳しい監視下におかれることに。そうして今の新王朝が成立した。
(……これが、私の死んだあとの歴史なのね)
王立図書館で国史を読んでいたルーナはため息をつく。
覚悟はしていたけれど、自分の無知をひどく恥じた。
(かつての私は、なんて物知らずだったのかしら)
ルーナには前世の記憶がある。
その記憶は、今読んでいた〝傾国の悪姫〟と言われた王女のもの。
当時は自分の声が及ぼす影響なんて気づかずに、思うがまま、言葉を紡いでいた。
ルーナが真実を知ったのは処刑されると知った時。
そして今、再度その事実を知った。
〝ありがとうございました〟
「またどうぞ」
本を棚に戻したルーナは図書館から退館した。退館間際、出入り口にあるカウンターで一枚のメモを提示するのも忘れずに。
今のルーナはかつての王女とは違い、言葉を紡ぐ喉を持たない。まるで前世の罪を償うかのように、生まれつきルーナは声を発することができなかった。
声は発っせなくても、前世の記憶のおかげで読み書きができる。
だから今はもっぱら筆談だ。
(そのかわり、生家は出ないといけなくなってしまったけれど)
ルーナの生まれた家はとても貧乏で、文字の読み書きなんて論外だった。日々農業に明け暮れていた家族に声なしで意思を伝えるなんて無理だった。たまたま村に立ち寄った商人に弟子入りしたことで家を出、こうして文字でも伝わるような場所にくることができた。
とはいえ、ルーナは人に恵まれている。弟子入りした商人はとても良い人で、貴賤による価値観も教えてくれた。今では前世の自分がどれほど罪深い言葉を発し続けていたかを理解しているほどに。
(それにしても、私が死んでからまだ十六年しか経ってないのね。私は死んでからすぐに転生してしまったみたい)
なんとなく察していたことだけれど、こうして国の歴史を改めて知ることができて良かった。たった十六年で国が立ち直ったことを嬉しく思う。
ただ、心残りが一つあって。
(ソリス……彼は今、何をしているのかしら)
最年少の十三歳で王女の近衛騎士になったソリス。
傾国の悪姫の毒牙にかかった一人として保護され、罪人として引っ立てられた王女から引きはがされた。彼のその後は国史には載っていなかったから、ルーナが彼のことをこれ以上知ることはできなくて。
(こんな私が、ソリスの幸せを願うことはおかしいかしら)
それでも願わずにはいられない。
だってソリスは、ルーナの一番の理解者だったから。
◇ ◇ ◇
「お? ソリス、その花はなんだ?」
「……」
非番の日、ソリスが街で花を買っていると、同僚のクラウスに声をかけられた。
ソリスは声の主を一瞥し、すたすたとその横をすり抜けようとする。
「ちょっ、待てって、無視するなって!」
「……チッ」
「舌打ちした!?」
クラウスの声にようやくソリスが反応する。
その反応も、クラウスにとってはちょっと悲しいものだったけど。
「何か用でも?」
「用というか、たまたま会ったから声をかけたんだが」
「用がないなら話しかけないでくれるか。僕は忙しいんだ」
「つれないなぁ。そんなお前が花を買ってるのが意外でさ」
クラウスの言葉に、ソリスはますます不機嫌そうに眉をひそめた。無視して去ろうと横を素通りする。クラウスは踵を返して着いてきた。
「……着いてくるな」
「いや、まだ会話の途中だし」
興味津々で着いてくるクラウスを睨みつける。ひやりとした氷のような視線に、クラウスは肩をすくめるだけ。昔からこの同僚だけが、ソリスに対して普通に接してきた。
だからソリスも、少しだけクラウスには心を開いていて。
「墓参りに行くんだ。だから着いてくるな」
そこまで言えば、クラウスも察する。
ソリスが墓参りに行くような人は一人しか心当たりがない。そのせいで、今なお騎士団で彼が腫れ物のような扱いをされていることも。
「そうか。気をつけろよ」
だからクラウスはそれ以上追求することなく、ソリスの視界からそっと消えた。そのまま人混みに紛れていくのを、ソリスは横目に見る。
空気の読める同僚ほど、ありがたい人はいない。
ソリスが過去の出来事を背負いながらも、なんとか今こうして生きていられるのは、クラウスのような人間が側にいるからだ。
「……姫様」
クラウスは足を早める。
花束をかかえ、思い出の場所を目指した。
◇ ◇ ◇
王都が一望できる小高い山の中腹。
山道から少し外れた場所に、白い花の群生地がある。種に黄色の綿毛がつき、風が吹くといっせいに種を飛ばしていく。デューべと呼ばれるその花がルーナは昔から好きで、前世の時も秘密の場所として何度も訪れた。
(もう綿毛の時期だったのね)
黄色い綿毛が敷きつめられた絨毯のような光景に、ルーナは微笑んだ。せっかく王都に来たのだからと、立ち寄ってみて良かった。
昔と変わらない光景に心を弾ませていると、花畑の先に見慣れないものを見つける。
ぴかぴかに磨かれた四角い石のようなもの。
近づいて目を見開く。
石には名前が刻まれていた。
(〝王女マリアに捧げる〟……私のお墓だわ)
前世の、ルーナの墓。
ルーナはその名前に優しく触れた。
国史では、処刑されたあとの王女のことは書かれていなかった。埋葬されるとしても、罪人として扱われた人間が王家や普通の墓に入れるわけがない。だから自分の墓も、存在しないだろうと思っていたのに。
(きっと、ソリスね)
誰が、なんて言わなくても分かる。
声のことを知ってもなお、自分を慕ってくれた唯一の少年。彼が自分の護衛についてしまったのも、慕ってくれたのも、今なら声のせいだと知っている。
『幼いのに、もう騎士見習いを卒業したのね。もっとがんばって、いつか私の護衛もしてちょうだいね』
ただの激励のつもりだった。それが彼への呪いとなったのだと思う。一年もしないで、彼は実力で王女の近衛騎士となった。あの衝撃を、ルーナは今でも覚えている。
ソリスは実力こそあったけれど、年相応な部分もたくさんあった。まるで弟のように王女は彼に接して、彼も王女を慕ってくれた。他の近衛騎士も、侍女たちだって、微笑ましくその様子を見守ってくれた。
(だから最後まで、彼に呪いを授けてしまった)
王女の最後の言葉。
王女の声に力があると知ってから、誰も聞かなくなってしまった言葉。
その言葉を、ソリスだけは一途に聞いてくれた。
本当はいけないのに、願っちゃだめだったのに、言葉にしてはいけなかったのに。
(私はなんて残酷なのかしら)
忘れないで、と。
そう、言葉にしてしまった。
ここに処刑された王女の慰霊碑がある理由。
そのすべてはきっと、王女が死に際に遺した言葉のせいだ。
しばらく静かに慰霊碑を眺めていたルーナは、王都で響く鐘がかすかに聞こえてきたのを聞き、立ち上がる。
(もう、この場所に来ることはないわね)
過去の亡霊が長居して良い場所じゃない。
ルーナは踵を返す。
そして、驚いた。
音もなく、声もなく。
花束を抱いて、ルーナの背後に男性が立っていた。
長く美しい銀の髪を一つに束ねている。金色の瞳はあまりにも透明で、感情がよくわからない。背丈はルーナよりもずっと高くて、見上げないといけないほど。
それでも、その面影は間違いなく。
(……ソリ、ス?)
あれほど豊かだった感情は今はなく、氷のように冷たい表情。
無感動で寂しそうな金の瞳が、ルーナを射抜いた。
「……誰だ。どうしてここにいる」
すごく、冷たい声。
すべてを切り裂くような声に、ルーナはとても悲しくなった。
(ソリス……まるで知らない人のよう。でもそうね。今の私は、彼にとって知らない人間だもの。仕方ないわ)
ルーナは寂しい気持ちを抱えながらも、何も言わずここから去ることにした。
ぺこりとお辞儀をして、そのまま走っていこうとして。
「待て。なぜここにいるのかと聞いている」
腕をとられ、ルーナは振り返った。
困ってしまって、ソリスを見上げる。
(なぜって言われても)
ここに来たかったから、としか答えられない。このデューべの花畑が好きだから。ここから見る王都の景色が好きだから。いろいろと理由があるけれど、その答えを伝えるには、今のルーナには少し不自由だ。
困り顔でソリスを見あげてみるけれど、彼は腕を離してくれそうにない。
仕方なく、ルーナは自分の口をぱくぱくと開閉して、首を振ってみる。
ソリスの目が瞠られる。
「口がきけないのか」
ルーナはこくりとうなずいた。
ソリスはわずかに眉を下げ、そっとルーナの腕を離す。
「……すまない。ここは僕にとって大切な場所なんだ。今まで誰も立ち入ることのなかった場所だから、ついカッとなってしまった……」
目元を片手で覆い俯くソリス。
ルーナは昔と変わらない落ち込み方をする彼に、にこりと笑顔を浮かべた。
(ソリスったら、何も変わらないのね)
だから少し、魔が差した。
立ち去るつもりだったルーナは、懐からペンとメモ帳を取り出し、文字を綴る。
〝勝手に入ってごめんなさい。〟
ちょいちょいとソリスの袖を引いてメモを見せる。
メモを見たソリスが、ルーナとメモを見比べた。
「いや……僕のほうこそ申し訳ない。……これも何かの縁だ。よければ少し、昔話を聞いてほしい」
ルーナは小首をかしげ、つま先をソリスのほうへと向けた。
ソリスは慰霊碑の前に膝をつき、花束を供える。
「ここには僕の恩人が眠っている。王女マリア。傾国の悪姫を知っているか?」
ルーナはこくりとうなずいた。
自分のことだから、当然のように知っている。
ただ、王女がソリスの恩人であるという話は初耳だった。
「僕は伯爵家の三男として生まれた。騎士の家系でね、父も兄も騎士だった。だが、十七年前の魔獣暴走で亡くなった。家を支えるため、僕は最年少で騎士になったんだ」
その話も知っている。ルーナが王女として生きていた頃、魔獣暴走であまりにも多くの死者が出た。国の穀倉庫地帯に影響が及び、食料の確保ができなかった。国はなんとか資金繰りや、食料確保のために奔走した。
そしてそれは、王女の〝声〟に気がつく一端でもあって。
(甘いものが食べられないことを残念に思っただけだったのよ。皆ががんばっていることも、なんとか国を立て直したいと思っていることも。全部知っていたのよ)
だから、つい口にしてしまった。
『はやく甘いものが食べれるようになるといいわね』
激励のつもりだった。そうある未来に向けて、踏ん張りましょうと伝えたかった。
それが悲劇の始まりだった。
王女の声には力が宿り、言葉を実現するべく人々は努力してしまう。願いが叶うまで、人々はあくせく働く。王女の望みを叶えるため、少ない物資を王城にかき集め、王女の望む甘いおやつが作られた。
食卓に贅沢なお菓子が並ぶようになれば、王女も勘違いする。もう国は平気なのだと、皆笑って過ごせるようになったのだと、そう思った。平和な世界に戻ったのだと。
飢えに苦しむ国民を、知りもしないで。
そのことに気づいた時にはもう遅かった。
声の力に最初に気づいたのは誰だっただろうか。罪を科され、王女は処刑された。
ルーナが前世のことを思い返していると、ソリスがぽつりとささやく。
「最年少で騎士となった僕は、家のこと、騎士としての責務、年齢による力の差、いろんなものが重圧だった。そんななかで、姫様から言葉を賜った。『いつか私の護衛もしてちょうだいね』と。それが僕の支えになったんた」
ルーナは顔をあげる。
今の流れだと、王女の言葉はさらなる重圧にしかならない。
それなのに、王女の言葉はソリスの支えになれたのだろうか。
〝重圧ではなかったのですか?〟
思わずソリスに確認してしまう。
ソリスはルーナのメモを受けとると、ゆるりと首を振った。
「姫様の言葉は重圧じゃなかった。激励だった」
あぁ、やっぱり。
ソリスは、理解してくれていた。
王女がどのような気持ちで、言葉を綴っていたのかを。
でも、それだけでは言葉が足りないようで。
ソリスはさらに言葉を重ねてくれる。
「あの方は優しく微笑むだけで、僕らに力を与えてくれる。あの方を守りたい。守れるようになりたい。そのために努力することを惜しみたくない。そう思ったら、これまで重圧だと思っていたものが、軽く感じられたんだ」
それは知らなかった。
ずっと、激励の言葉が呪いになってしまったのではと思っていた。だから苦しかった。ソリスを苦しめてしまったのではと思っていた。
だけどソリスは。
「死に際、姫様は仰った。『国が平和になったら、また私と会いましょうね』と。だから今、僕は報われた気がします」
ソリスがルーナへと跪く。
びっくりしたルーナが一歩下がろうとしたのを、ソリスが手をとって。
「姫様。僕の大切な姫様。平和になったから、会いにきてくれたのですね」
ルーナはぎょっとする。あたふたと視線を右往左往させる。
(どうして……!? 私、名乗ってもいないわ!)
「何が言いたいかくらい、分かりますよ。どうして気づいたか、なんて。……僕が、貴女の字を見間違えるわけがありません」
ルーナは愕然とした。
字。
まさか、そんなもので気づかれるなんて。
さっきまで冷たかったはずのソリスの瞳に、熱がこもっていく。ルーナが呆然と彼の顔を見つめていると、ソリスはとても綺麗に微笑んだ。
「貴女に会えるのは、死後の世界だと思っていました。貴女が死に際に遺した言葉。そのために生き、そして死ねたら、貴女に会えると信じていました。それがこうも早く、会いに来てくれるなんて」
うれしいです、と。
ソリスの声がルーナの中で反響する。
(私が、死に際に遺してしまった言葉)
何を言ってしまったのか。
『忘れないで』
頭の中に響く、王女の声。
誰かに死を望まれようと、無知な自分が悪であったと納得していた。自分の声が、言葉が、誰かの呪いになってしまうことを知って、悔やんだ。それでもせめて綺麗な言葉を遺したかった。だから死に際に言葉を遺してしまった。
そのせいで、死者に会えるかもしれないという希望をもたせた?
冷や水を浴びせられたような感覚。
血の気が引いていくルーナとは反対に、ソリスの頬は薔薇色に染まっていく。
「ずっと待っていたんです。貴女の言葉を信じて良かった。奇跡はおきるものですね」
自分の手をとるソリスの表情は、ルーナが王女だった時と変わらない。
はにかみ、ただただルーナを慕ってくれる少年の顔。
ルーナが何も言えずにいると、ソリスは優しく言葉をかけてくれる。
「……たとえ傾国の悪姫と言われても、姫様は僕の大切な人に変わりありません。もし許されるのでしたら、もう一度、おそばに」
ルーナは首を振る。それは駄目だと首を振る。
(私はもう、王女でもなんでもない。ただの村娘で、今は商人。貴族で、騎士であるソリスのそばにいることはできない)
ルーナは身分の大切さを知っている。
身分があるからこそ秩序が生まれ、国の中で人々の営みが循環していく。王族はその秩序を定めるものだからこそ、身分を重んじなければならなかった。
その意識は、生まれ変わった今も変わらない。
王族から平民へと生まれ変わっても、在り方を違えるわけにはいかない。
俯いたルーナに、ソリスは悲しそうに訴える。
「だめ、でしょうか……」
手を握られているから、文字も綴れない。
何も伝えられないルーナが閉口していると、ソリスが立ち上がる。
「そういえば、今のお名前を聞いていませんでしたね。貴女の名前を教えてください」
ソリスの手が離される。反射的にメモ帳とペンを握って、止まる。
(このまま名前を伝えてもいいのかしら)
名前を伝えれば、自分が王女だと認めるのと同じだ。ほんとうにそれでいいのだろうか。何も知らないフリをして、誤魔化すべきだろうか。
ルーナは迷う。
どうすればいいの、と胸が苦しくなる。
傾国の悪姫と言われて処刑された自分を、今なお想い続けてくれていた人。
そんな人に、自分ができることって。
ルーナは考える。どうしたらソリスが傷つかないかを、何度も何度も自問自答する。
そうして考えたすえに。
〝私はルーナ〟
やっぱり嘘はつきたくないと、今の名前を教えてあげる。
そうしたら、ソリスは。
「ルーナ……僕の名前の対ですね」
前世でも見たことがないくらいの、極上の笑顔。
ルーナ、と名前を舌の上で転がして、うっとり蕩けるようにその音を楽しむ。
ソリスの全身から感じられる喜びに、ルーナはますます恐ろしくなる。
(どうして。どうしてソリスは、私の名前だけでこんなにも喜ぶの? 私はもう王族じゃない。ただの平民なのに。声だって、昔のような特別な力はないのに)
混乱するルーナがじりじりと後ずさりすれば、当然のようにソリスが気がついた。ひょいっとルーナを腰をさらい、その腕に閉じ込めてしまう。
(……!?)
「ルーナ、お許しください。少しだけ、少しだけでいいんです。姫様がここにいる実感をください」
ルーナを抱きしめるソリスの力はとても強い。ルーナは突然抱きしめられて混乱したけれど、ソリスの言葉をようやく、受け止めることができた。
(……ごめんなさい、ソリス)
ソリスの力はとても強い。強いけど、苦しくない。優しい力。
それでいて、ソリスの身体が小刻みに震えているのに気がついて。
すん、とソリスが鼻をすすった。
涙こそ流さないものの、ソリスの堪えきれない感情はたしかにそこにある。
そうっとソリスの背へと腕をまわした。
小さな少年のような彼を、抱きしめたいと思った。
ぎゅうっとソリスを抱きしめる。
ソリスの腕にも力がこもる。
「――です」
ソリスが何かを囁いたような気がして、ルーナは顔をあげる。
ソリスはルーナの肩に顔をうずめていて、その表情がよく見えない。
聞き間違いだろうかと思っていたら、今度ははっきりと聞こえた。
「好きです」
好き。
ルーナの呼吸が止まる。
意味がわからなくて、ルーナの思考が空転する。
(好き? どうして? 今? なんの話?)
直前の会話との脈絡が何もないような気がして、ルーナは困惑した。
どういう繋がりで、ソリスはその言葉を発したの?
「姫様、姫様。僕の姫様。好きです。お慕いしております。愛しております。貴女の言葉が好きです。誰かの励ましになる言葉が。誰かの心に残る言葉が。綺麗で美しい言葉が。僕の心に光を照らしてくれた貴女の言葉が、好きなんです。だから忘れないで」
ソリスがルーナの身体を解放する。
くしゃくしゃの笑顔で、教えてくれる。
「貴女の言葉は呪いなんかじゃない。いつだって希望をくれる言葉なんです」
そう告げて、ソリスが踵を返す。
もう話すことなど、何もないとでも言うように。
デューベの黄色い綿毛の絨毯を踏み分け、ソリスがルーナから離れていく。
デューベの綿毛がふわりふわりと宙を舞う。
(……まって)
ルーナは手を伸ばす。
ソリスは振り返らない。
(……まって)
文字では伝わらない、届かない。
だからルーナは。
「……っ、ま、って!」
産声をあげて。
「まって、お願いソリス! どうして、どうしてそんなことを言うの! 私は……ッ」
かすれる声。王女の時のような玉響の声なんかじゃない。生まれてから一度も言葉を生み出さなかった喉は錆びついていて、発音も、滑舌も、なにもかも拙い。
それでも、そんな言葉でも。
ソリスには届いた。
「あぁ、やっとお声を聞けた」
嬉しそうに振り返るソリスは、綿毛をたくさん散らしながらルーナのもとに駆け戻ってきてくれる。ゆっくりと膝をおり、もう一度ルーナと視線を合わせてくれて。
「お呼びでしょうか、姫様」
うやうやしく跪くソリスに、ルーナはもう思考がぐちゃぐちゃだ。
「ソリス……、ソリス」
「はい、姫様」
「どうして、あなたはそんなにも、私を慕ってくれるの。私を信じてくれたの」
唇を噛みしめながら訴えたら、ソリスは嬉しそうに答えてくれる。
「姫様の言葉には力があるからですよ」
「そんなのはまやかしだわ! そのせいで私は国を傾かせてしまったのよ!?」
「違いますよ。力があるからこそ、僕の心で芯になってくれたんです」
ルーナの否定を、ソリスが否定する。
否定されたルーナが何かを言うよりも早く、ソリスがルーナへと言葉を贈る。
「好きです。お慕いしております。何度でも伝えます。貴女の言葉が、僕の光です」
そう言い切ったソリスの表情が、あまりにも綺麗だったから。
ルーナの瞳から、一筋の雫が滴り落ちていく。
何かを言い返したくても、こぼれていくのは嗚咽だけ。
前世、悪だと言われた王女の言葉。
自分の言葉が絶望だけではなく、光を与えることもできていたのなら。
「ありがとう、ソリス。あなたこそ、私の太陽だわ」
こうして言葉を伝えられること。
その幸せを、もう一度手にできる。
◇ ◇ ◇
傾国の悪姫にまつわる、太陽の騎士の話をしよう。
太陽の騎士は一途に傾国の悪姫を慕っていた。
どうして彼が傾国の悪姫を慕っていたのか。それはきっと、悪姫の〝声の力〟に酔わされていたからだと皆思っていた。
だが、傾国の悪姫が処刑されたあとも、太陽の騎士は悪姫を慕い続けた。悪姫が遺した言葉を一途に信じ続けた。当時を知る者は、いつ彼が悪姫に狂わされて国に仇討ちをするかずっと見張っていたそうな。
太陽の騎士は最後まで品行方正だった。
たった一人で傾国の悪姫の慰霊碑を建て、ひそやかに、おだやかに、罪人を弔った。彼は傾国の悪姫に狂わされてなどいなかったと、ただひたすらに優しい心の持ち主だったのだと、皆が思った。
やがて太陽の騎士に伴侶ができた。
歳はひと回りも違う、ただの村娘。
身分違いの恋だった。
社交界では村娘が太陽の騎士をたらしこんだのだとまことしやかに噂されたが、太陽の騎士はそんなことおかまいなし。あまりにも太陽の騎士が噂を気にしないものだから、いつしかその噂も風化した。
ただ間違いなく、伴侶ができてからの太陽の騎士は、ますます輝かんばかりの功績を次々と残していくことになる。
騎士を辞した彼は、一介の騎士として魔獣の討伐だけではなく、犯罪組織をいくつも取り締まった。往年期には魔獣暴走の陣頭指揮をとり、過去最少の被害で食い止めた。
彼は生涯をかけて証明した。
傾国の悪姫がほんとうに望んでいたものを。
見せかけの言葉ではなく、傾国の悪姫が言葉にのせていた真意を、証明し続けた。
そんな彼の生涯の口癖は。
『姫様は今、幸せでしょうか』
彼がそう問いかけるたび、伴侶はずっと微笑んで静かにうなずいたとか。




