第7話 親子
夜勤で出勤した守屋が、食堂で夕食のトレイを持って並ぶ。遅番の雪子が、今日も流し場で背中を向けている。同じく遅番の事務方佐々木が、守屋の後に続いている。
「所長、今日いやに疲れた顔してますねぇ。大丈夫ですかぁ?」
「顔に出てる?」
守屋が気にする。
「目の下、クマ出来てる。なんか ほうれい線、深くなった感じ」
「そんなにぃ~?」
そんなやり取りが、意外に雪子の所まで届く。
「今日遅出だからって、昨日夜中まで遊び過ぎたんでしょう?こら、独身貴族!」
はははと笑ってごまかす守屋だった。
守屋達がトレイを下げた後、この片付けが終わったら 雪子の仕事はおしまいだ。それを踏まえて守屋が声を掛けた。
「ご馳走様でした。お疲れ様」
「さ、私も帰ろうっと」
事務方の佐々木が伸びをする。
職員通用口を出て 佐々木が歩き出すと、前にゆっくり歩く雪子がいる。
「あら、お疲れ~」
肩をポンと叩く佐々木。
「お疲れ様です」
雪子が頭を下げた。
「星野さん、どこまで帰るんだっけ?」
そんな他愛もない会話から、いつの間にか佐々木の子供達の話になる。
「うち、3人いるのよ。一番上のお姉ちゃん、今年19。社会人になったばっか」
自分と歳が近い娘を持つ佐々木に、雪子も勝手に親近感を抱く。
「一番上が19で、その次が17。で、一番下が12。小6」
感心して聞いている雪子の顔に気を良くして、佐々木がどんどんと話す。
「一番上と下が7つ離れてるから、そりゃもう おもちゃみたいなもんよ」
「佐々木さん、幾つの時のお子さんですか?」
「上の子産んだの、21。若かったわぁ~。今思うと、な~んにも分かってなかったなって思う。今の若い子の方が、よっぽどしっかりしてるわ」
「若く産んでると、手が離れてからもまだ若いから、そこから第二の青春やるって人、良く聞きます」
「そうねぇ・・・。そんなエネルギー、残ってるかな、私に」
またいつものトレードマークのわはははという笑い声が夜空に響く。
「早く産んで年取って遊ぶのと、若い頃散々遊んで、それからはずっと家族の為に生きるのと、どっちがいいんだろうね」
空を仰ぎ見て、佐々木が言った。
「例えば子供を大学卒業まで面倒見ると仮定した場合ね。定年が60だとすると・・・38で子供を産んでないといけないのよね・・・。あ、結婚してたら夫の年齢に値するかな、これは。今はさ、歳の差婚なんて流行ってるけど、結局最後は若い方が働かないといけない仕組みなのかね・・・」
38歳という年齢が思いがけない会話の中に登場して、雪子はどきっとする。もし今守屋の子供が生まれたとしても、その子が大学を卒業するのと守屋の定年とが一緒になる。そう考えると、守屋は本当はそうのんびりしてもいられない身だという事になる。そう感じた雪子は、急に気持ちがそわそわして仕方がない。自分があんな噂話に翻弄されて、時間をくれなんて言っている場合じゃないんではないかと、雪子は急に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「星野さん、今彼氏いる?」
唐突な質問に、雪子が戸惑う。
「あ・・・どうですかね・・・」
曖昧すぎるリアクションに、佐々木が面白がる。
「何、何?どうですかねって」
「いる様な・・・いない様な・・・」
雪子の心臓の音が、聞こえる様だ。
「星野さんって、どんな人がタイプなんだろう」
そう言って、佐々木が隣を歩く雪子をじ~っと見る。自然と雪子の鼓動が早まり、目を合わせる事はできない。
「リードしてくれる様な、それでいて優しい大人な人!そんな感じする!」
ここで下手なリアクションをすれば、疑われてしまうんじゃないかと、内心ひやひやの雪子だ。すると、意外にもそこから別の方向へ話が続く。
「うちの一番上のお姉ちゃんもさ、彼氏連れてくるんだけど、いやいや~なかなか私が安心する様な人、いないわ」
「そうなんですか?」
「そうよぉ!一番最初に連れてきた彼氏は、『俺、モテます』みたいなタイプだったし、その次は確か・・・結構こだわりの強そうな・・・気難しい自分ワールド持ってそうなタイプだったし。今の彼氏は、一緒に遊ぶには楽しいだろうけど、ちょっといい加減そうな子だし・・・。ま、まだ若いからねぇ、仕方ないんだろうけど」
相槌を打つ雪子に、思い出した佐々木が大きな声を上げる。
「あっ!そういえば、『どうした?こんなおじさん』って人連れてきた事もあったなぁ」
「・・・そうなんですか?」
「バイト先の上司だったらしいんだけどさ。それまで付き合ってきた同世代の男の子達と違って、包容力とか安定感とかに惹かれたのかもしれないんだけどね。ほら、うち母子家庭じゃない?だから大人の男の人に憧れるのかもね」
再び雪子の激しくなってくる鼓動を隠すのに必死になっていると、佐々木が聞いてきた。
「お家の人に、彼氏紹介する?」
雪子が頭を左右に振った。
「うち、父がずっと単身赴任してて、基本母と二人なんです。だから・・・なんか紹介とかしづらくて」
「あ~、分かる。私が若い時そうだった。うちも父親が単身赴任だったから、母といっつも一緒で凄く仲良かったの。だから余計に母が私の事、誰にも渡したくない・・・みたいなオーラ感じて、紹介なんかした事なかった」
「じゃ、結婚する時に初めて紹介した感じですか?」
「紹介なんてもんじゃないわよ。うちデキ婚だったから、言わなきゃならないから言ったって感じだったし、母は猛反対するしで めっちゃ大変だった」
20年近く昔の話を笑いながらする佐々木。
「で、離婚した時 母に『だからやめろって言ったのに』って言われたけどね」
大きな口を開けて、再び佐々木はわはははと笑った。
改札を入り、それぞれ反対のホームに降りる二人だったが、雪子はそれまでよりも佐々木に親近感を感じる様になっていた。
駅に着いて空を見上げると、今日は細い月が綺麗に輝いている。しかしここ最近天気が悪くて月が見えなかったから、それが欠けていく月なのか、満ちていく月なのかは分からない。そんな澄んだ月を眺めながら、洗い場で背中越しに聞いた守屋の会話を思い出す。
『所長、今日いやに疲れた顔してますねぇ。大丈夫ですかぁ?』
『今日遅出だからって、昨日夜中まで遊び過ぎたんでしょう?こら、独身貴族!』
昨日自分と会った後、誰かと約束をしていたから、きっとその人と会っていたのだろうと考える雪子。喫茶店で鳴った電話から漏れ聞こえた女性の声。『人と一緒』と雪子の存在を明らかにしなかった守屋。そういった幾つもの要素が折り重なって、雪子の心に影を落とす。しかし同時に、もしあの電話の相手がやましい関係の人だとしたら、席を外して出たんじゃないかと 冷静に分析する雪子もいる。信号待ちで 携帯を取り出すと、守屋に短いメールを打った。
『お疲れ様です。今日とても疲れた顔でした。ごめんなさい』
守屋が夜勤と知っているから、返事は期待しない。だから信号が青になると同時に、携帯を鞄にしまった。
しかしすぐに守屋から返事が来る。
『心配してくれてありがとう。一昨日から家の事で色々あって。ユキのせいじゃないから、気にしないで』
次の日、早番で雪子が職場に入ると、廊下で守屋とすれ違う。守屋の方が先に気付いて声を掛けた。
「おはよう」
「あ・・・おはようございます」
すれ違い様にお辞儀をして通り過ぎようとすると、守屋の声がまだ続く。
「朝早くからご苦労様」
「いえ・・・」
職場でこういう状況は非常に危険だ。二人だけの様に思っても、角を急に曲がって人が現れる場合もある。トイレとか洗濯室とか、廊下沿いの色々な部屋に職員が潜んでいる場合もある。だからあえて雪子は、早く厨房に行かなくては という素振りを見せる。そういう気配とか空気に敏感な守屋が、それに気が付かない筈がない。
「今日も宜しくお願いします」
守屋は無難にそう言って、少しにっこりと笑った。思わず通り過ぎた後に、雪子は安堵の溜め息が漏れる。背中越しにその溜め息を聞き取った守屋は、思わず振り返る。そして夜勤明けの疲れた体から、重たく深い溜め息が一つ 吐き出された。
この日以来守屋から雪子への連絡はない。考える時間が欲しいと言った雪子。職場ですれ違った後に聞こえた溜め息を思うと守屋は、メールを送るのも躊躇われる。
ゴールデンウイークを目前に控えた職場では、様々な行事が立て込んで、守屋も実際忙しい。その上家には軽い鬱病の症状の弟と、血圧の高い母親がいる。守屋はどこにいる時も、本当に気の休まる時はないのだった。
去年の年末に守屋と雪子が付き合う様になって、でもお互いほんの少しずつ手探りで距離を縮めてきた様なものだ。いつしか気が付いたら守屋から連絡が頻繁に来るようになって、その内毎日のルーティーンの様になっていた。しかし、それが無くなって二日目位から雪子も『あれ?』と思う様になり、一週間もすると不安で胸がいっぱいになっている。しかし自業自得だと納得させる自分と、わがままに自分の気持ちを叫ぶ自分とが、小さな胸の中で喧嘩する。その内職場で見かけても、雪子の方から避ける様になってしまって、これじゃ悪循環だと分かっていても、正直に胸が苦しい自分から逃げるしかできないのだった。
守屋が夜 家で祐司に言った。
「明日お母さん休みだから、午前中病院連れて行くから」
「うん」
そう言ってから、祐司が幹夫に聞いた。
「兄ちゃんも休み?」
「いやいや、俺は遅番だから、病院終わったら行く」
その後で、幹夫の部屋にノックがある。祐司だ。
「明日お母さんの病院・・・代わりに俺・・・行こうか?」
幹夫は驚いて返事が遅れる。そりゃそうだ。頼んでもいないのに自分から何かを買って出るなど、つい先日までの祐司からは到底想像もつかない姿だからだ。しかし、それを言ったすぐ後で祐司がそれを取り消した。
「俺が付いてったって意味ないか。お母さんの具合、俺良く分かってる訳じゃないし・・・」
祐司が言い終えるか否かで、幹夫が言葉を被せた。
「そうしてもらえると、たすかるわぁ」
「俺でも・・・いいの?」
「全然、いいよ。俺だって、ただの運転手だし」
祐司が小さく頷くのを見てから、幹夫が言葉を足した。
「俺と一緒だと慌ただしいから、かえっていいかも。帰りにどっかで飯でも食ってくれば?時々一人で食べてくるみたいだから、多分旨い店知ってるよ」
幹夫がにっこりと笑って、祐司の肩をポンと叩いた。
雪子と母の仕事が終わる時間が合う時は、時々外で待ち合わせをしたりする。
二人とも本が好きだから、たまに大きな本屋さんに来て、読みたい本をそれぞれに物色する。母が三冊、雪子が二冊購入すると、肩を並べて帰り道を歩く。
「たまには、どっかで食べてっちゃおうか?」
嬉しそうに母が言う。雪子の家は父親が単身赴任をしているから、普段家で夕飯を食べるのは二人だけだ。雪子が小学校入学して間もなく、父が群馬に単身赴任となった。月に一回位土日で家に帰ってきたり、父の赴任先のアパートに 母が身の回りの世話を焼きに行ったり、そんな生活が15年近く続いている。
「何食べようかぁ?」
母が雪子に腕を絡めて聞いてくる。父が居なくて母一人子一人の生活が長いから、どうしても関係が近くなる。同世代の母娘よりも友達の様な関係に近い。・・・と母は思っている。
天ぷら屋に入って、揚げたての品々を頂きながら、母はいかにも幸せそうな顔をする。
「やっぱり天ぷらはお店で食べないとねぇ。家じゃ、こうはいかないもの」
二人で出掛けていても、やはり多く喋るのは母だ。雪子はそんな母を見てよく思う。この人はきっと甘え上手なんだろうなぁ・・・と。
「あ、そうだ。今度の週末、お父さん帰って来るって」
「土曜日、私遅番だから帰るの遅くなる。せっかくだから二人でどっか出掛けてくれば?」
「え~?!そう?・・・でも、どこ?」
たまに体をよじらせる様な仕草をする。きっと男の人は、こういう女性を可愛らしく思うのだろう・・・等と考える雪子は、本当にこの人の子供なら、どうして こういう所が似なかったんだろうと、たまに自分を残念に思う時がある。
「お母さん最近ね、ちょっと楽しみにしてる事があるの」
そう言って話し出す母。
「雪子が結婚したら、お母さんにも息子が出来るでしょ?どんな子かなぁって、それ楽しみにしてんの」
「えぇ?!」
「だって男の子も育ててみたかったもん」
雪子はいつも一つ一つに相槌は打たない。でも母はいつも機嫌よくお喋りを続ける。
「ジャニーズ系の子かなぁ?とか、お笑い系かな?とかさ・・・」
母の頭の中に描かれている映像は、きっと同年代の若い男の子だ。そう思うと、余計に返事もしにくくなる。
「今彼氏いるの?」
「う~ん・・・わかんない」
雪子が曖昧な返事をすると、母は当然ごまかしているのだと思ってじっと目を見る。しかし、本当にそうとしか言えない今の状況をどう説明していいのかも分からない。
「何、何~?何か上手くいってないの~?」
軽い調子で母が聞いてくるが、母が思っている程、雪子が何でも話している訳ではない。夫が単身赴任で居ない分、娘にべったりな母に少し遠慮して、今まで彼氏なんか紹介した事は一度もない。いる素振りを見せた事すら、実はないのだ。だから先日、職場の佐々木が話してくれた母親との関係が自分にそっくりで、勝手に親近感を抱いてしまっているのだ。
「もし彼氏が出来たら、お母さんに紹介してよ。仲良くしたいもん。三人で一緒に買い物に行ったり、ご飯食べに行ったり。うわ~、楽しそう。ね、ね?そう思わない?」
勝手な妄想を繰り広げる母の頭の中に思い描く理想の娘の彼氏はどんな人だろう。まさか自分の方が歳が近くて、以前の職場の女の子を妊娠させた噂のある人だなんて知ったら、どうなってしまうんだろう。雪子はそんな事を思いながら、天ぷらをゆっくりと口に運んだ。
帰り道、見上げた夜空にこの間よりも少しかさを増した月が輝く。
「綺麗な月」
嬉しそうに見上げる雪子に 母が腕を絡ませる。
「今日のは満ちてく月なんだ?」
「うん」
母に腕を掴まれているから、雪子は安心してよそ見をしながら歩ける。月をじっと眺めていると、ふと思い出した春樹と久し振りに再会した夜の事。
「夏子ちゃんに、会いたいなぁ~」