ぺたぺたぺたぺたぺたぺた、
時と場所と場合を考えて服を選ぶのは、人間社会の基本だ。
神社に向かう際、特に畏まる必要もないのに少しだけ清楚な服を選んでしまうのは、奏多の性分だ。
奏多の予定は昨日から決まっていた。
椿山神社で御守を買うのだ。
もちろん、形栖みやに手渡すために。あの両家がどこの宗教に属しているとも聞いたことはないし、御守を持っていて支障があるようだったら断ってくれるだろう。
家の窓から見える山にある神社には、この地域の人間であれば、人生で五回は必ず訪れているという。
大きなお祭りから七五三、結婚式なども、大体がそこで行われるのだ。
街に一つしかない神社。
おかげで街の住人が一堂に会する初詣はえらい目に遭うので、学校では『椿山神社の初詣』が会話の種になるほどだ。今年は鳥居の前で変なおじさんが林檎を売ってたけどあれ絶対許可とってないよね、そういえばあの半袖おばあさん今年もいたけどそろそろ倒れるんじゃないかな、あの巫女さん今年もいたけど今いくつなんだろう十年前からいた気がするけど。
奏多はといえば、中学校一年生の時に並んで貰おうとした炊き出しの甘酒が目の前で品切れになってから、元旦の初詣には一度も行っていない。
平日よりもどこか浮かれた空気が漂う休日、土曜日の正午。
奏多は目的の鳥居に着いて、その先の長い階段を見上げる。
――そういえば、みやちゃんの家に似てるな。
振り返る。
ずっと向こうに、この椿山と同じような高さ、同じような形の山がある。あそこに、奏多の友人が住む屋敷があるのだ。
屋敷と神社は、家々を隔てて対面する立地であるらしい。
――うーん、意味深。
けれど考えても仕方がない。
奏多は気を取り直して、長い石段に挑んだ。
約四百段。
奏多の知識によれば、神社の石段としては決して多くない段数だ。
けれど造りが古く、傾斜角度が急である。何より特徴的なのは、七段ごとに建てられた朱い鳥居だ。鳥居は成人男性の頭がぶつからない程度の高さなので、周囲の木々は簡単に鳥居を覆ってしまえる。そのおかげで、遠くからは鳥居の存在がわかりにくい。
けれど街の住人の多くは知っている。
太陽が、木々の葉が一番薄い真上に来ると、朱い鳥居のトンネルは陽光を受けて輝く。その幻想的な光景は、観光案内のパンフレットに必ず載るほどだ。
二百段地点の休憩所を経由し、神社に着く。
独特の、神聖な静寂があった。どこか余所余所しいけれど、自然と背筋が伸びる厳かな空気。夏の熱気すら和らいでいる気がする。
参道から外れたところに社務所があり、奏多は真っ直ぐそこに向かう。
若い巫女が一人、立っていた。彼女は奏多を見ると、細い瞳を軽く見開いて、
「あら、あなたは……」
「はい?」
「……ああ、いいえ。なんでもありません。ようお参りです」
「そう、ですか? じゃあ、あの、厄除けの……」
にこやかな巫女から六百円でお守りを入手し、ついでに参拝もした。きちんと手を洗い、お賽銭も丁寧に入れて、みやちゃんに悪いものが憑きませんようにみやちゃんに悪いものが憑きませんようにみやちゃんに悪いものが憑きませんように。
普段より二倍は長くお願いして、境内を後にした。
買ったお守りは、忘れないように学校の鞄に入れた。
「……?」
電話が鳴っている。
ベッドで眠っていた奏多は勢いよく飛び起きて、自分の部屋から階段を駆け下り、受話器を取った。
「はい、木沢です」
『…………。』
電話の主は話さない。
「あの?」
何も聞こえない。
「切りますよ?」
何も聞こえない。
仕方がないから奏多は、受話器を置いた。
そして振り返って、廊下に立ち込める闇に気が付いた。
コール音が切れる前にと焦っていて、周囲のことが見えていなかった。
けれど、これは。
「…………。」
自分がどこにもぶつからず、迷いもせずに階段を下りて、この電話機まで到着したことを不思議に思う。
固まりのようにねっとりとした、暗闇。
先ほどまで通話状態だった電話機の画面だけが束の間の光源となって、しかしそれもすぐに――、
ぱっ、
と消えてしまった。
そうすると奏多の目の前は、もう完全に黒で閉ざされてしまう。
――今は、何時?
今がまだ夏であることを考えると、七時近いと思う。
神社から帰ってきて、少し休憩した後は机に向かっていた。十五分だけ休もうと思ってベッドに寝転んだのが午後四時くらい。そしてそれからずっと眠ってしまった。
ぺた、
遠くで物音がした。
奏多の肩がびくりと震える。
木沢家にペットはいない。音を立てるものは家電くらいで――、
「……?」
――何も聞こえない?
おかしい、と思った。
冷蔵庫の音もしない。外で空気が鳴る音もしない。車が通る音もしない。
ぺた、
また鳴った。聞こえるのは、この音だけだ。
――近づいてる?
一度目よりも近い場所から鳴った。
湿っていて、粘着質で、柔らかいものが床に張り付いたような音。
それはまるで、
――誰かが裸足で歩いているみたい――。
「……っ」
ぶわ、と冷や汗がにじみ出た。
音は再び鳴る。……ぺた、……ぺた、近づいている、間隔も短くなっている。フローリングの床で、両親はいつもスリッパを履いているから、裸足などありえない。
ぺた、ぺた、
奏多は暗闇の中で動けなくなっていた。目は暗闇に慣れてくれることなく、視界の一切を黒で埋めたまま。
ぺた、ぺた、ぺた、
呼吸する喉が震えた。
歯がかちかちと鳴る。
心臓が痛いほど大きく拡縮を繰り返し、吐き出す息ははひゅはひゅと頼りない。来る、来ている、誰かが。
――誰?
――誰なの?
ぺたぺたぺたぺたぺたぺた、
吐き出す息は白くなっているのではないかと思うほど寒い。
全身にぞわぞわと鳥肌が立って、足は凍ったように動かない。動けなかった。そこから一歩でも動いたら、暗闇の中に一歩でも足を踏み入れてしまったら、目の前の誰かと目が合ってしまう気がした。
ぺたぺたぺた、ぺたっ――、
その瞬間、ふと、音が消えた。
「…………?」
奏多が訝しげになって、しばらくその場で固まっていても、それ以降の足音はなかった。
急いで電気を点けた。廊下のみならず、リビングからお手洗いまですべての灯りを点けて回った。そうしてようやく安心してへたり込んで三十分後、母親が帰ってきた。
奏多の通学鞄の中で、お守りの端がじわりと、黒ずんだ。
*
奏多が神社の石段を登り、二百段に到達した頃のことである。
「また何か悩んでる」
顔を上げると、蓮見が立っていた。
みやは縁側の柱に背を預けてぼうっとしていたけれど、彼に声をかけられてはそうもしていられない。会釈して、簡潔に答える。
「奏多さんの様子がおかしくて」
「……ふうん」
彼は考える素振りも見せずに、持っていた紙を取り出す。
「……それは?」
「名取が持ってきた。九年前の九月の記事」
の、コピーだろう。
みやからは、白いコピー用紙の裏面が見えている。黒いインクがぼやぼやと四角い形に透け見えていて、記事に画像が使われていることが窺えた。そしてその大きさから、当時の新聞でそれなりに大きく取り上げられたのであろうことも。
「第一発見者は母親。子供がいないのに気付いて敷地内を捜したところ、屋外のベンチで息絶えている子供を見つけた。母親は通報し、直後に自分の首を包丁で突き、命を絶った。警察が到着した時はすでに遅く、病院に運ばれた時は心配停止状態で、間もなく死亡判定が出されてる」
蓮見は、内容を一度は読み下しているのだろう。
いつものように穏やかな声で、薄ら笑いすら浮かべながら、みやに概要だけを伝えていく。
「子供の方の死因は、虐待による脳出血」
「……虐待……?」
「そう。現場に残されていたのは、子供のスコープと、星図、あとこぼれたラムネ。瓶にビー玉が入ったやつね。日常的に虐待があったのは子供の体を見れば明白だし、脳出血も後頭部を強く打ち付けてのことだし。母親の自殺も、まあ多少猟奇的ではあっても、不審な点はなかった」
「虐待をするような親が、自殺ですか?」
「虐待があっても、愛情もあったみたいだよ。子供が思い通りにならなくて行き過ぎた躾をしてしまうことがあっても、その後で泣きながらの謝罪を繰り返す――、うん、典型的なDVだね。子供を殺した後悔からか、罪を恐れてかは知らないけど、衝動的な自死だったんじゃないかって」
蓮見は紙から顔を上げて、呆けるみやを見下ろす。
「この子供と木沢奏多は友人関係にあった」
「え……」
「そしてこの時から、木沢奏多の成績が急激に上がったらしいね」
「…………。」
「それじゃ、そういうことだから。あ、そろそろお腹空いたけど、昼食はどうする?」
「……冷やし中華ができてます」
「そっか、ありがとう。じゃあ並べよう」
「……はい」
みやは差し出された大きな手を取って、のそりと立ち上がった。
蝉の声がする。
じわじわ、じわじわ。
耳の奥にもこびりつきそうな蝉の声。
その夜、奏多からみやにメールが届いた。
みやはSNSやメッセージアプリの類を苦手としているので、それなりの要件があればたまにメールが来る。
件名、やばい
本文、なんかすごい怖いことになった。怖い。いきなりでごめんね、怖くなってメールしちゃったんだ。あ、一応は解決? っぽいっていうか、収まりはしたからいいんだけど、なんとなく嫌な感じがするの。電話越しだと上手く話せない気がするから、月曜日にお話ししていいかな。ていうかするね。約束ね。もー怖くて禿げるかと思った!!!
まとまりのない文面である。
みやはそれに返信して、やりとりは終了した。




