結婚なんてできないね?
蓮見が目を覚ました時、隣にはまだみやがいた。
一人で使うには広い布団でも、二人ではやはり少し狭い。みやは蓮見に背を向けて、寝具からはみ出ないぎりぎりの位置で、縮こまるように寝ていた。
許嫁との共寝がそんなに嫌だったのだろうか。
傷つくより、この距離を保って眠れるのは器用だといっそ感心してしまう。
先日、縁側でうたた寝をしていた彼女は、あんなに素直だったのに。髪を梳くと『もっと』なんて強請って、すり寄ってきてくれたのに。
――なんて。
蓮見は自嘲する。
人間誰しも救いを求めるものだ。あの時、悪夢に魘されていた彼女は、その本能に抗えなかっただけだと解ってもいる。
布団の側に置いている時計を見る。目が暗闇に慣れても、文字盤の文字は細くて判然としない。
時計の裏のスイッチを押して、内蔵されたライトを点ける。
針は午前二時を指していた。
「……うん」
十分に眠れる。
寝よう。
熱も下がって、明日――日付が替わっているから今日になるが、とにかく四日ぶりの登校だ。変に夜更かしをして寝坊なんて笑えない。
隣に許嫁の温もりを感じながら目を閉じてすぐに、「……う」と苦しそうな声がした。
――みや。
苦悶を表す声に、蓮見は布団の中でみじろいだ。彼女の方に体を向け、艶やかな髪に覆われた後頭部をじっと眺める。
「っ……は、」
また聞こえた。蓮見は起こした上体を乗り出すようにして、上からみやの様子を見た。
彼女は眠ったまま呻く。
「……な、さ」
ごめんなさい。
「……か、さ」
おかあさん。
蓮見が手を伸ばし、彼女の首筋に手の甲をぴたりと当てる。
彼女はまた、夢を見ている。
蓮見は彼女と暮らすうちに、彼女の魘されように慣れてしまった。今回のように共に眠ることはなかなか無いが、心地良い気候の日に縁側で昼寝をすることの多い彼女は、よく無防備に寝顔を晒している。そして無防備に呻いている。
夢見と呼ばれるそれは、形栖家に伝わる力だ。
この世に強く焼き付いた誰かの記憶を夢に見る。
夢見。この言葉自体は古くからあって、現在では夢占いで通っている。
夢を吉凶の予兆とし、夢の内容を解釈、未来を予測する。
夢を神託だの魔女の予知だのという宗教的、あるいはオカルト的な文化は、千年以上前から世界中にある。
ただ、形栖家の場合は――。
蓮見の目が本棚に向く。ハードカバーの書籍が並ぶ中の一冊、十時瑛里著の『正夢と密宗』に、興味深い文章があった。
過去視。横文字でサイコメトリ。
失踪者や殺人被害者の持ち物への接触、または現場への訪問などで過去を見る。
つまり形栖家が指す『夢見』は、夢占いよりもサイコメトリに近いものだ。霊的能力ではなく超能力に当たるものと、蓮見は考えている。
考えて、それだけだ。
許嫁を理解しようと尽力したところで、所詮は自己満足だ。彼女のことは彼女の口から聞けるのが一番良いのだけれど。
「……君は」
――自分の力をどう思ってる?
『寄せ付けない』如月家と真逆に、『寄せ付ける』形栖家の苦しみを、蓮見は解ってあげられない。
――苦しくないかな?
少なくとも良い心地はしないだろう。
蓮見が触れていれば、彼女の幽霊のような呻きも徐々に収まっていく。健やかな寝息になったと確認して、蓮見はようやく手を離した。
触れていた首筋が生白い。
――そういえば、俺はこれでも健全な十代のはずなんだけど。
と今更ながらに当然のことを思い出して、蓮見はくすりと笑う。
自分が望めば、形栖みやは拒めない。
手を出しても咎められることはない。それどころか、彼女が外の世界で毒される前に既成事実を作ることを推奨すらされている。
けれど彼女がそこにいてくれる事実に満足している今、下手を打ちたくはないのだ。
己の中の蛮勇に頼らず、欲望に流されず、臆病に徹することもないように。これは、そう、自戒だ。
「……だけどこんな状態じゃ、結婚なんてできないね?」
蓮見は答えを期待していなかったから、それは独り言だった。
このままいけばあと一年と半年で、彼女に今以上の恐怖と屈辱を与えてしまうことになる。子供の数すらこちらの事情で決められてしまうのだから、まったく奴隷のようだ。
「ごめんね」
様々な意図を含んだ謝罪だった。
蓮見がみやから奪ったものは、未来だけではない。
みやは、
「……かまぼこ……」
彼の気も知らず、猫と戯れる夢を見始めていた。
「はいこれ授業のノートのコピー!」
奏多は頑張りました! と胸を張る。
差し出された紙は数枚ずつクリップで留めてあった。教科ごとの束になっているようだ。
「あと古文で和歌を覚える宿題があるけど、みやちゃんなら大丈夫かなっ。記述系の課題はないよ。体育もバレーのままで、あっ、明日の家庭科が調理実習だからエプロンと三角巾忘れちゃダメだからねっ!」
怒涛の勢いでぶつけられる連絡事項一つ一つに、みやは「はい」「はい」と頷いた。
みやが登校してきて机に着いた途端、奏多がすっ飛んできたのだ。
これを教えよう、あれも知らせよう、と考えていてくれたのだろう。
みやはくすりと笑い、友人からもたらされる逐一を頭に押し込んでいく。
「おはよ。形栖さん、もういいの?」
「はい、大丈夫です」
「あーみやさんだーおはよーございまーす」
「おはようございます」
クラスメイトたちも軽く挨拶をして、今日が始まる。
久しぶりの学校に余所余所しさがない。
ああ良かった。――みやは、ほっとしていた。
今日は金曜日だから、明日はまたお休みになってしまうけれど、一日だけでも来られたのは幸いだ。
とはいえ、何もかもが万全というわけではなかった。
「――形栖さん?」
「っあ、はい、すみません」
教師に少し強く呼ばれて、みやは顔を上げた。
教壇にいる数学教師は黒板の前で振り返り、神妙な顔でみやを見ている。その手は白墨で書かれた式の答えのあたりで止まっていて、その回答役に自分が指名されたのだろう。と状況把握はしたものの、みやの頭はうまく働かない。普段ならすぐに解ける問題だろうとは思う。
久しぶりの学校だから。しかし原因はそれだけではない。
「もし具合が悪いなら、保健室に行く?」
「いえ、大丈夫です」
居眠りなどを疑われないのは、みやの普段の行いが良いからだった。
その一件からも、たびたびみやは己の不調を自覚せざるをえなかった。体が重いし、先生の話は右から左へ通り過ぎていく。そういえば登校中も、やけに日差しが眩しかった。
原因はわかっていた。
「……みやちゃんさあ、今日ずっとあれだよね、変だよね」
「やっぱりそう思いますか?」
昼食時、購買部のパンを食べながら、みやは苦笑した。あずき白玉クリームパンとからしマヨネーズ焼きそばパンがここ最近のお気に入りである。
「少し寝不足なだけですよ」
そう、寝不足。苦手な相手と一緒では眠りも浅くなってしまったし、何か嫌な夢も見た気がする。まったく休んだ気にもならずに今日に至ってしまったから、頭も体も疲れっぱなしだ。
「実は昨日、蓮見さまと一緒に寝てしまって」
「…………。」
無言。
奏多は唖然として、みやを見つめる。もう一口パンを食べ進めたみやは、そんな奏多に軽く首を傾げた。
「……あの?」
「えっと、そういうことは、もっと……食事時は、止めよ? 後で聞いてあげるから、ね?」
「……はい?」
急に居心地悪そうに目を逸らされて、みやはますますわからなくなる。
ふと視線を感じたので周囲を見てみれば、隣近所に昼食スペースを構えるクラスメイトたちもこちらをじっと凝視していた。みやと目が合った途端に視線を他所へ逸らし、黙々と昼食を食べ始める。
「…………?」
みやは考えて、
「……はっ!」
思い当たった。
自分の先の言動には語弊がある。『寝不足』『一緒に寝た』なるほど誤解しか生まない。
「ち、ち、ちがっ、違いますっ!」
とんでもない勘違いをされたままではいられない。恥ずかしさで頬を赤くしたみやは奏多に、ひいては周囲のすべてに必死の弁解をする。
「寝たというのは、一緒のお布団で普通に寝ただけで、そんな、おかしなことっ、あのっ、私、してないです! 色々あったんですっ!」
「うん、うん、わかったよ。ほら落ち着いて。人生ってそういうとこあるよねー」
「生温かいこと言わないでください!」
本当に違うんです、誤解です、誤解でしかないです……。めそめそべそべそ泣き言を漏らしながらも、食べる手は止めないみやである。
そんなみやに、奏多は笑って、
「わかってるわかってる。はいこれ」
五百ミリリットル入りの紙パックオレンジジュースを、みやに差し出した。
からかってごめんなさい、元気出して、を奏多なりに表したつもりだった。
みやは「ありがとうございます……」と受け取ろうとして、ぐら、と眩暈がした。
寝不足の症状だ。みやが「あっ」と思った瞬間、パックが滑り落ちた。
重々しい音がして、紙パックの底が机に着地した。幸いにも高度がなかったおかげで、変な勢いが付くことなく、底から垂直に落ちきったのだ。中身も無事だろう。
一瞬の静寂のあと安堵の息を吐くみやの前で、奏多は、
じいっ、
と。みやを見つめていた。凝視していた。静かに、硝子玉のような瞳で。
九月一日にみやを洋館へ誘い込んだ時と、同じ。
「……奏多さん?」
呼ぶ声が震えていなかったか、みやは心配になった。
奏多はそうっと、口を開く。
「本当に?」
「……え?」
「本当の本当に、大丈夫?」
「大丈夫、ですけど」
それ以外に、なんと答えれば良いのだろうか。
みやは先の焦りも恥ずかしさも忘れて、友人の変わりようを驚いていた。同時に、恐ろしくも感じていた。
――奏多さんは、どうして――。
奏多は何を引き金に、『こう』なってしまうのだろう。
『至って普通のクラスメイト、だったんだよね?』
蓮見の言葉が、胸に刺ささったまま抜けていない。
彼に集まる様々な情報は、殆どが屋敷の『お手伝いさん』二人が集めてくる。彼はその中で気になった情報の正誤を確かめるのみの立場だけれど、もたらされた情報が正しいと判断した場合、その善悪を決めるのもまた、彼である。
少なくとも如月蓮見の中で、木沢奏多は悪だ。
悪い。
善くない。
正しくない。
如月家は『正しさ』にこだわる。
かつて形栖家を自滅に追い込みながら、人道的に手を差し伸べてきたように。
その正しさは結局如月家の主観によるもので、傲慢かもしれないけれど、今に至るまで如月家への不満を聞かないのが『正しさ』の証明だ。
――そうすると。
みやは奏多を見る。奏多は弁当をつつきながら「うちってお味噌汁にウインナー入ってることあるんだけどどう思う?」と真面目に訊ねてきた。
「ウインナーはおいしいのでアリかと」
みやは答えながら考える。
――木沢奏多は、『悪』なのだろうか。




