第36話「俺は俺だ」
朝。ギルドに向かう道で、手の甲を見た。
灰銀色。商人Lv7の色。深くなった灰銀が、朝日を受けて微かに光っている。
明滅は——まだ来ていない。でも、遠くない。体でわかる。スキルの精度がわずかに鈍り始めている。商人としての取引勘が——ほんの少しだけ、鈍った。
18回目の到達返還が、近づいている。
◇
ギルドの掲示板の前に——シンが立っていた。
手の甲を見て、息を呑んだ。
赤が——明滅していた。
20年間、一度も揺れなかった深い赤が——ふっと薄くなり、また戻り、また薄くなる。安定化処置を解除して1週間。初めて——シンの結晶にサインが出ていた。
「……来たか」
シンの声が静かだった。怖がっていない。覚悟している。
「見てくれるか」
「ああ。17回見てきたから」
「……お前に言われた通りだ。壊しても残るものがある。消えるのは——要らなかったものだけだ」
「それ——まだ言ってませんけど」
「前に言っただろう」
「……あの時は、シンに言ったんじゃなくて——独り言です」
「聞こえてたんだよ」
シンが笑った。明滅する赤の結晶を持つ男が——笑っている。20年の重みを背負って、笑っている。
「やり方は——まだ認めない」
「知ってます」
「でも——感謝してる。お前がいなかったら、俺は一生壁の前で止まってた」
「見えたから——」
「言っただけ、だろう。知ってる」
◇
管理局の受付ホール。
今日は——俺の定期メンテナンスの日だ。結晶の状態確認。19回目の——いや。
違う。
今日は——「定期メンテナンス」じゃない。「到達確認」だ。名前が変わった。
ヴェルが窓口にいる。検査器具を手に、帳簿を開いて。
「カイさん。結晶の状態を確認します」
手の甲を差し出した。灰銀色。Lv7。明滅は——まだ来ていない。
「……Lv7到達を確認。色相は安定。到達返還の兆候は——まだ初期段階です」
「……もう少し、ですね」
「はい。おそらく1-2週間以内に」
ヴェルが帳簿にペンを走らせた。記録の欄に——「到達返還(予定)」と書いた。「定着不全」ではなく。
受付ホールを出た。
リラが外で待っていた。ノアが肩にいる。
「どうでした?」
「もうすぐ色が消える。いつも通り」
「いつも通り、ですか」
「……いつも通り。でも——今回は初めて、『到達返還』って呼ばれた。ヴェルさんが帳簿に書く時——少しだけ、ペンが止まってた。多分——嬉しかったんだと思う」
リラが微笑んだ。
「19回目の到達。——おめでとうございます」
「まだ消えてませんけど」
「でも——消えた時に、言ってくれる人がいなかったんでしょう? 17回」
「……ああ」
「じゃあ——消える前に言います。19回目の到達、おめでとうございます」
喉の奥が——詰まった。
名前のないもの。最初の日から——ずっとここにあったもの。
結晶の色が消えるたびに引っかかっていた——小さくて、悲しいとも悔しいとも違う何か。
そうだ。17回——誰にも言ってもらえなかった。
でも今——リラが言ってくれた。ヴェルが記録を正してくれた。シンが認めてくれた。トランが感謝してくれた。プロアが肯定してくれた。メイナス商店の店主が信じてくれた。弓兵が戻ってきた。名前も覚えていない冒険者たちが——借りを返しに来た。
結晶が「もう十分だ」と言うたびに——体が返事をしていた。「ありがとう」と。言葉にならない、体だけの返事。
17回——結晶に「ありがとう」を返していた。自分でも気づかないまま。
◇
ギルドの前のベンチに座った。リラが隣にいる。ノアが膝にいる。
街を歩く冒険者たちの手の甲に、それぞれの色が光っている。赤、青、緑、橙。今まで——全員の色が深く安定していて、俺の色だけが消えていく世界だった。
これからは——選べる世界になる。消える色を受け入れるか、続ける色を守るか。それぞれが選ぶ。
俺は——ずっと選んでいた。結晶が色を返すたびに——次の色を選んでいた。面白そうなものを。一緒にいるために。
17回全部失って——残ったのが、俺自身だった。
剣士の赤。魔法使いの青。僧侶の水色。鍛冶師の橙。盗賊の暗紫。盾職の茜。鑑定士の紫。商人の灰銀。他にも10色。全部消えた。全部返した。
でも——手に残るものがあった。マメの跡。体の記憶。人を見る目。壁の越え方。伝え方。繋ぎ方。
色は消えても——手は残る。17回分の手が残る。手だけじゃない。目が残る。人を見る目。壁を読む目。適性を見抜く目。伝え方を選ぶ目。
そして——人が残る。リラ。ヴェル。ノア。トラン。シン。メイナス商店の店主。弓兵。名前も覚えていない人たち。結晶の色とは関係なく——俺を知っている人間たち。
色が消えても——俺は俺だ。結晶が返してくれたのは、色じゃなかった。人だった。俺と、俺が繋いだ人たちだった。
「カイさん」
「何ですか」
「次のジョブ——決まってますか?」
「まだです」
「じゃあ——一緒に考えましょう。今度も。ヴェルさんも呼びましょう。三人で」
「四人でしょう」
「え?」
「ノアがいる」
リラが笑った。
「そうでした。三人と一匹で」
「……面倒くさい」
「知ってます。でも——嫌じゃないでしょう」
「……嫌じゃないです」
嫌じゃない。全然嫌じゃない。面倒くさくて、手がかかって、干し果物の出費が増えて——それでも。この面倒くささの中に、17回探し続けたものがある。
ノアが「クゥ」と鳴いた。手の甲に鼻先を寄せた。灰銀色の上に、黒い鼻。尻尾がゆっくり揺れた。
何かを確かめたような——満足したような仕草。
お前は——多分、最初から知ってたんだろう。
色が変わっても。色がなくなっても。俺が——俺であることを。
どこかの屋台から、焼き肉の匂いが流れてきた。ノアの耳がぴくりと動いた。……こいつ、絶対に覚えてる。前に断った焼き肉のことを。
「ノア。今日は……いいよ。一切れだけ」
ノアの尻尾が高速で揺れた。見たことのない速さだ。リラが吹き出した。
午後の日差しがギルドの石畳を暖めている。石畳の隙間から小さな草が顔を出していた。踏まれても踏まれても生える草。……なんとなく、親近感がある。
リラの亜麻色の髪が風に揺れている。菫色の結晶がLv5の色を深くしている。あの路地裏で泣いていた女が——今は隣で笑っている。
ノアの黒い毛並みが影の中で溶けかけている。金色の瞳だけが光っている。こいつは最初から——俺の味方だった。色のある時も、ない時も。
面倒くさい世界だ。見えるものが多すぎて、言いたいことが多すぎて、付き合ってくれる人間が増えすぎて。干し果物の出費が右肩上がりで。
でも17回ジョブが変わって、初めて思う。変わることは、失うことじゃなかった。
色は変わる。ジョブは変わる。結晶は還る。でも、俺は俺だ。
全然、悪くない。
ノアが「クゥ」と鳴いた。最後に。手の甲に鼻先を寄せて。尻尾がゆっくり揺れた。
——おかえり。
ああ。ただいま。
でも——今は違う。
結晶は還る。色は消える。でも——人は残る。
全然、悪くない。




