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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
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第6話 雨雲


 守屋から傘を借りた次の日、雪子が遅番で出勤すると、駐車場には既に守屋の車がある。雪子は昨日借りたビニール傘を、その車のサイドミラーの根元に引っ掛けた。


 職員の昼食時、守屋と顔を合わせるのを恐れて、雪子は奥の洗い場の方へ逃げる。

「ご苦労様」

カウンターの外から聞き慣れた声が雪子の耳に届くが、じっと背中を固まらせて通り過ぎるのを待つ。

 食べ終わったトレイを下げに来た時も同じだ。

「ご馳走様」

守屋が席を立つのを見計らって、あらかじめ洗い場に避難する。雪子だって分かっているのだ。こんな事をしたって、何も変わらないという事を。昨夜駅でバッタリ会った春樹に言われた言葉が刺さる。

『自分の見た物 感じた物しか信じない様にしてる』


 仕事を終えた守屋が駐車場に来て、サイドミラーに掛けられた傘を目にする。運転席に深く沈んでから、守屋がメールを送る。

『お疲れ様。傘、わざわざ持って来てくれたんだね。ありがとう』

きっと返信なんかないと、送った後で鞄にしまう。守屋は大きく息を吸い込んでから、車を発進させた。鞄の中で受信しているメールがある事も知らずに。


 自宅に戻ると、母親が居間で横になっている。

「ただいま」

テレビが付いているその部屋に顔を出して、守屋がそう声を掛ける。すると母親が横になったまま手を高く上げた。

「ちょっと、めまいがしちゃって・・・」

守屋はすぐに母の傍に近付いてしゃがんだ。

「連絡くれれば良かったのに」

「仕事中じゃ悪いと思って・・・」

「何言ってんだよ。何かあってからじゃ遅いんだからぁ」

そう言って、テーブルの上の血圧計に目をやる。母がいつも手放せない物だ。

「血圧は?」

「う~ん・・・ちょっとは高いけど、それ程でもない」

「仕事は?出来たの?」

「帰り際にちょっとふらついたけど、最後までは支障なく出来たの。帰ってきたら 安心したのか、ふわ~と急に目が回っちゃって・・・」

「そっからずっと、こうしてんの?」

守屋が腕時計を見ながら言った。

「気持ち悪いとか、どっかしびれてるとかはない?」

「うん、平気。そうなったら、すぐみきに電話しようと思ってたから」

聞きながら、母の血圧を測る守屋。そんな息子の顔をしみじみと見ながら、母が言った。

「ごめんね、心配かけて」

「何、水臭い事言ってんの」

さほど高くない血圧を確認すると、守屋が言った。

「夜の分の薬は?飲んだの?」

「ご飯食べてないから・・・」

「何か食べる?作るよ」

母は手を横に振った。

「食欲ないからいい。幹夫は?食べてきたの?」

「俺の心配はいいよ。大丈夫、自分で幾らでも出来るから」

救急で病院に連れて行かなくても大丈夫そうな母に、少しほっとする守屋だった。


 その守屋が部屋に入ると、一瞬にしてどっと疲れが溢れ出す。ベッドに腰かけてネクタイを緩める。思い出した様に 鞄から携帯を取り出すと、雪子からのメールが来ている事に気が付く。

『傘ありがとうございました。少し、話したいと思います。駅前の噴水の所で待ってます。もし時間があったら来てください』

それを読んで慌てて立ち上がる守屋。メールの着信時刻を確認すると、傘のメールを送った直後だ。突っ立ったまま守屋は雪子に電話をするが、いくら呼び出しても出ない。守屋は財布と携帯をポケットに突っ込むと、部屋を飛び出した。

 玄関を出る手前で、思い立って居間に横になっている母に声を掛ける。

「ちょっと出てくるけど、具合悪くなったら すぐ電話ちょうだいよ」


 信号待ちで雪子にメールを入れる。

『メールに気が付くの遅くてごめん。今、駅前に向かってるけど、もう帰っちゃったかな』

“駅前の噴水”とは、職場の最寄り駅の事だ。意外に道路が空いていて、スイスイと目的地に到着するが、やはりもう雪子の姿はない。守屋はもう一度電話を掛ける。一方的に鳴りっぱなしの電話を、諦めて切る。守屋は車から降りて駅の噴水の周りを一周してみる。しかしやはり雪子の姿はない。溜め息交じりに車に戻ると、思い立った様に車を発進させた。


 雪子の家の前に着く。もう一度守屋は電話を掛けた。耳に当てた携帯からは、やはり呼び出し音が無情に響くだけだった。時計は11時になろうとしているところだ。守屋はもう一回だけメールを送ってみる事にする。

『今日はいっぱい待たせちゃったよね。本当にごめんなさい。今家の前に来てみたんだけど、会えるかな?』

送信して、守屋は助手席に携帯を置いた。

 10分程して、守屋の携帯がメールを着信する。雪子からだ。

『明日早番で、もう寝るところでした。せっかく来てもらったのに、ごめんなさい』

大きな溜め息を吐きながら、守屋は返事を返す。

『そうだね。今日はもう遅いから帰ります。明日、仕事の後話せる?その時間に合わせて、ちょっとなら外出できます』

しかしその晩、それに対して雪子からの返信は無かった。


 次の日の午前中、雪子から守屋へメールが届く。丁度厨房は、朝食の片付けが終わり、昼食の準備へ移る前の休憩時間だ。

『昨日の話ですが、仕事中は申し訳ないので、今度の機会で大丈夫です。別に急ぎませんので』

よそよそしい言葉遣いと、先延ばしにする雪子の態度に 守屋は小さい溜め息をつく。

『仕事が終わったら、家の前まで行きます。会えるかな?』

そう打ち込んで、守屋はふと母親の様子が気になる。昨夜はめまいがして結局居間で寝てたけれど、今朝は大丈夫だからと いつもの時間に仕事に出掛けて行った。しかし、病院にも行かず めまいの原因もはっきりしないまま、仕事中に又具合が悪くなってしまうんじゃないかと気に掛かっていた。今は極力 雪子とできない約束はしたくない。そう思った守屋は、文面を削除して、携帯をしまった。


 その日仕事を終えた守屋が車に乗り込んで、真っ先に母に電話を掛ける。

「具合どう?」

「今日は大丈夫だった。少し変な感じはあるけど、昨日みたいに動けなくなる程じゃないから」

「なら、良かった。安心した」

「あっ、そうだ、幹夫。祐司がね、昨日電話してきて、なんだか相談があるみたいでね。私も具合が悪かったから、週末に来なさいよって言ったんだけど急いでるみたいで」

祐司とは、守屋の5つ年下の弟だ。両親が離婚して母子家庭になってからは、守屋が高校生位から父親代わりだ。

「分かった。電話してみるよ」

「お願いね」

母親との電話を終えると、守屋は雪子に電話を掛ける。

「はい」

暫く鳴った後でようやく雪子が出る。

「今これから会える?そっちまで行くから」

「・・・・・・わかりました」

少し考えた後で返事をした様子が分かる。

「着いたら、また連絡するよ」

そう守屋が言うと、雪子が微かに慌てた様子で付け足した。

「家の前だと目立つんで・・・どっか別の所にしてもらえませんか?」

まだ親にも紹介していない男と 家の前の車で長居している所を見られる事態を避けたい気持ちもわかるが、守屋の気持ちに少し影が落ちる。昨日からずっと距離を感じる口調もその影に加担している。守屋は自分の気持ちを隠して、快く返事をした。

「じゃあ・・・せっかくだから、お茶でもしようか?」

「・・・家の前じゃなければ、どこでも大丈夫です」

皮肉な言い方に悲しい笑いがふっと漏れる守屋だ。


 雪子が指定した喫茶店に先に着いて待つ守屋。昨夜から母の事や雪子とのすれ違いで、少し疲れた守屋は ふうっと大きく深呼吸をすると、椅子に寄り掛かって窓の外をぼんやりと眺めた。

 視界の端に現れた雪子が、俯き気味に歩いてくる。その時、向かい側から歩いてきた同じ位の歳の男に声を掛けられ、急に顔をぱあっと明るくさせてニコニコと会話を交わしている。男はポケットから携帯を取り出して、雪子に見せたりしている。二人は顔を見合わせて笑って、暫く会話をした後、手を振って別れて行った。


 その後雪子が喫茶店に入ってきて守屋の前に現れた時には、また最初の顔に戻っていた。テーブルに近付くなり、雪子が戸惑った様子で言った。

「窓際ですか・・・」

「あ・・・気になる?じゃ、席替えてもらおう」

他にも席が空いているのを確認して、守屋が店員に声を掛ける。

 店の奥の方の席に移って、ようやく雪子は椅子に座った。

「昨日はごめんね。メールに気付くの、すっごく遅くて。随分待ったんじゃない?」

「・・・大丈夫です。勝手に言い出した事だから」

さっき外で知り合いと話していた時の笑顔はない。そんな事を思いながら、守屋は雪子の顔をぼんやりと眺める。

「こうして正面から顔見るの、久し振りだね」

「・・・・・・」

当然の事ながら、雪子は下に顔を向けた。

「職場じゃ見掛けるけど、こういうのは無いもんね」

気まずさをごまかす様に、雪子がメニューを広げた。ロイヤルミルクティーを注文する。

「今日はココアじゃないんだ?」

「はい」

メニューをパタンと閉じると、急に二人の間の空間が空っぽに感じる。

「話って・・・何?」

守屋にそう聞かれ、雪子は少し心の準備をする時間が掛かる。そこへ、テーブルの端に置かれた守屋の携帯が震えた。何回か鳴っているのを見て、これが電話だと察する雪子。まだ話し出さない雪子を見る守屋が、言いにくそうに口を開いた。

「ごめん、ちょっと電話」

「どうぞ」

守屋は電話を耳に当てながら言った。

「どうした?」

席を立たずに、その場で少し体だけ向きを変えて話す守屋。相手の話に守屋が相槌を打つ間、雪子は俯いて時をしのぐ。守屋の声だけが時々する。

「分かったよ。後で行くから。また俺から連絡するから、待ってて」

それでも、どうやら電話の相手がまだ話している。かすかに女の声が漏れてくる。

「ごめん。今人と一緒だから。その事は又後でゆっくり聞くから」

『人と一緒』・・・雪子の胸に急に寒い風が吹く。『彼女と一緒』とは言えないのだ。携帯をポケットにしまいながら守屋が言った。

「ごめんね」

その守屋の言った『ごめんね』も屈折して聞こえてしまう雪子だ。心の中の、普段は蓋が閉まっている箱の中から 滅多に出ないモンスターが現れてきそうになる。さっきまでは正直に色々思った事を話してみようと思っていたけれど、雪子の口が固まってしまって だんまりとなる。

「え~っと、で?話って?」

なかなか踏ん切りの付かない雪子を、コーヒーを飲みながらゆっくり待つ守屋。

「時間・・・急いでますよね?」

「あ・・・大丈夫だよ」

さっきの電話では確かにこの後の予定を入れていたのに、それを詳しくは言わない事に雪子は背中を押された。

「前の職場から・・・どうしてこっちに異動してきたんですか?」

雪子は言ってから自分でもびっくりする。いきなり直球過ぎたかもしれないと後悔するが遅い。

「立川から?」

「・・・はい」

守屋が暫く黙っている。

「どうしたの?急に」

「・・・・・・」

雪子の心臓は今にも飛び出してきそうな程激しい。沈んだ表情の雪子を見て、守屋は話を続ける。

「俺の事、信じられなくなってるって言ってたけど、それは人として?それとも、男として?」

こんな質問に答えられる筈のない雪子は、緊張のあまり唾を飲み込む喉の音がごくっと鳴る。

「首相の支持率じゃないけど、100%好意的に見てもらえる事なんてないからね。一生懸命やってても、そりゃあ、悪口くらい言われるだろうしね」

「守屋さんは・・・今まで職場の人とお付き合いした事、ありますか?」

顔を見ずに質問をする雪子を、じっと見ながら守屋が答えた。

「・・・あぁ、そっちの悪い噂か・・・」

この緊張感をごまかそうとミルクティーに手を伸ばすが、手が震えている様で、再び手を膝の上に戻した。

「その辺は過去の恋愛の話になってくるから、慎重に話したいと思う。誰だって、昔の話なんて気分良くないし、俺なら聞きたくない」

この話題になった時、真っ先に守屋が『あぁ、そっちの悪い噂か』と言った事に、雪子はもう答えが出た様な気持ちでいっぱいになる。

「やっぱり・・・いいです。ごめんなさい」

「俺は別にいいよ」

「私が・・・多分無理です。だから・・・平気」

守屋がアイスコーヒーを一口飲んでから言った。

「どんな噂聞いたの?それが本当かデマか答えよう」

「・・・・・・」

雪子は頭の中で、それを言ってみるイメージをする。・・・無理だ。絶対に無理だ。あの話を、自分の口から、しかも本人を目の前にするなんて無理だ。答えに行きつくと、雪子は鞄を持って頭を下げた。

「わざわざ来て頂いて、ありがとうございました。この後のご予定もあるみたいだし、もう帰ります」

財布をもぞもぞ取り出す雪子に、守屋がそれを止めた。

「今目の前の俺を信じてもらうしかないけど」

言いながら守屋の目に 鏡に映った二人の姿が飛び込んでくる。傍から見たら、上司と部下か。俯いている雪子が 余計に、上司に説教されている新入社員に見える。いや、それとも不倫関係の男女か。店の奥の人目に付かない席に座っているから、余計にそう見える。とても健全な恋人同士には見えない。雪子が家の前や窓際を避けたい気持ちも分かる。そう思った途端、守屋の言葉がつまる。


店を出て、車の前で守屋が言った。

「今日俺と話して、意味あったのかな?肝心な所、何も話してないけど」

目の前でそわそわしている雪子が、早く帰りたい様に見える。

「今度また休みの日、どっか行こうよ」

前も同じ様な会話をした記憶はあるが、その時の様に守屋の声に張りはない。返事を躊躇している雪子に、少し笑って緊張をほぐす守屋。

「信用できない男とデートなんて、する訳ないか・・・」

見上げた夜空は雲で覆われていて、今夜は月も星も姿を見せていない。

「もうちょっと・・・考える時間、貰ってもいいですか?」

雪子が言い終えるか否かのタイミングで、守屋の携帯がマナーモードで震える音が微かにする。それを聞き取った雪子は、頭を下げた。

「長くなっちゃって、ごめんなさい。帰ります。おやすみなさい」

守屋は走って帰っていく雪子の後ろ姿を見ながら、電話に出る。母だ。

「祐司ん所、行ってくれた?」

「まだ、これから行くとこ」

「電話しても出ないんだけど・・・。どうしよう。又あの子引きこもっちゃってるのかしら?」

弟の祐司は3年前に仕事上のストレスから軽い鬱状態になり、一人暮らししているアパートに引きこもりになった事がある。昨日の電話での様子といい、今日はかけても取らない電話といい、母の心配はピークに達していた。

「私が昨日、すぐに聞いてやらなかったからかな・・・。週末になんて、後回しにされたと思っちゃったのかしら?」

「大丈夫だよ。これから行ってみるから。あんまり心配し過ぎないで、休んでてよ。自分だってめまいで倒れちゃうから」

幹夫は運転席に乗り込んで、車を発進させた。


 守屋と別れた場所から見えなくなるまで、足早に歩く雪子。角を曲がって少し速度を緩めると、ようやく呼吸が普通に出来る様な気がする。好きな人と会えた筈なのに、全く嬉しいと感じる余裕はない。むしろ息がつまる様だった。きっと守屋にも嫌な思いをさせたに違いないと思うと、職場で会うのが辛くなる雪子だ。疑いを晴らすつもりで会いに行ったのに、その疑いが確信になりかけた今夜だ。

『自分が見た物感じた物しか信じない』

と言った春樹の言葉を用いるなら、今日の会話から出した結論は“黒に近いグレー”だ。しかし、その事実というよりも、なぜそうなってしまったのかが大事の様な気もする。そして、そんな過去もある15歳年上の人との恋愛を続けていくには、自分には何が足りなくて、どんな心になったらいいのかを誰かに教えてもらいたい。そんな気持ちの雪子だ。

 帰りながら、さっき喫茶店の前でバッタリ会った春樹にメールを送る。

『夏子ちゃんに相談したい事があるの。近い内に会えないか、聞いてみてもらえる?』


 夜遅くに帰宅した幹夫の車には弟の祐司が乗っていた。寝ずに待っていた母親は、二人を心配顔で出迎えた。

「おかえり」

「ただいま」

幹夫がそう返事をすると、母親が祐司に笑顔を向けた。

「お風呂温めてあるから、ゆっくり入っといで」


 祐司が風呂に入っている間、幹夫が母親に言った。

「やっぱりちょっと不安定になってる。会社も一週間休んでるって」

母親が心配の色を濃くする。

「お母さんの具合もあんまり良くないから、家に帰ってきて暫くの間 様子見てやってくれないかなぁって頼んで、連れて帰ってきたから」

「あぁ、そうなんだ」

幹夫の計らいに母が頷く。

「俺明日夜勤だから、午前中に祐司と一緒に会社に行って、少し休職できないか頼んで来ようかと思ってる」

「そうかぁ・・・」

「もうあいつも33だから、自分でさせようかとも思ったんだけど・・・どう思う?」

「今のあの子・・・一人で会社に顔出せるかね?」

母の眉間に皺が寄る。心配事があると、いつもこの皺ができる。

「人と会うのもしんどそうだったから・・・」

「さっきのあの子、3年前と同じ目してた・・・」

母は続けた。

「明日私が仕事行ってる間、大丈夫かなぁ。一人で思い詰めたりしないかな・・・」

どんどん母の眉間の皺が深くなる。

「大丈夫。俺が明日ちゃんと話すから。お袋も 今夜ちゃんと寝ないと、また血圧上がって倒れるぞ」

「う・・・ん」

「まずは帰って来たんだから、安心だろ?」

「そうね・・・」

「あっ!あと、あんまりあいつの世話焼き過ぎちゃ駄目だよ」

「・・・そう?」

「こんないい歳して自分は親にも迷惑掛けてるって、どんどん自分を責めちゃうから」

「そう・・・」

「今まで通り。いつも通り。何なら、少し位家の事頼んだらいいよ」

「・・・分かった」

母は決心した顔になり、眉間の皺が薄らぐ。


 風呂から上がった祐司の顔は、母が以前見た時よりも少しやつれている。幹夫が台所で温めた味噌汁を祐司に出す。

「これ食べて、今日はもう寝よ」

味噌汁をゆっくりと食べ終えた祐司が、蚊の鳴くような弱々しい声で言った。

「兄ちゃん・・・ごめん」

幹夫は無言で祐司の肩をポンポンと叩くと、立ち上がった。

「さ、寝よ」


 急な事で祐司の使っていた部屋が片付いていないからと、今夜は幹夫の部屋で寝る事となる。なかなか寝付けない様子の祐司に、幹夫がベッドから話し掛けた。

「お前、彼女とかいないの?」

「いないよ」

「へぇ~。いつから?」

「3年以上いない」

「そっかぁ・・・。欲しい?」

「ん・・・どうかな。今は自分の事で精一杯だし」

「でも、将来は結婚したいとか思わない?」

「そりゃ・・・出来るならしたいけど・・・無理だよ」

「そんな事ないよ。ほら、確か高校ん時 可愛い彼女いただろ?」

「忘れたよ、そんな昔の事」

そう言いながらも祐司は、今日幹夫が会いに行った時よりもスムーズに会話が出来る様になっていた。

「兄ちゃんは、いるの?彼女」

祐司の方から質問をしてくるなんて、と嬉しい気持ちをこっそり隠し、幹夫は変わらない調子で続けた。

「うん・・・」

「結婚するの?」

幹夫が首を横に振って、それを否定した。

「どうして?・・・お母さんの事、心配してるの?」

「そういう訳じゃない」

「・・・じゃあ、なんで?」

「まだまだ、そんな段階じゃないんだよ」

「そうなんだ」

「俺の事、今信用できてないってさ」

「え?なんで?何かあったの?」

「別に何も。俺の良くない噂でも聞いたんじゃないかな・・・」

「噂?・・・同じ職場の人なの?」

「うん」

「そうなんだ・・・」

幹夫がちらっと祐司の方を見ると、ほんの僅かだが、顔に生気が戻っている様に見える。

「俺も、こう見えてもけっこう辛い状況なんだよね・・・」

「兄ちゃんでも・・・あるんだね」

「あるよ、あるよ。当たり前だろ?会社行かないで、ずっと籠ってたい時だってあるよ。本社と現場の間にいる、いわば中間管理職ってやつだからね」

「へぇ~、兄ちゃんもね・・・」

「愚痴れる所もないし・・・」

「・・・大変なんだ・・・」

そう言って少し考えてから、祐司が小さい声で言った。

「俺で良かったら・・・聞くよ、いつでも」

「本当?!」

「俺なんかに話したって解決にはなんないけど・・・」

「聞いてくれるだけで、救われるわぁ~。じゃ、そん時は頼む」

あくびが一つ出た幹夫に、祐司がさっきよりも少し明るい声で言った。

「俺・・・帰ってきて、良かったかも。おやすみ」


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