第1話「17回目」
3日前から、左手の甲の結晶が明滅していた。
淡い赤色。剣士の色が、ふっと消えてはまた灯る。一日に数回だったのが、昨日から一時間に一回になった。
昨日、「斬撃」を振ったら、手応えが変わっていた。同じ動作、同じ角度。なのに、切れ味が鈍い。技が衰えたわけじゃない。今までのやり方の、天井に触れたんだ。
この感覚は17回目だからわかる。結晶が「もう十分だ」と言っている。
剣士の体は、悪くなかった。振り方の癖も、足運びのリズムも、ようやく馴染んできたところだったんだが。
ああ、そろそろか。
◇
冒険者管理局の窓口は、いつ来ても混んでいる。
石造りの受付ホールに、高窓から午前の光が斜めに差し込んでいる。革と汗の匂いが薄く漂い、窓口からはインクの匂いが漏れてくる。20年通えば、この匂いだけで場所がわかる。
「定期メンテナンスですね」
受付の女性が、俺のカードを見て一瞬だけ目を見開いた。すぐに職業的な無表情に戻ったが、遅い。
「……リセット17回目の、カイ・C級、ですね。奥の検査窓口へどうぞ」
「ええ」
検査窓口に移ると、技師が器具を構えて待っていた。手の甲を差し出す。
「レベルは……Lv7到達を確認。結晶の状態は——」
言いかけたところで、手の甲が光った。
淡い赤色がゆっくりと白く褪せていく。薄くなり、さらに薄くなり、やがて完全に透明に戻った。
手の甲には透明な結晶だけが残っている。色のない、何のジョブにも染まっていない石。
指先から力が抜けていく。さっきまで力:45だった腕が、ただの腕に戻る。結晶の増幅が消え、残るのは20年間鍛えてきた素の体だけ。
軽い。色が消えると、手の甲がほんの少しだけ冷たくなる。その冷たさにも、もう慣れた。
……慣れた、はずなんだが。毎回、この瞬間だけは、何かが喉の奥に引っかかる。悲しいとか悔しいとかじゃない。もっと小さくて、名前のないもの。
「結晶定着不全ですね。……17回目の」
技師が淡々と記録する。病名を告げるような口調。俺の担当になった技師はだいたい3回目くらいで慣れる。
「色の再設定手続きに移りますね」
「お願いします」
書類3枚。目を瞑っても書ける。ペンを走らせながら、窓口の向こうに目をやった。
赤、青、緑、紫。他の冒険者の手の甲に、深い色をたたえた結晶がしっかりと嵌まっている。街を歩けば、すれ違う全員の手に色がある。
俺の手の甲だけが、いつも透明に戻る。
「ランクはC級据え置きで、よろしいですか」
「いつも通りで」
受付の指が書類の上を滑る。C級。17回目でも、いつも同じ欄に同じ文字が並ぶ。
意味がないのは、そっちの評価基準の方だと思うが。
「次のジョブはお決まりですか」
壁に貼られたジョブ一覧を眺める。約40種。端から端まで手を出して、残りは半分を切った。
一覧の中に目が止まった。「鑑定士」。物品や素材の本質を見極めるジョブ。17職やったが、「見る」こと自体が専門のジョブは一度もやっていなかった。
……面白いな、それ。
「鑑定士で」
「……承知しました」
透明な結晶に、淡い紫色が染まり始めた。鑑定士の色。Lv1の薄い色。冷たかった手の甲に、かすかな温もりが戻る。
ステータスが書き換わる。結晶に触れると、薄い文字が浮かび上がる。力:8。さっきの45が、8まで落ちている。腕に力を入れてみる。さっきまでと同じ筋肉なのに、結晶の増幅が切り替わった瞬間、体が一回り縮んだような錯覚がある。
もっとも、腕の太さが変わるわけじゃない。20年で覚えた体の使い方が消えるわけでもない。結晶の増幅が切れただけだ。結晶に浮かぶ数字と、実際にこの手でできることは、全然違う。
……まあ、それをわかってる人間は少ないが。
◇
午後の風が、管理局の重い扉を押し開けた背中を撫でていった。
ギルドに向かう道すがら、前を歩くパーティが笑い声を上げていた。剣士と魔法使いと僧侶。三人の手の甲に、同じくらいの深さの色が灯っている。長く一緒にいるんだろう。
別に、羨ましいわけじゃない。
ギルドに入ると、酒と木の匂いが混ざった空気が流れてきた。天井から吊るされた魔力灯が、琥珀色の光を落としている。カウンターの奥で鍋が煮えている音。昼間から飲んでいる冒険者がいる。掲示板の前にも、依頼書の下に立って飯を食っている奴がいる。壁には冒険者たちが書き込んだ落書きがある。「Lv5突破!」「パーティ募集中」。いつもの風景だ。
C級で受けられる依頼を探す。
鑑定士Lv1。スキルはまだ使えない。普通なら2週間かかる。
でも17回やり直していると、最初に何をすれば動けるかは体でわかっている。多分、3日で十分だ。
「おい、C級。邪魔だ」
後ろから声がかかった。
振り返ると、B級の冒険者が3人。パーティで掲示板を見に来たらしい。リーダーらしき男が、俺の手の甲をちらりと見て鼻で笑った。
「Lv1の鑑定士? いい歳して見習いかよ」
33歳でLv1。横を見れば、リーダーの手の甲に深い赤の結晶が光っている。力:40は超えているだろう。数字だけ見れば、大人と子どもだ。
「すみません、すぐ退きます」
掲示板から離れようとして——足が止まった。
リーダーの後ろにいる二人。剣士と魔法使い。
ステータスが直接見えるわけじゃない。でも、立ち方でわかることがある。20年、17のジョブをやった体が、勝手に読み取る。
剣士の方。右足の重心の偏り。膝から下の微かな硬さ。体重のかけ方が不自然だ。
魔法使いの方。肩が上がっている。呼吸が浅い。周囲の空間を把握していない立ち方。
「……あの」
言うべきか、迷った。俺の基準では、聞かれてもいないことを言う理由がない。面倒だし。
でも。剣士やってた時に、同じかばい癖の奴がいた。あいつは黙って依頼に行って、膝を壊して前線を退いた。
……まあ。気になったから。
「後ろの剣士さん、右膝に古傷ありますよね」
周囲の雑音が一瞬だけ遠くなった気がした。
「かばい癖が出てる。重心が左に寄っていて、右足の踏み込みが浅い。そのまま依頼に行くと、多分3日で再発します」
沈黙。
リーダーが眉を寄せた。
「……何言ってんだ、お前」
「あと、魔法使いさん。立ってるだけでわかるんですけど、呼吸が浅い。前衛の護衛に頼ってる分、自分の退路を意識してない。盾職がいないパーティだと、それは致命的です」
剣士と魔法使いが、互いに顔を見合わせた。
剣士の方が、無意識に右膝に手を置いている。
リーダーだけが、まだ顔をしかめたままだ。
「お前、何で——Lv1の鑑定士風情が、なんでそんなこと——」
「Lv1なのは結晶の方です。俺じゃない」
ぽかんとした顔が三つ並んだ。
「17職やってりゃ、人の体の動きくらい大体わかりますよ」
リーダーが手に持っていた依頼書を顎で示す。
「……それと、その依頼。森林地帯の魔物討伐、報酬は金貨3枚でしょうけど。右膝をかばってる剣士と、退路を意識できない魔法使いで行くなら、やめた方がいい。治療費の方が高くつきます」
それだけ言って、依頼書を1枚取った。古物鑑定の下請け。報酬は銀貨3枚。定食3回分。C級にはお似合いの仕事だ。
背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
面倒くさい。
さっさと市場に行こう。鑑定の練習に良さそうな素材を探したい。
ギルドの出口に向かう途中、背後でリーダーの声が聞こえた。
「……あのC級、何者だ?」
知らないよ。17回やっても、その答えだけは出てこない。
◇
視界の端で、何かが動いた。
ギルドの扉を閉めたばかりの背中側。酒と汗の匂いが、まだ袖に残っている。
建物の影。黒い、小さな——狐?
目が合った。
黒い毛並みの小さな狐が、影の中からこちらを見ている。金色の瞳。日向と日陰の境界線の上に、ちょこんと座っている。耳がぴくりと動いた。
逃げない。
さっきギルドの中で、B級冒険者たちの近くを通った時は、建物の隅で丸くなっていたはずだ。あの三人が通り過ぎるのを、耳を伏せて待っていた。なのに、俺には逃げない。
……人懐こいのとは違う。むしろ臆病だ。でも、俺には逃げない。
野生にしては毛並みが整いすぎている。影の中にいると、輪郭がぼやけて見える。普通の獣じゃない。
面白い。
懐から干し果物を一つ取り出して、地面に置いてみた。
狐は耳を動かし、鼻先を寄せ——ひと口で食べた。そして、影に溶けるようにして消えた。
食べた後に少しだけ尻尾が揺れた。……気のせいじゃない。確かに揺れた。
手の甲に目を落とす。淡い紫色のLv1。この色が飽和して、明滅し始める日が、いずれ来る。わかっている。
でも、今はまだ始まったばかりだ。
18番目の色の、最初の一歩。
——あの狐、明日もいるだろうか。
ふと、視界の隅で何かが光った気がした。手の甲。さっき染まったばかりの紫色が、ほんの一瞬、揺らいだように見えた。
——Lv1で揺らぐはずがない。
握り込んだ手の中で、紫の結晶は、もう何事もなかったように静まっている。
気のせい、だろう。
そう思うことにして、市場へ歩き出した。




