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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
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第5話 天秤


 村瀬と再び関係を再燃させた夏子だったが、実家の母と祖母の話を聞いて以来、二人きりで会うのが躊躇われる。何年も人の道から外れた事をしておきながら、意外とまだ正常な感覚を持っている自分に 夏子は正直少し驚いていた。夏子から誘わなければ、村瀬から誘って来る事はない。しかし、夏子が誘うと応じる。最近はそんな関係に定着しつつある。職場で顔を合わすけれど、物足りない。だからといって、会社を出て村瀬の連絡先を見つめると同時に 実家で聞いた待つ家族の辛さが耳の奥で聞こえてくる。自分の身が切り裂かれる想いだ。ショップの駐車場に停めたまま、夏子は運転席で顔を覆う。

するとそこへ、助手席の窓をコンコンとノックする音がする。慎二だ。村瀬と待ち合わせをするコンビニでの 彼の到着した合図と同じで、夏子は一瞬期待して窓の外を見たから、正直落胆の色を隠せない。助手席のパワーウィンドウを下げると、慎二がそこから顔を覗かせた。

「夏子さん、まだ居たんすね」

「あ・・・うん。もう帰るけど」

慎二とは もう気まずさは無いと言えば嘘になる。夏子が、極力二人きりにならない様にしているのも事実だ。

「急いでますか?」

「そりゃ、そうのんびり・・・」

言い訳を言いかけた所を、慎二が遮った。

「急いでないっすよね~、まだここに居たんですから」

夏子は しまったと思いながら、仕方なく『まぁね』と返す。すると、慎二がニコニコと満面の笑みを夏子に見せた。

「乗せてもらえませんか?」

「え・・・」

そう渋りかけたところで、慎二が大きな荷物を持ち上げて見せた。

「デカい荷物あるんで・・・」

結局、後部座席に荷物を積んで、助手席に慎二が座る。

「助かりますっ!」

「まったくぅ。ちゃっかりしてる」

少し呆れ顔で夏子が言うと、慎二が明るく言い放った。

「丁度良いところに、夏子さんの車見つけたんで」

車を発進させてから、夏子が聞く。

「何の荷物?」

「友達に、ダイビングのセット一式貸すんで」

「あ~、それで自分の持ち帰るってわけか」

「はい」

そこからは、その友達がダイビング初挑戦だとか、どこの海に潜りに行くだとか、そんな他愛もない話題で間が持つ。以前慎二を送った時に曲がった角が近付いてきて、夏子がウィンカーを出そうとすると、慎二がそれに待ったをかける。

「あ、今日はそこ真っ直ぐで」

「え?曲がんないの?」

「こっからは俺ナビるんで」

慎二の指示通りに車を走らせる事20分、夏子が見慣れた景色に気付く。

「あれ?ここ、さっき通った道でしょ?」

「あ、バレちゃいました?」

にやけ顔の慎二に夏子が聞く。

「何?道迷ってんの?」

「いいえ」

「何ぃ?どこに向かってんの?」

慎二はふふふと意味深に笑いながら答えた。

「俺ん家」

「え~!じゃ、最初っから曲がっとけば良かったじゃない!」

「それじゃ、すぐ着いちゃうじゃないっすか」

思わず夏子は返す言葉を失う。

「もう少しだけ、一緒に居たかったんで」

急に車内に、変な空気が漂う。しかし、それを吹き飛ばす様に夏子が一喝した。

「先輩をからかうもんじゃない!」

「さーせーん!」

到底『すみません』とは聞こえない言い方で、慎二がかわす。しかし、意外にも夏子の心が少し潤っている。正直、慎二に『もう少し一緒に居たい』と言われて嬉しくなっている気持ちを必死で隠している。

 慎二が家の前に着く直前で、質問をした。

「彼氏とは、どうですか?」

「まぁ・・・」

「上手くいってますか?」

「まぁ・・・そうだね」

「良かったっすね」

慎二から意外な言葉が返ってきて、夏子は思わず助手席を見る。

「まだ・・・辛いですか?」

暫く返事をしないまま、慎二のアパートの前に着く。車を完全に止めて、夏子が言った。

「辛いか辛くないかって聞かれたら・・・辛いよ」

「いいですね」

「え?!」

「そんなに辛いのに、それでも一緒に居たいと思ってもらえる夏子さんの彼氏、羨ましいっす」

少し慎二に自分を重ねて切なくなりかけた夏子は、感傷的になる自分にストップをかけるべく、後部座席の荷物を指さした。

「荷物運ぶの手伝おうか?」

「大丈夫っす」

意外とあっさり車を下りて荷物を運び出す慎二。

「もう一回取りに来るんで、待ってて下さい」

二回に分けて運ぶ慎二の後ろ姿を見て、夏子は運転席を下りた。

 もう一つの荷物を アパートの玄関先まで夏子が運ぶと、出てきた慎二が驚く。

「運んでくれたんですか?すいません、重たいのに」

「この位、全然」

玄関の床に夏子の持った荷物を置く。ドスンという音と同時に、玄関の戸がガチャンと閉じた。

「じゃあね」

と夏子がドアの方へ向きを変えると、慎二がその夏子をぎゅっと抱きしめた。すると、慎二の腕の中で夏子が聞いた。

「何で私なのよぉ」

慎二のシャツの下で早まる鼓動を感じながら、夏子はその答えを待つ。

「俺、夏子さんの事好きです。年下だけど、守りたいって思います」

それを聞いて、慎二の腕の中で夏子がふっと笑った。

「ガキのくせに何言ってんだって、馬鹿にしたでしょ?」

夏子はふふふと笑ったまま首を左右に振った。

「違う。私もダメ女だなと思って・・・」

慎二が相槌を打たずにいると、夏子がその間を埋める様に話し出した。

「こうやってされてると、安心する。『守りたい』なんて言われて、嬉しい気持ちになってる・・・。馬鹿だね」

慎二は夏子に回した手に、もう一度力を込めた。


「もう・・・行くね」

髪の毛を手ぐしで整えると、夏子がバッグを持ち上げる。ベッドから起き上がってTシャツをバサッと被ると、慎二は玄関まで夏子を見送る。靴を履く夏子の後ろ姿に、慎二が言った。

「俺ら・・・」

夏子の動きが止まる。そして、慎二に背中を向けたまま言った。

「もうちょっと・・・待って。ごめん」

「分かりました。待ってます」

慎二のいつも通りの明るい声に救われる。

「ごめんね・・・」

夏子は向きを慎二の方へ変えて、頭を少しだけ下げた。ドアノブに手をかけた夏子に、慎二が言った。

「今日の事、後悔しないで下さい」

夏子がこれから一人で車に乗って帰る道で、どんな気持ちになるか見透かしている様な言葉が、すっと胸の中に溶け込む。

「私、ちゃんとしなきゃね」


 路駐したままの車に乗り込み、夏子はとりあえずエンジンをかける。自分のしている事は村瀬と同じだ・・・そんな風に責める言葉が、夏子の頭の中に次々湧いてくる。慎二に抱きしめられた時に『何で私なの?』と聞いたのだって、計算した訳ではないけれど、言ってもらいたかったからだ。自分を必要としてるって慎二の口から聞いて、村瀬との関係で埋まらない寂しさを満たそうとしたのだ。最低な女だ。慎二の愛情に甘えていいとしたら、村瀬とはっきり別れてからだ。夏子は大きく息を吸い込んで車を発進させた。

 空高く消えてなくなりそうな細い月が、遠くでぼんやり輝く夜だった。


 次の朝、職場になかなか姿を見せない夏子が気になって、慎二が由真に聞いた。

「夏子さん、遅いっすね」

「夏子、今日休み」

「休み?」

「珍しいよね~。具合悪いんだって」

相変わらずデスクの椅子の背もたれに寄り掛かりながら、手だけをテキパキと動かすいつもの由真のスタイルで仕事をしながら会話をする。

「具合い・・・悪いんですか?」

「昨日は普通だったのにね。風邪って訳でもないんだろうから、やけ酒でも飲んで二日酔いかな?」

ケラケラっと笑うあたり、そう心配していない様子の由真だ。


家でぼけっとベッドに仰向けに寝転がる夏子。そこへ携帯が一通のメッセージの受信を知らせる。期待と気まずさの両方で胸をいっぱいにして、夏子は携帯に手を伸ばす。

『一昨日、雪子ちゃんに駅でバッタリ会った。姉ちゃんとも久々に会いたいってさ。連絡先交換しといたよ~』

弟の春樹からだ。最後に付けたピースサインが、悩みなんか何も無さそうに感じさせる。

「あんたは呑気でいいわよね~」

そう独り言を呟いて、返信を考える。『やったね!』のスタンプを送る。今の自分の姿は、皆のイメージしている夏子ではない。期待通り イメージ通りの、明るくて活発、且つ強気の姉御肌な自分を演じる。

『歳の差彼氏の悩み、聞いちゃった』

春樹から送られてきたその文章を読んで、夏子の手が止まる。その内に、続けて春樹から送られてくる。

『辛い恋愛してちゃもったいない。楽しくなくちゃ意味ないでしょ?な~んて俺言っちゃった』

春休みの大学生、気ままなバイトと遊びばっかり夢中な春樹は、午前11時頃は暇なのだろう。社会人の夏子に、こんな文章を次々送って来る。

『まったく、偉そうに。大人の恋愛には、あんたみたいなお子ちゃまには分からない悩みがあるのかもしれないでしょ』

『3つしか違わないでしょ』

春樹のその言葉で慎二の顔が浮かんでくる。春樹と一歳しか違わない慎二だ。春樹はいつまでも子供でガキっぽいと思っているが、昨日慎二に『ガキのくせに何言ってんだって、馬鹿にしたでしょ?』と言われても、正直キュンとした夏子だ。

『仕事中だから、またね』

夏子はそう言い訳をして、春樹とのやり取りに終止符を打った。


 憂鬱な気分を吹き飛ばす為、夏子は車を走らせた。ただし、当てはない。少し広い景色を見たくて、高速に乗ってみたりする。運転が億劫でない夏子は、多分一日中でも走っていられる。何も考えずに高速をただ真っ直ぐに走り、途中のドライブインで休憩する。気が向いては一般道に下りて街並みを確かめる。そして再び帰りの高速に乗る頃には、夕日が西に傾いていて、綺麗なオレンジ色に染まった空に心癒され、昨日の慎二との事や村瀬との関係を一時でも忘れさせてくれる。使い慣れた都内のインターチェンジで下りるのが躊躇われ、そのまま北上してしまおうかと、心の隅で誰かが夏子に囁く。やはりまだ現実に戻りたくないのだ。時間は6時を過ぎている。まだ今日が終わるのには時間がある。夏子は高速をそのまま走る事を決めた。


 帰り道のパーキングで、夏子は小腹の空いた自分を慰める。夜8時を回っている。運転席に寄り掛かって目を閉じると、今頃村瀬は何をしているだろうと思う。仕事が終わって家に帰る前に、体調不良で休んだ夏子を心配して電話を掛けてくれるんじゃないかとの淡い期待を胸に忍ばせる。

 すると、タイミングを計った様に携帯がドリンクホルダーで着信を訴えている。しかしその主は村瀬ではなく、慎二だった。やはり取るのが躊躇われる。逃げてばかりはいられないと分かっていながら、どうしてもまだ今まで通りに会話が出来る自信がない。取らない電話は途中で切れた。すると、今度はメッセージが届く。

『体調、大丈夫ですか?』

胸が締め付けられる様に痛い。夏子は暫く経ってから、返信をした。

『ごめん。運転中で取れなかった』

『運転中?具合平気なんですか?』

『もう、だいぶいい』

『良かった。めっちゃ、心配しました』

『ありがとう』

明日慎二と顔を合わせる前に、このまま顔が見えないやり取りで、少し慣れておこうと思う夏子だった。

『避けられてるのかと思っちゃいました』

直球ストレートだ。これが漫画だったら、きっと“ズドン”という効果音が付いていたと思う。こんな風に言われ、夏子の胸が重たい。返事をしないでおくと、慎二が間を空けずに続けた。

『どこまで出掛けてるんですか?』

気まずい台詞も、こうして普通の質問を被せてくれると、逃げ道を用意された様でほっとする。これが気遣いなのか、無意識かは分からない。しかし、夏子を追い詰めない距離の保ち方は絶妙だ。まるで、自分の立ち位置は分かっていますと言っている様だ。

『少し遠出した』

まさか都内を抜けて埼玉県も越えて北関東に来ている等とは言えないから、そうとだけ言ってみる。すると慎二が律儀にすぐ返事をよこす。

『あんまり夜更かししないで、明日は会社来て下さいよ』

自分を待っている人がいる。自分の事を心配してくれる人がいる。今の夏子は、そう思うだけで心が温かいもので満たされていくのを実感する。体調不良で突然休んでも、心配して連絡一つしてこない村瀬とはもう終わりにして、新しい恋をスタートさせてみようかと、夏子の心の中の天秤が傾きかけてくる。

 都内の自宅に向かう車の中からは、昨日よりも少し太った月が空高く輝いていた。


 職場に出勤した夏子は、真っ先に村瀬のデスクに向かう。

「昨日は急に欠勤してすみませんでした」

「おう。今日は昨日の分も働けよぉ」

体調不良という理由で休んだのに、村瀬の口からは『大丈夫か?』という労りの言葉もない。きっと休もうが具合が悪かろうが関係ないのだ。夏子はそう思うと、悲しい気持ちと同時に村瀬の嫁に対しての嫉妬心が湧いてくる。嫁が具合が悪ければ そそくさと早く帰っていくのだ。奥さんと自分では、何が違うのだろう。村瀬の子供をお腹に宿しているかどうかだけではないか。そんな朝とは思えない程ドロドロとした心で夏子がデスクに座っていると、傍から明るい声が地上に救い上げる。

「夏子さん、おはようございます」

「あ・・・おはよう」

慎二だ。

「もう大丈夫なんですか?」

思わずそんな特別でない言葉まで、夏子の胸に沁みる。とっさにそんな慎二に釘付けになっていると、慎二が不思議そうな顔をした。

「どうしました?」

これが職場でなかったら、夏子の目に水分が溢れてきていたかもしれない。そんな事を考えているところに、もっと元気な声が割って入る。

「は~い、そこ!朝から見つめ合わない!」

由真が出勤してきたのだ。その大きな声に、村瀬がちらっとこちらを気にしたのを見た夏子は、それだけで少し、先程までの気持ちを水に流そうと思えるのだった。

「何の話してたの?」

由真が夏子に聞く。

「いや、別に」

「あ~いやらしい。隠し事ぉ?!」

またその声が村瀬の耳に届いた様だ。チラッと二人の方を見る。

「由真、声でかいから。変な誤解しないで」

夏子もあえて、大きめの声で言い返してみる。由真がデスクに落ち着くや否や、もう一度夏子の傍に椅子を近付けた。

「昨日、何で休んだの?」

小声だ。夏子が病欠でない事くらいお見通しなのだ。

「体調不良」

「本当?」

「本当」

「どこが?」

「どこって・・・ちょっと微熱があって」

目を合わせずに、手だけ仕事をこなしながら話す夏子に、由真が諦めた。


 相変わらず愛妻弁当を広げる村瀬に心の中で大きく溜め息をつく夏子に、慎二が声を掛けた。

「昼飯、どうですか?」

まだあの晩から2日しか経っていないのに、昨日一日休んだだけで、随分昔の事の様に感じる夏子だ。夏子は由真の方へ顔を向けた。

「どうする?」

「ごめ~ん。今日愛彼弁当持ちだから~」

「何それ」

「だから、彼が作ってくれたお弁当」

由真は見せびらかす様に、お弁当の赤いチェックの包みを掲げて見せる。

「彼イタリアンのシェフだから」

「ふ~ん・・・」

「昨日の夜の残り物のアレンジで、今朝作ってくれたから」

『昨夜の残り物』『今朝』という単語が、お泊まりデートだったという幸せ感を体中からぷんぷんさせている。

「どうしよっかなぁ・・・」

夏子が相棒に振られてしゅんとしていると、慎二が言った。

「外に食いに行きますか?」

二人っきりは避けたい。卑怯だけど、あの日の話題になるのは困る。そんな夏子の迷いを吹き飛ばすかの様な声がする。外から戻った社員が袋を見せびらかしている。

「駅前にボリュームサンドの移動販売車来てた!」

「夏子さん、行きましょうよ」

「・・・なんか適当に買って来てくれない?」

「見に行きましょうよ。どんなのがあるのか、見てみないと分かんないし」

夏子と慎二がそのノリにつられ行く事にすると、村瀬が呼び止めた。

「俺にも一個買って来てよ」


 駅までの道を歩きながら、慎二が言った。

「店長、弁当の他にあのサンドイッチ食べるんですかね?」

「さぁ・・・」

さすがに慎二と村瀬の話題は辛い。早く終わりにしようと、結論めいた事を言う夏子。

「珍しもん好きだから、食べるんじゃない?」

「そうかなぁ。俺は、奥さんのお土産にすんのかなぁって思って」

その言葉に、一瞬自分でも固まったのが分かる夏子。もしかしたら本当に足も止まっていたかもしれないと思う程だ。

「そうかなぁ?サンドイッチだよ?まだ昼なのに、わざわざ買っとく?」

「う~ん。俺なら買っとくから」

そう言われてしまうと、返す言葉もない。しかし夏子は心の中で反論していた。村瀬と慎二は全く種類の違う人間だからと。

「店長は、お土産にするとは思えないけど」

夏子は断固そう言い切ってみる。

「子供生まれるの5月って言ってましたよね?!生まれたら写真見せてくれんのかなぁ」

そんな光景を想像して笑顔になる慎二と、笑顔が消える夏子だ。

「あの店長がマイホームパパになんの、想像出来ないなぁ」

嬉しそうに話す慎二の隣で、気づかれない様に溜め息を吐く夏子だった。


 駅前の移動販売車は列が出来るほどの大盛況だ。並びながらメニュー選びをする二人。

「夏子さん、どれにします?」

「これ美味しそう。あ、でもこっちも惹かれる」

「あ、じゃあ半分ずつ交換します?そしたら二種類味わえますよ」

慎二が普通に言うが、夏子は慎重になる。

「由真も食べてみたいかな。三つ買って交換する?」

いつも由真をごまかす材料に使って申し訳ないと思う夏子だ。

 自分達のを選び終えると、次は村瀬のを選ぶ二人。

「やっぱ無難に、ここの一番のお薦めにしときますか?」

写真付きのメニューをまじまじと見て夏子が言う。

「店長、ピクルス駄目なんだよね。これ、入ってるでしょ」

「へぇ~、そうなんだ。じゃ、どれにします?」

「意外に偏食でさ、脂身の多い肉も嫌いだからねぇ。あ、例えばハムの白い所とか」

「随分詳しいっすね」

つい油断した自分を反省する夏子。

「そりゃ長い付き合いだからね。しょっちゅうお昼買いに行かされたから」

「店長の奥さん大変っすね。それに比べて、俺の奥さんになる人、楽だと思います。なんでも食えるんで」

可愛い笑顔を夏子に向けて、自分をアピールする慎二。

「そういえば慎ちゃんが食べ物でゴタゴタ言ってるの聞いた事ないかも」

「でしょう?」

順番が近付いて、いよいよ注文を絞り込む段になって慎二が言った。

「店長が食べるならこれでいいけど、もし奥さんへのお土産だったら、野菜たっぷり系がいいんじゃないっすかねぇ?」

何故自分がわざわざ村瀬の奥さんへのお土産を選ばなくちゃいけないんだと、少し憤りを感じながら、それをひた隠しにして夏子が仕切った。

「妊婦さんだから、ボリュームあったっていいんじゃない?」


 買い物袋を下げた二人が会社まで帰る道のり、あちこちで桜の花びらが舞う。今日は風が強い。

「昨日『少し遠出した』って、どこまで行ってたんすか?」

「・・・まずは南下して海の方までドライブして、帰りは夕焼け見ながら北上して・・・」

「何キロ走ったんすかぁ」

あははははと笑ってごまかす夏子。それに便乗した慎二だったが、笑いに紛れて本音を漏らす。

「俺、昨日マジで心配したんすよ。一昨日の事、夏子さん後悔してんじゃないかって」

一昨日の夜の勢いの出来事を、こんな日の高いうちにするのは勘弁して欲しい。そんな風に思う夏子が、言葉を返した。

「仕事中だし、昼間だし、こういう話、今はやめようよ」

「また避けられちゃうんじゃないかって思うから、二人で居る時に聞いておきたかったんです」

慎二の言い分も分かる。何故なら、自分だってそう思った事があるからだ。昼休みで外に出てきたサラリーマンやOLが行き交う人波をすり抜けながら、夏子が言った。

「そりゃ、思ったよ。私駄目だなって。何やってんだろうって」

「それって、俺は夏子さんにとって なしって事っすか?男として」

「そうじゃないよ。全然そうじゃないけど・・・。慎ちゃんの気持ちに甘えて、慎ちゃん傷付けて、最低だなって思っただけ、自分の事」

「俺傷ついてないっす。もしろ、俺に一瞬でも甘えてくれて、嬉しかったっす」


 会社に戻って村瀬のデスクに一直線に向かう夏子。机の上に袋を置くと、下を向いてパソコンをいじっている村瀬の頭をじっと見つめながら言った。

「どうぞ。店長が召し上がるのか奥様へのお土産にされるのか分からなかったので、好みに合うか分かりませんが」

「おう、サンキュ・・・」

言いながら顔を上げて、その声の主が夏子だと知って語尾が途切れる。

「後で小腹が空いた時に食べようと思ってたんだけど・・・」

すると自分のデスクの所から慎二が付け足した。

「俺が、奥さんへのお土産じゃないか?って言ったんです」

夏子の村瀬に向けた視線が鋭い。そして夏子も加勢する。

「妊婦さんだから、ボリュームがあってもいいんじゃないかって」

「おう・・・サンキュ」

村瀬がチラッとだけ夏子の目を見て、すぐに手元のパソコンに逃げ場を探す。

「はい。これおつりです」

夏子がレシートと小銭をデスクの端に置く。

「あ、いいよ。買いに行ってもらったお礼。取っといて」

それを聞いて、夏子は少し声を強めた。

「結構です」

たかが数百円で愛人に本妻への土産を選ばせたお詫びが済んだと思ってもらっては困る。そんな安い屈辱じゃない。そこまで安い女にもなりたくない。夏子は無駄なプライドをかざして その小銭を突き返すと、自分のデスクに戻った。その時接客カウンターから戻ってきた由真が夏子の顔を見て、一言言った。

「どうしたの?怖い顔して。何かあったの?」

夏子は慌てて笑顔を作って首を横に振る。次に慎二を見るが、慎二も夏子のちょっと変な様子に驚いている。

「さ、食べてみよ!あ、由真にもちょっと分けてあげるからね」


 結局その日の夕方、村瀬はサンドイッチの半分を食べ、もう半分を自宅に持って帰った。退社していく村瀬の後ろ姿を見て、夏子が溜め息をついた。

「お疲れっす。この後、どっか飯でも一緒にどうですか?」

夏子の心が見えたかの様に慎二が誘う。なびいてしまいそうな自分を戒めて、夏子は作り笑顔を向けた。

「ごめん。今日はやめとくわ」

「そうですか・・・。じゃ、また今度」

なかなか椅子から立ち上がらない夏子に、慎二が聞いた。

「まだ帰らないんすか?」

「んん・・・もうちょっとしたらね・・・」

言いながら夏子は、携帯でメッセージを確認している。弟の春樹から、雪子が会いたがっていると連絡が入っている。

「弟がね・・・雪子ちゃんに偶然会ったんだって」

携帯の画面を見ながら、夏子が慎二に話し掛ける。帰りかけていた慎二が立ち止まって振り返る。

「雪子ちゃん・・・?」

「あ、ほら前に話したでしょ?幼馴染みで色白の大人しい女の子」

「あぁ!雪女って男子にからかわれて泣いちゃった子?!」

「そうそう。その子とうちの弟がこの前駅でばったり会ったんだって。そこから連絡先交換してね・・・」

弟とのやり取りがなされている画面を慎二に見せると、その文章を読んで慎二が声を上げた。

「ゆきこちゃんって、雪の子って書くんだ!」

「そうだよ。だから雪女なんじゃない」

「あぁ、そうか。俺、まさか雪って字だとは思わなくって・・・。凄いね、夏子に雪子!それが仲良かったんだから、面白いわ」

「まぁ、そんなに喜んでもらえて嬉しいわ。でさ、そうじゃなくて、雪子ちゃんが彼氏の悩みを相談したいって言ってるって・・・」

「へぇ~」

「今の私じゃ・・・無理だよね?」

いつの間にか、社内から人が居なくなっていて、二人だけになっていた。

「辛い恋愛やめらんないから?」

慎二がそう聞くと、夏子はまた椅子の背もたれに寄り掛かった。

「どんどん嫌な自分になってく」

「だから、俺にしとけばいいのに。きっと俺となら、毎日穏やかで楽しく過ごせるのに」

春樹も『楽しくなくちゃ意味ないでしょ』って雪子に言ったと話していたのを思い出す。

「楽しくか・・・」

机に頬杖をついて夏子が言うと、慎二が傍から両手で頬杖をついて顔を近付けた。

「俺と一回デートしてみて下さいよ。楽しいかどうか。俺と付き合ったらどんな感じか、イメージしてもらいたい」

「デート?!」

「まず一回チャンス下さい。俺、プラン考えてきます」

「まぁ、じゃあ・・・一回だけね」

そんな風に答えた夏子だけれど、本当は嬉しい。自分を好きでいてくれて、自分とデートしたいと言ってくれる異性。もしかしたら、今の意味のない恋愛から引っ張り上げてくれる人かもしれない。久し振りに少しときめいた夏子だった。


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