第78話 追憶の断章 最終話
季節は巡り、エリカの結婚式の朝が訪れました。
黄金色に輝く海を背景に、六人の英雄が手を取り合い、光の蝶が舞う幻想的な余韻に浸っていたその時でした。
静寂を切り裂くように、教会の前の緩やかな坂道を、猛烈な勢いで駆け上がってくる二つの影がありました。
「ちょっと待ちなさいよ!! 主役が先に誓い合ってどうすんのよ!!」
「……はぁ、はぁ……セレナ、待って、少尉の自覚を……ハットが……!」
教会の扉が、大きな音を立てて開け放たれました。
叫びながら現れたのは、汗と砂埃にまみれ、今や少尉へと昇進した真紅の制服を纏うセレナとファミールでした。
彼女たちは軍務卿から与えられた期間内に到着すべく、愛馬を乗り潰さんばかりの勢いで駆けてきたのです。
「セ、セレナ? ファミール!?」
エリカが驚きに目を見開くと、セレナは肩で息をしながらエリカの前に立ち、腰の赤いサーベルをガチャリと鳴らしました。
もどかしそうに、けれど疲労で激しく震える指をエリカへと突きつけます。
「エリカ・ヴァイン! 貴女ね、親友に黙ってこんな最果ての村で式を挙げるなんて、水臭いにもほどがあるわよ! 聖都からここまで、私たちがどれだけの思いで馬を飛ばしてきたと思ってるの!」
エリカは呆然としながらも、不思議でなりませんでした。
今回の式は、凄惨な戦いを共にした英雄たちだけで静かに挙げようと誓い合った「極秘」の儀式。
聖都の知人には、現軍務卿であるレオンハルト公爵を通じて「仲間内だけでやりたい」と建前を伝えていたはずでした。
しかし、ファミールが乱れた息を整えながら、その種明かしをしました。
「……数日前、私たちは、エリカの同級生だったレオンハルト閣下に呼び出されたんです。閣下は軍務卿としての厳しい表情のまま、こう仰いました。『英雄エリカ・ヴァインは、仲間内だけの式を望むと宣言した。私は王族として、その信義を守り、軍としても公式な参列や祝賀を一切禁じる』と」
エリカは頷きました。
やはりレオンは私の意図を正確に汲み、余計な配慮を排除してくれたのだと。
しかし、ファミールの言葉には続きがありました。
「ですが、閣下は書類を一通、私たちの前に置いたのです。『……だが、彼女は私に、この事実だけを親友二人に伝えろと言ってきた。――私はこの日、この場所で結婚式を挙げます――とな。……いいか、ランバルト少尉、エーデルガルト少尉。彼女は決して、君たちに来てほしいなどとは言わなかった。彼女は国家が自分のために動くことを望まない女性だ。……だからこそだ。これは命令ではなく、君たちの“自由意志”を問う公務である』」
レオンハルトの言葉は、実務的な命令へと変わりました。
「砂の国の辺境において、三ヶ月間の視察任務を命じる。飛空艇の出発は明朝、陽光の行進(午前九時)。式は十日後だ。砂の国サハラ・シュタールには既に話を通してある。“英雄の親友”と伝えてあるから、不自由はさせん。……一つ付け加えるなら、首都アステ・ラモーラから村ラナ・カウリまでは、二百五十ライン(250km)の道のりを四日間で踏破することになる。砂漠は避け、沿岸の街道を進みたまえ。……視察先で何を見て、誰の幸せを確認したか。私だけに報告書を出したまえ」
「軍務卿の勅命な上、書類報告もあれば原隊に言い訳もし易かろう」
そう言ったレオンハルトは少し困ったような笑顔をセレナに向けるのでした。
それは、エリカの「ただ事実を伝えたい」という無意識の願いを、レオンハルトが軍務卿の立場をもって「公的な隠れ蓑」へと変換した、最高に粋な計らいでした。
エリカが何も言わなかったからこそ、レオンは彼女の「本当の幸福」のために動いたのです。
それは、レオンから初恋の人へ贈られた、淡く切ない思い出の贈り物でもありました。
「セレナ……ファミール……」
エリカの瞳に、再び幸せな涙が滲みます。
望んで手を煩わせることはしなかった。
けれど、レオンはかつての友として、彼女の幸福を完成させるための最後の一片を送り届けてくれたのでした。
「……綺麗よ、エリカ。世界で一番綺麗。レオン君……いえ、軍務卿閣下には、帰ったら『辺境に異常なし。極めて幸福な光景を確認せり』とでも報告しておきましょうか」
セレナは自分のマントの汚れも気にせず、親友を力いっぱい抱きしめました。
ライナスが、友人の完璧な采配に感謝しながら二人を迎え入れました。
「二人とも、よく来てくれたね。現軍務卿殿の公認というわけだ。ならば今日は、この視察任務を盛大に遂行しなければならないな。村の酒場を借り切って、朝まで不眠不休の『宴会』だ」
「当たり前よ! 覚悟しなさいよ!」
セレナが宣言すると、アルベローゼが「いいねぇ! 賑やかなのは大好きだよ!」と再び祝福の光の蝶を放ちました。
黄金の海を背に六人の英雄と、二人の誇り高き親友たち。
潮風に揺れる笑い声は、新しく始まった世界の、何より平和で騒がしい「夜明けの合図」となりました。
潮騒が、遠くで優しく響いていました。
宴の喧騒から少し離れ、エリカとライナスは、黄金色から群青色へと移ろいゆく海を見つめていました。
教会の広場では、まだアルベローゼが放った光の蝶たちが、星の欠片のように淡く空を舞っています。
それはかつての凄惨な戦場で見た、命を削る魔導の光ではありません。
ただそこにある幸福を寿ぐための、穏やかで幻想的な光の群れでした。
「エリカ」
隣に立つライナスが、静かにその名を呼びました。
「かつて僕たちが昔交わした言葉を覚えているかい? 全てが終わったら仲間達で静かに幸せに暮らせると良いな。と言ったあの日の約束を」
エリカは、純白のドレスの裾を揺らす風を感じながら、小さく頷きました。
「ええ。……あの時は、それが私の死を意味する言葉だと思っていた。でも、今は違うわね」
彼女の視線の先には、酒場でバハルとリニを相手に、軍務卿からの「恋愛談義」について声高にまくしたてるセレナとファミールの姿がありました。
かつて、自分を「化け物」だと思い込み、誰の手も届かない最果てへと逃げようとした彼女を、仲間たちは決して見捨てず、ここまで連れ戻してくれたのです。
「追憶は、もう私を苦しめる鎖じゃないわ」
エリカの瞳から一筋の涙が零れましたが、それはもう絶望の気配はしませんでした。
「この三年の断章は、これから私たちが生きていくための、何より強く温かな物語になるのね」
ライナスは彼女の左手を、包帯の上からではなく温かな肌の上にそっと重ねました。
「さあ、戻ろう。みんなが待っている」
二人が歩き出した背後で、最果ての海から吹き抜ける風が、光の蝶たちを高く空へと舞い上げました。
かつて孤独の果てに沈もうとした少女の物語は、今、愛する者たちの笑い声に包まれ、新しい一ページを綴り始めます。
夜明けを待つ海は、ただどこまでも深く、そして穏やかに輝き続けていました。




