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ちゃんとノックしてよね

 ペンが進まなかった。

 数学は得意だ。数式を見ただけで答えが解るほどの超人ではないけれど、公式が解っているのにどうして周囲の生徒が「わからない」と言うのかわからないということは間々あった。

 我ながら、努力の天才と言えるのではないかと思う。

 数学は好き。

 だけど今は、小難しい数字を見る気分ではなかった。


「……はーあ……」


 奏多は参考書の上にペンを落とした。椅子の上で仰け反って、天井を見上げる。

 ――みやちゃん、大丈夫かな。

 気もそぞろ。こんな状態では、勉強に打ち込もうにも打ち込めない。

 天井の丸い電灯をぼんやりと見つめていると、まばたきすら忘れていた。

 ――あの人は、なんであんなにお祓いを嫌がったんだろ。

 如月蓮見はわかっている風な口を聞きながら、現状を理解していないのではないかとさえ思う。今日の訪問では雰囲気に圧倒されて、彼に詳しいことを伝えられなかった。

 明日、みやちゃんが学校に来なかったら、もう一度行ってみようか。

 そんなことばかりを考えていて、微分の問いを一つ解くのに二十分もかけている。

 ――明日だ。明日、また学校で決めよう。

 再びペンを取って程なく、ドアがノックされる。奏多はノートから顔を上げなかった。


「何?」

「林檎剥いたけど、食べる?」

「食べる」


 甘いものは素直に嬉しいので、ちょうど切りの良いところで手を止めた。ここまで式が書けていれば、またすぐに戻れるだろう。

 ドアを開けると、見慣れた母親の顔がある。奏多より十センチも背が高い母親は、いつもおっとりとしている。白髪染めで茶色くしている髪には艶があり、皺も薄く、贔屓目を抜いても若々しい。まだ三十代前半と言っても納得してしまうのではないかと思う。

 そんな母親、木沢由希子四十一歳は、


「これ」


 と、八割りにした林檎を三つ取り分けた器を差し出した。機嫌は良くも悪くもない、いつもの真顔。

 母親はそれであっさり一階に戻ろうとして、「ああ」と何かを思い出したようだ。ドアを閉めようとした奏多も咄嗟に止まる。


「なに?」

「まだ宇宙飛行士になりたいとか思ってる?」


 口調は、世間話の軽さだった。だけど母親としては切実な質問なのかもしれない。どっちにしても、奏多の答えは決まっていた。


「悪い?」


 真顔である。

 学校では少し間抜けで社交的に振る舞えるけれど、家族内に特別振りまく愛想はない。それが木沢奏多という人間だった。


「悪くはないけど、もっと考えたら? 来年は受験でしょ」

「わかってるよ」


 同じ内容の受け答えを、今まで何度繰り返しただろう。

「そう」とだけ言って、母親は今度こそ階段を下りていった。

 奏多はドアを閉め、机に戻る。

 将来は何になるのと聞かれて、わたしはうちゅうひこうしになりますと答える。同じ質問、同じ回答が全国の幼稚園で聞けることだろう。

 奏多は無駄に反抗する気は無いから、口喧嘩に発展することもなかった。幸いなことに家族仲は悪くない。親子全員が非好戦的な性格である。

 ただ奏多は夢を譲らず、両親は奏多の夢にほんのりと反対の意を示しているだけで――否。

 反対するまでもない。

 本気にしていないのだ。

 自分たちの一人娘を、宇宙飛行士になるという目的のためだけに学年一位に君臨し続けている奏多を、無知な子供だと思っている。

 ――そりゃそうだ。

 と、奏多は思う。

 十七歳なんて、まだまだ子供なのだから。だけど夢を本気とも認めてもらえないのは悲しい。

 机に林檎の器を置いて、椅子に戻った。

 赤い皮がほんの少し残っている林檎を一切れ口に運び、しゃくりしゃくりと咀嚼する。

 お行儀が悪いと思いながら右手でペンを執り、途中まで書いた式の続きに取りかかった。すぐに数値を導き出し、ノートに書く。

 ――問三、以下の設問に答えなさい。

 林檎を食べる。

 しゃく、しゃく、しゃく、

 甘い。栄養素なんて肉眼じゃわからないけれど、糖分が頭に巡っていく気がする。

 ――次の極限が存在する場合はその値を求め、存在しない場合は、


「…………?」


 奏多は顔を上げた。

 なんとなく違和感を覚えた。

 問題ではなくて、この部屋の空気に。

 ひしりひしりと、どことなく刺々しいような。自分の部屋が急によそよそしい。知らないうちに、知らない誰かの部屋に座って、一人でずうっと問題を解き続けていたような心地がする。

 手に馴染んだペン、中学校から使っている机、慣れた固さのフローリング、と。

 部屋中を見回して、異変に気付いた。


 開いてる?


 廊下へのドアが開いている。

 指が一本入る程度の細い隙間に、濃い闇が覗いている。


「……――?」


 閉めなかったっけ。

 奏多は首を傾げた。

 母親が戻っていって、その時に閉めきっていなかったのだろうか。慣れた動作はいつも無意識だから、閉め忘れたのだと考えれば、そうかもしれないとも思う。

 だけど。

 奏多は隙間を見つめた。知らずにこくりと唾を飲む。

 何か、おかしな感じがする。

 隙間の向こうは、真っ黒い液体で塗り込められたように、何も見えない。


「…………。」


 そうっと立ち上がった。

 一歩歩いて止まる。

 あの隙間から目が離せない。

 心臓の音が速くなって、それとは逆に呼吸が小さくなっていく。緊張しているのだ。どうして。ただドアが開いているだけなのに。

 閉め忘れただけかもしれないのに。そうでなければ、自分以外の『誰か』があのドアを開けたことになってしまうのに。

 それじゃあ、もしも、その『誰か』が、


 あの白い手だったら?


 そんなことを考えて、奏多は居ても立ってもいられなかった。


「ーーッ!」


 だんだんと大げさな足音を立てて歩き、ドアレバーにも触れず、隙間を押し潰すように勢いよくドアを押す。

 そしてしばらく、奏多はそこにいた。

 ドアを押さえたまま俯いて、ちょうどそこにあったレバーを無意味に見つめる。

 心臓がまだうるさい。手も震えている。

 だけどもう平気だ、何もない、怖いと思うのも、ドアを閉じたと思っていたのも、すべては自分の気のせいなのだとドアから離れようとした。

 ガヂャッ、

 レバーが、急に下に向いた。

 奏多は叫びたくなったけれど、


『何おっきな音出してんの?』


 ――なんだ、お母さんか。

 安堵の息を吐く。ドアの向こうから聞こえた声は、心底不思議そうだ。


「な、なんでもない」

『そう』

「ちゃんとノックしてよね」

『ごめんね』


 それで満足したのか、母親の気配が離れた。

 奏多は、


「……あー……っ」


 寿命とやる気と体力と精神力を急激に削られた気がして、何ともいえない声を出す。

 ――ばかばかしい。戻ろ。

 数学が終わったら現国と、学ぶことはいくらでもある。

 廊下の電気が点いていないことにも、階段を上り下りする足音がなかったことにも気付かず、一握りの違和感を胸に宿したまま、奏多は机に戻っていった。


 しゃくっ、

 軽く変色した、最後の一切れをかじる。

 しゃくっ、しゃくッ、シャく、

 奏多は林檎を好きとも嫌いとも思わないので、そこにあれば食べる。

 好きなものはオカルトと星と数学と友人。

 そして夢はいつか叶うという類の綺麗事が、夏と同じくらいに嫌いだ。

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