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寄稿作品  作者: 采火
同人誌寄稿
21/23

真砂街

うねらむ企画主催

街アンソロジー「分岐路の先の不思議な街」

2025/5/19

 しゅわりしゅわりとはじけていく。

 はじけて、はじけて、行き着く天の先で無になり消える。

 天へと押し上げた彼が、境界を越えていく。

 越えた彼は吹き荒れる波にさらわれて消えていく。

 私はそれを見上げていて。

 もし、消えないままでいられたら。

 私もまた天の先を覗いてみたかった。


   ◇   ◇   ◇


 空気はいつもとろみを帯びている。穏やかな風が吹けば、ゆるりと私の身体を攫おうとする。エメラルドグリーンの空気に満たされた私たちの朝はいつだってなめらかだ。

 陽光の揺らぎがまだ浅いうちに部屋の内殻戸を激しく叩れる。眠い目を擦りながら出れば、巻き貝住居の一層目に住んでいるギムレットおじさんが神妙な顔で立っていた。

「サングリア、南の岩礁街が全滅した」

 何を言うんだこの老いぼれはと目を瞬いていれば、耳を引っ張られる。

「サングリア、南の岩礁街が全滅した!」

 朝、変わらないと思っていたものが崩壊するのは一瞬だった。

 二度も繰り返されたうえに、近所に響くような大声を出されれば嫌でも理解する。

 南の岩礁街が全滅した!

「うちの街どうするの!?」

「北の珊瑚街が受け入れてくれるそうだ。てめぇも荷物を片付けろ。上のトニックにも行っとけ」

「出立は」

「早い地区は今夜にでも。うちの地区も明け方には移動が始まるぞ」

 ギムレットおじさんはそれだけ言うと内殻戸をぴそゃんと閉めた。私はどうしようと天井を見上げた。螺鈿模様の天井を見たって何も解決しない。とりあえずトニックにも話さないと。

 私は部屋の中をするりと移動すると、一番奥にある内殻戸を叩く。叩いても叩いても出てこない。まだ寝てる?

「ちょっとトニック起きてる?」

「はーい」

 返事が聞こえたのは私の後ろから。私はひょんっと身体が跳ねてしまう。声がしたのは窓のほうだった。トニックは外にいたみたい。

 窓へと寄れば、巻き貝住居最上階の住人トニックがけらけら笑いながら私の部屋の窓の外に引っ掛かってた。

「ちょっと、またそんなとこ登ってきて。外殻が剥がれたら怒るわよ」

「だって呼んだのはそっちだろ」

「そうだけど」

 聞き分けのないトニックに頭痛がしそう。この頭痛を予防するには手短にトニックへの用事を済ませるしかないわけで。

「南の岩礁街が全滅したそうよ」

「まじで? あぁ、だから皆慌ただしそうなのか」

「今夜には北の珊瑚街に移動が始まるわ」

「やー、困ったな。俺の部屋は狭いから、荷物が外にはみ出してんだけど」

 私たちは窓の外を見る。巻き貝住居の脇にガラクタが積み重なっている。あのガラクタは全部トニックの物だ。

 トニックの部屋にあれを全部いれられない。捨て置く物のほうが多そう。

「がんばって」

「薄情〜」

 そんなこと言われたって困る。私だって忙しいんだもの。

 私は窓にカーテンを引いてトニックを追い出すと、その向こうにある外向きの扉へと手をかけた。

 扉を開けるととろみのある微風が私の全身を撫でていく。部屋の中をさざめかせたエメラルドグリーンの風の中、私は一歩を踏み出した。

 巻き貝住居の二層目が私の部屋。左向きにつむじを巻く、私たちの巻き貝住居。右手側にある窓の外壁に引っかかってるトニックを横目に扉を締めた私は、とろみのある風の中を歩くように落ちていく。

 スカートがもったりと浮き上がった。風を孕む裾を両手で抑える。地面に降り立つ動きで、真珠色の真砂(まさご)がぽっすんと舞い上がった。薄紅の髪が視界の端でほつれて揺れて波うつ。

 南にある岩礁街と違って、真砂街と呼ばれるこの場所は平地だ。平地で砂だらけ。細かい粒子は荒ぶる風に攫われることがあるけれど、このとろみのある風のおかげでこの街が砂吹雪に見舞われることはそうそうなかった。

 そんな真砂の地面が小さな粒子を捲き上げるのは、住人たちが生活をしている時だけ。私のように真砂を蹴って、エメラルドグリーンの風に乗ろうとする人たちだけ。

 私は地面に降り立つと、真砂を蹴った。とろみのある風に逆らうように身体がぐんっと前へと進む。推進する力を失うごとに、私は真砂を蹴った。

「どこ行くの?」

「どこでもいいでしょ。帰ってくるまでに片付けなさいよ。巻き貝の中に収まらないものは捨てていくことになるからね」

 ついて来ようとするトニックを追っ払う。彼は肩を竦めると渋々、自分の部屋へと戻っていった。

 真砂の街を私は駆け抜ける。

 巻き貝住居は大きいものだと八層もある。北の珊瑚街に引っ越すのなら、八層もある巻き貝住居を動かすのは大変そう。巻き貝住居は独身の人たちが密集して住む。大変そうだけど、なんとか人手が足りるかどうかってところ。

 問題はシャコ貝住居とアコヤ貝住居の人たちかな。

 シャコ貝住居は子どもや老人連れの家族が、アコヤ貝は二人暮らしの恋人や贅沢な独り身の人たちが住んでいる。一人あたりの貝住居面積が大きい分、質量も多くなる。家ごと引っ張って引っ越すのは難しそう。

 エメラルドグリーンの風が喧騒を運んでくる。

 今日の街は騒々しかった。夜の移動に向けて皆荷物を整理している。少しでも住居を軽くしようと、窓から扉から、不要なものをぽいぽいと捨てる人。逆に少しでも多く荷物を持って行こうとはみ出ていた荷物を部屋に詰め込もうとする人。色んな人が私の頭上で今夜の出立へ向けて荷造りしている。

 私は真砂街の住居を抜けると南の岩礁街へと向かった。真砂街と岩礁街は近い。藻草林(もくさばやし)を通り抜ければすぐに岩礁街。

 藻草林に入るとすぐに気がついた。異臭。それから風に紛れる赤いもの。

 私はこの色を知っていた。知っていて、そのままにした。

 視界が開ける。視界の先には赤い風が靡く岩礁街。岩礁の隙間に住み着く住人たちは誰もいなくなっていた。

 私は振り向く。原因は藻草林の中にいる。そこに存在しているのを知っている。

 それを知っているのは、私だけ。

 皆はこの赤くて臭い風のことを錆風(さびかぜ)と呼ぶ。この錆風を吸うと病気になる。原因はわからない。この錆風の被害は何十年かに一度、不意に発生するそうだから、詳しいことを知る人はいない。

 でも私は知っていた。

 錆風が藻草林でわだかまっているのを知っていた。

 最初に見つけたのはもっとうんと小さい頃。藻草林に私たちとはちょっと違う人が住んでいたから、そうは気づかなかった。

 藻草林をかき分けて、私は彼へ会いに行く。

「カーディナル」

 私は呼びかける。

 藻草林に遮られて停滞し続けた錆風の奥、ひどくゆっくりと動く影があった。

「……サングリア」

 自分の顔が歪むのが分かった。

 よく笑う人だったの。

 赤銅色に染まる無表情を見て、私は歯を食いしばった。

「カーディナル、身体が」

「そう、だね。そろそろ朽ちる頃合いだと思うよ」

 彼が声を発するたび、錆風が澱む。

 しゃがれた声。かつて彼の声に宿っていたはずの、りぃんと澄んだ響きはどこにもない。

 私のほうへと顔を向けるだけで、カーディナルの身体には亀裂が走る。傷口から錆風が滲み出た。彼が声を発するたびに錆風が澱むのも、彼を侵食するこの病が身体の芯まで到達してしまったせい。

「カーディナル。私、やっぱり人を呼んでくるわ」

「やめておきなよ。サングリアの虚言癖が再発したと、また笑われるだけだよ」

「いいえ。子供の頃は信じてもらえなかったけど、今なら信じてもらえるかもしれない」

「たとえそうだとしても。それはそれで、なぜ今まで言わなかったんだと君が責められるだけさ」

 カーディナルの言う通りだ。初めて彼がこの藻草林に捨てられているのを見つけた時、誰も私の言葉を信じてくれなかった。

 カーディナルは自分では動けないほど身体が重たい。どこから来たのと聞いたら天上から来たという。役立たずになったカーディナルは天上からこの地に落とされ、捨てられたのだと。

 カーディナルを真砂街まで連れていけたら良かったのに。前は私の身体が小さいから連れて行けないのかと思っていた。でも大人になっても私は彼の身体を運べなかった。今住んでいる巻き貝住居を岩礁街から分けてもらった時には、運ぶことができたのに。

 家よりも重たいカーディナル。

 一人では動けないカーディナル。

 一人では運べないカーディナル。

 腕を動かすだけでも傷口が開き、不快な臭いを撒いていく。

「カーディナル、南の岩礁街が錆風で全滅したそうなの」

 カーディナルが無感動に私を見る。

「そうかい」

「今夜には真砂街を出立する。錆風に侵食される前に北の街に移動する。何もなくなったあとの真砂街には藻草を植えて林を広げるそうよ。災厄が終わるまで、少しでも錆風が絡まるように」

 風の流れは最近ずっと南向きだった。カーディナルから発されていた錆風はだから南の岩礁街を襲った。そろそろ風向きが北に変わってきたから、真砂街にも近いうちに錆風が届く。それをトニックたちは藻草林で覆ってしまおうとしている。

 藻草は聖なるものだ。藻草が大きく成長すれば、浄化の息吹が散らされる。そうすれば長い年月をかけて錆風を浄化し、また住める土地にしてくれると言われている。

 言われている、けど。

「それならもう、捨て置いて」

 藻草に隠されたカーディナルの病が癒えることはついぞなかった。それどころか、ずっと病に苦しんでいた。

 出会ったばかりの頃は、この世の何よりも輝いて見えた。カーディナルの身体は私と違ってとても硬くて、天上の陽光に照らされると美しく煌めいた。冷たくてひんやりとして、滑らかだった。

 最初の頃、私たちはお互いの身体をよく理解していなかった。触れて私の腕が切れたこともある。私はびっくりした。彼もびっくりした。私は彼の身体が鋭いことにびっくりしたし、彼は私の血が青いことにびっくりした。びっくりだらけの二人だった。

 そんな彼が錆風の病を持っていたことに気がついた時、私はどうにかしようと思った。でもどうにもならなかった。病が移らないように最新の注意を払った。その頃、私は毎日のようにここに来た。でも大人になるにつれて、来る回数が減ってしまった。減ってしまったせいで、カーディナルの病は進んでしまったのかもと思うと自分がやるせない。

「私、あなたを捨てたくない」

「いいよ。一度捨てられた身だもの。捨てられることに慣れてる」

「そんなものに慣れないで!」

 くしゃりと顔が歪んだ。

 カーディナルの表情は変わらない。赤銅色がカーディナルの顔を侵食するから。

「私、一生懸命探したの。錆風を綺麗にする方法。錆風の病を治す方法。あなたを綺麗にしたいの。でも見つからないの」

「そんなことできやしない」

「まだ分からないわ。世界は広いもの」

「やる前からわかっているよ。僕の主人は、僕が赤錆を持ってしまったから、僕を捨てたんだ。全身を汚染された僕はもう手遅れだ」

 嘆く声はほっそりとしている。もう、何も希望を持ちたくないという諦念が錆風とともに吐き出されて。

 この人にこんな顔をさせるのが嫌だ。

 この人にこんな思いをさせるのが嫌だ。

 この人がこのまま朽ちていくのが嫌だ。

 だから私は決めた。

「私、今回の街移動についていかない」

 ギシ、と耳に不快な音が鳴る。

 カーディナルが私を見ていた。

「馬鹿な真似はするな」

「馬鹿じゃない。私はカーディナルと一緒にいたいだけ。そうと決まったら準備しないと」

「待って、何も決まってなんか」

「私を止めたかったら、私を止めてよ」

 カーディナルは諦めた。動けないのを知っているから諦めた。私を止めるのを諦めた。

 それでいいの、と私は笑った。




 ギムレットおじさんとトニックには、真砂街に残ることを告げた。二人とも正気か? と言いたげな顔だったけれど、私の決意が固いと知ると何も言わなかった。

 私のように街を放棄したくない人はちらほらといた。彼らは街を出る人たちと部屋や建物を交換してもらって、せっせと荷運びをした。私も荷物を減らしたいと言ったアコヤ貝住居に住む人と部屋を交換した。残していくものは好きに使っていいよ、と言われた。

 その日の夜、真砂街のほとんどの人が北の珊瑚街へ移住するために旅立っていった。私もギムレットおじさんとトニックと私の代わりに新しく住人になった人が網をかけて引きずる三層の巻き貝住居を見送った。

 真砂街は寂しくなった。ぽつぽつと住居は残っているけれど、閑散としている。藻草の種を残った人たちで蒔いた。

 やがて錆風が真砂街へと吹き込むようになった。

 こんこんと咳きこむ人たち、ぐったりと項垂れている人たち、子どもは全員北の珊瑚街へと逃がしたから、錆風の病に倒れていくのは老人からだった。

 私は毎日のようにカーディナルのもとへと通った。

 真砂街の住居が赤く染まり、異臭が漂い、エメラルドグリーンだった空気が赤黒く濁る頃、カーディナルは話すこともできなくなった。

 それでも私はカーディナルへ会いに行くのを繰り返す。話すことはできなくても、彼はまだ生きていた。彼の口から細くこぼれる錆風が彼の生命を証明していた。だから私は会いに行く。

 そんな日々を繰り返していたから、それに気がついたのは本当に偶然だった。

 偶然だけど運命だったのかもしれない。トニックが置いていったガラクタの中に、カーディナルとよく似た質感の欠片を見つけた。

 それは出会った頃のカーディナルの姿のように美しく、陽光に当たるときらりと光り煌めいた。ガラクタの山を整理していたら手が切れた感触がして、見つけてびっくりした。

 私は北の珊瑚街へと駆けた。欠片はすごく綺麗だった。これはどうしたのかと、私はトニックに聞きたかった。

 南の岩礁街は黒くて静かで無骨な感じ。私たちの真砂街は真珠のように白く穏やか。北の珊瑚街は彩り豊かで騒々しい。でもここら一帯では一番大きな街で、住人もすごく多かった。

 南の岩礁街と違って、北の珊瑚街は少し離れている。藻草林をずいぶんとかき分けた。その先で珊瑚街にたどり着いても、そこはずいぶんと賑やかで、なかなかトニックを見つけられなかった。

 トニックを見つけた時、ちょっと間が悪かったかもしれない。女の子とキスしていたから。珊瑚街で良い出会いがあったみたい。こっちは死活問題というか、かなり切羽詰まっていたので、デート中にごめんなさいと割りこんだけれど。

「トニック!」

「へぁっ!? サングリア!?」

「これ、いつどこで見つけたの!」

 目を白黒させるトニックに詰め寄った。彼女さんごめんなさい。でも急いでいるので許してください。

 私はトニックの眼の前に、カーディナルの色を持つ欠片をずいっと差し出した。トニックは目を白黒させながら、私の持つ欠片を摘む。

 まじまじと見て、あっ、と何かに気づいたように声を上げた。

「真砂街の南の藻草林の中で拾ったんだ。十年くらい前? どっかに失くしたきり、見つからなかったんだよね」

「これすごく綺麗だけど、どうしてかは分かる?」

「毎日磨いてたよ。流れてくる硝子石かと思って」

 磨く。

 私はびっくりした。

 磨けば良かったんだ。

 トニックから欠片を奪い取る。それを持って背を向けた。

「返してくれるんじゃないの!?」

「次に会ったら返してあげる!」

 エメラルドグリーンの光明が差した気がするの。

 珊瑚の地面を蹴ると、とろみのある風に逆らって跳ねるように走る。珊瑚を蹴ってふんわりと身体が浮き上がるたび、風に流されるスカートが足に絡みつく。

 それが邪魔で邪魔で仕方なくて。

 それでも私は駆けた。

 かき分けた藻草林をもう一度颯爽と駆けて、赤錆で澱む真砂街に帰る。

 真珠のように白かった真砂の大地はもうどこにもなかった。エメラルドグリーンの大気も赤黒く澱み、目映いほど美しくて穏やかだったあの景色はもうどこにもない。

 誰も家の外へと出ようとしない。

 楚々と立つ巻き貝住居。ぽつねんとしたシャコ貝住居、所在なさげなアコヤ貝住居。住人が錆風の病にどれほどかかってしまったのか、私は知らない。

 でも後悔はしなかった。たとえ滅びようと、私は住みたい場所に住み、一緒にいたい人と出会えたのだから。

 私はアコヤ貝住居に帰ると、前の住人が残した物をひっくり返した。その中から使えそうなものを見つけると鞄に押しこんで、帰ってきたばかりの家を出る。

 気合を入れるために深呼吸をすれば、少し喉が痛んだ気がした。それでも赤い真砂の大地を踏みしめ、蹴って、寂しい人がいる場所を目指す。

 藻草林は錆風が吹き荒れてもびくともしなかった。それでもだいぶくたびれているのか、薄暗くてなんだかおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。藻草に積もる赤黒い粒子を払ってやれば、少し元気を取り戻したように見えた。

 北の珊瑚街を見てしまうと、どうしても気後れしてしまう。世界にはあんなにも彩り豊かで鮮やかな場所もあるのに、ここはなんて仄暗い場所なんだろうと思ってしまう。

「カーディナルにも、あの色づく街を見せてあげたいな」

 この世の悍ましさを凝り詰めたかのように、錆風が澱む場所へとたどり着いた。

 呼びかけても、とっくの昔にカーディナルは語ることをやめた。私は微笑みながら両手を伸ばす。

「あなたがそこにいるのは知っているんだよ」

 言葉を発するたびに、錆風が私の喉を傷つけようとしてくる。あんまり吸いこんじゃ駄目なのは知っているけど、私はどうしても伝えたかった。

「私があなたの身体に絡みつくものをすべて、剥がしてあげる」

 この場所はあなたの居場所じゃない。

 トニックが持っていた煌めく欠片を思い出す。硝子石だと思った、と言っていたそれ。

 硝子石は天上人の贈り物だ。私たちが越えられない天上の境界線の向こう側から落ちてくるもの。カーディナルも言っていた。天上から落とされたと。

 私たちは硝子石を見つけたらピカピカに磨く。磨くとどんな宝物にも負けないくらい綺麗に輝く。カーディナルもきっとそうだった。

 私があなたを見つけた時に、磨いてあげれば良かったの。

「綺麗にしましょうね」

 錆びついたあなたを、私が目覚めさせてあげる。




 時間の流れはとうに狂っていた。

 赤黒い錆風の中では朝も夜も分からない。天上に揺らめく陽光を見つけられない。私は全身を使ってひたすらカーディナルの身体を磨き上げた。

 足はどこ? 腰はあるの? 胴はここ? 胸は、腕は、首は、頭は。

 カーディナルは私より身体が大きくて重たい。ぴっちりと閉じられた脇の隙間に私の小さな手が入るのは少しだけ面白かった。

 磨く、磨く。

 腐食の病に侵された表面がボロボロと落ちていく。ボロボロ落ちた部分は容器の中に詰めて、風に乗って飛ばないようにした。

 それを繰り返していけば、カーディナルの身体は出会った頃より何回りも小さくなって、私よりちょっと大きいくらいになった。容器が足りなくて、放棄された岩礁街から三つほど巻き貝住居を持ってきてそれに詰め込んだのも良い思い出だ。でもよく頑張った。巻き貝住居を運ぶのが一番苦労した。

 私は久しぶりに見つけたカーディナルの顔へと両手を添えた。あなたはこんな顔をしていたっけ。私の記憶が赤錆に紛れて朧気なのか、それとも磨く時に削りすぎちゃったのか。とっても頑張ったので、それくらいちょっと大目に見て欲しいな。

「起きて」

 そっとささやく。

 こぷりと赤錆が吐き出される。

「起きて」

 カーディナルの吐息に自分のものを重ねた。

 起きて、寂しがりの人。

 あなたの瞼を覆っていたものは全て剥がしてしまったよ。あなたの手足を重たくしていた枷も根こそいでしまったよ。あとはもう、あなたの内側に巣食うものだけだよ。

 私はカーディナルの吐息を吸い取った。生命の息吹。私の口の中に腐臭が広がる。そう、これは腐っているの。私たちの街で、私たちの世界で、腐るものは全て天上の世界から落ちてきたものだけ。

 だから返そう。綺麗になったあなたはもう一度、天上の世界で生きることができるはずだから。

 だから目覚めて。綺麗になったあなたの声をもう一度、聞いてみたいから。

 ぽこりと合わさった唇から赤錆が玉のようになって生まれ出る。ぽこり、ぽこん、ぽこり。私はカーディナルの唇を覆い、彼の中の腐った部分を吸い出した。吸い出して、吐き出した。たまにごぼりと可愛くない音がした。赤錆の腐臭に耐えきれずに私がえづく音だ。

 それでも根気よく吸い出した。

 吸い出していたら、気がついたら私の背中をカーディナルの腕が支えていた。

 ぽこん、と最後の赤錆の玉がカーディナルの口から私の口へと渡ってくる。舌の上で転がしたそれを私は飲みこんでしまった。

 カーディナルの身体が震える。震えて、私の身体を抱きしめる。

「……馬鹿だろ、君は」

「命の恩人に対して、それはちょっとひどくないかしら」

「馬鹿だ。馬鹿だ。大馬鹿だ。なんて無茶をするんだ」

 カーディナルの声はこんなにも美しかった。りぃんと響き渡る澄んだ声。この声がもう一度聞けただけで、私は満足だ。

 私の仕事はまだ終わってはいない。まだ、終わっていない。

「ねぇ、カーディナル」

「なんだい、この大馬鹿娘」

「馬鹿って言いすぎよ。あのねカーディナル、私、あなたを天上に返そうと思うの」

 カーディナルの身体が強ばった。

 おそるおそる私の身体を離して、まじまじと私を見下ろしてくる。

「なん、で。そんなことできるはずがない。僕は捨てられたから、帰る場所なんてない」

 幼子が迷子になってしまったときのような、途方にくれた顔をするカーディナル。可哀想なカーディナル。帰る場所がないカーディナル。でも許して。私はあなたをこのままにしておけないの。

「カーディナルの居場所はここじゃない。誰も言えないから私が言う。あなたがここにいると迷惑なの」

 カーディナルの顔がひどく傷ついたものになる。

 私の胸も痛む。痛むけど、私は言う。

 あなたが傷つく言葉をかけた私を恨んでいい。憎んでいい。嫌ってもいい。それでも私は、あなたを生かすほうを選びたい。

「私が天上に連れて行ってあげる」

「そんなこと、できるはずがない」

「今ならできるわ。錆風の病を克服したあなたなら」

 カーディナルが驚いたように自分の身体を見下ろした。存分に見てくださいな、私が一生懸命磨いて生命を吹き込んだあなたの身体を。

 私はカーディナルの輪郭をゆっくりとなぞる。指が切れて青い血が霧散した。カーディナルの瞳が揺れる。彼の瞳が一番くっきりと私の姿を写してくれる。

「今から行きましょう。私があなたをここから追放してあげる」

 カーディナルの腕を引いた。やっぱりちょっと軽くなってる。でもすごく重い。すごく重いけど、巻き貝住居をここまで運んできた私ならきっとできるはず。

 私は地面を蹴った。蹴るだけじゃなくて、カーディナルを引っ張った。困惑する彼に怒鳴った。

「あなたも地面を蹴って!」

 カーディナルが一生懸命に地面を蹴った。身体が浮いた。錆風の中、さらに風を蹴った。カーディナルがびっくりするほど重たかった。カーディナルに教えた。風をさばく足のステップを。

 とろみのある風は、慣れれば天にだって歩いていける。私はぐんっと上を向いて風を蹴った。

「わ、わ、わ……!」

「カーディナルあれを見て」

 藻草林で一番高い藻草の背丈を追い越してさらに飛翔したところで、私は眼下を指差した。

 カーディナルは息を呑んだ。眼下に広がるのは錆風に覆われて朽ちていく二つの街。

「あなたが来たことで、街はああなったの」

「…………」

「美しい街を見せてあげたかった」

 カーディナルは無言になった。私は目を伏せた。もう一度、風を蹴って天上を目指した。

 私は天上を目指しながら、少しずつ移動しながら、カーディナルに風に身を任せて歩く方法を教えた。かなり下手だったけれど、なんとか穏やかな風のところでは不格好でも歩けるようになった。

 天上に近づくと、白い陽光が私の目を焼いた。私は身の内がざわついて落ちつかなくなった。天上の境界線を越えてはいけないと、本能が叫んでる。

 私はカーディナルを上へと押し上げた。

「サングリア」

「さようなら、カーディナル。元気で」

 天上近くは風が吹き荒れる。

 ごうごう激しく流動する風の中で私はカーディナルを送り出す。

 カーディナルが私の名前をもう一度呼んだ気がした。

 私は笑った。

 笑いながら、泣いた。

 泣いて、あなたから聞いた言葉を胸に抱きながら、赤錆びた街へと落ちていく。

 ――風は波。大気は水。ここは海底の国、天上世界は陸の国。陸の国のさらに上には空が広がり、月と太陽が永遠の追いかけっこ。

 太陽は知っている。朝、とっても眩くゆらめく天上の光。天上近くならどこでも射しこんで来る光は、境界線の向こうではたった一つしかないそうで。

 カーディナルの博識さが羨ましかった。彼と話すのは楽しかった。でも彼はここにいて良い人ではない。ここで錆びて朽ちていく人ではないと思ったから。

 落ちることを、沈むと教えてくれたあなた。

 この離れがたく、甘やかで切ない気持ちにも名前があることを、知っているのでしょうか。

 私たちの街ではこの気持ちをこう表します。

 恋、と。

 私はあなたに恋をしていたの。恋をしたから手放したの。あなたに生きてほしいから。

 この気持ちの名前をカーディナルはなんて呼ぶのだろう。

 私は赤錆びた真砂街に沈みながら思う。

 天上に近づけば近づくほど、しゅわりしゅわりとはじけていく玉がある。

 はじけて、はじけて、行き着く天の先で無になり消える。

 私もそう。私も境界線を越えたら、無になり消える。私はカーディナルのように頑丈ではないから、あの境界線を越えたら表と裏がひっくり返って死んでしまうの。

 もし、消えないままいられたら。

 私もカーディナルのように鉄の身体を持っていたら。

 私もまた天の先へ、行ってみたかった。

 さようなら、私の初恋の人。

 この身が大気に融けるその日まで、海底の街からあなたのことをずっと想っています。



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