絶望の檻
耳障りな笑い声と、何かが弾ける音。
その騒音に押し上げられるようにして、ルカは意識の底から引きずり戻された。
重い瞼を開くと、まず冷気が肌を刺した。夜気に混じった土と煙の匂いが、肺の奥まで入り込む。息を吸っただけで、喉の奥がひりついた。夜の森は、不気味さを増している。
(僕は…)
視界が定まる。
錆びついた鉄格子が、目の前にあった。
反射的に身を起こそうとして、手足に走る鈍い痛みに顔を歪める。体は思うように動かず、冷たい地面に押さえつけられているようだった。
地面は夜露を含み、衣服越しでも冷たさが骨に染み込んでくる。
背後の鉄格子は体温を奪うように冷え切っており、呼吸をするたび胸の奥まで冷気が入り込んだ。
焚き火の熱と夜の寒さが、逃げ場のない檻の中で交互に肌を刺していた。
鉄格子の向こう側――
焚き火を囲み、盗賊たちが酒を飲んでいた。
赤々と燃える炎が、夜闇を不規則に照らし出す。薪が爆ぜるたび、火花が宙に散り、男たちの歪んだ笑顔を一瞬だけ浮かび上がらせた。
彼らの足元には、無造作に投げ出された袋や木箱。
見覚えのある布、割れた酒瓶、金属光沢を放つ装飾品。
――村のものだ。
胸の奥が、音を立てて崩れた。
思考が、そこから先へ進むのを拒む。
それでも、否応なく脳裏に浮かぶ光景があった。
母の背中。
友人たちの声。
いつもの日常。
どれも、もう存在しない。
喉の奥が詰まり、呼吸が浅くなる。
自分が檻の中にいるという事実が、遅れて理解として落ちてきた。
逃げ場はない。
助けも、希望も、見えない。
不安が、恐怖が、そして燃えるような憎悪が、胸の内で絡まり合う。
「……ここから……出して……」
自分でも驚くほど弱々しい声が、唇から零れ落ちた。
返事はない。
盗賊たちは酒に夢中で、こちらを気にも留めていなかった。
その無関心が、かえって耐え難かった。
「家に……帰りたい……」
次の瞬間、感情が決壊した。
ルカは立ち上がり、鉄格子に体当たりするように拳を振るった。
ドン。
ドン。
金属が軋む音が、夜に響く。
「あ?」
「……うるせぇな」
盗賊たちの笑い声が止み、視線が一斉に集まった。
酒に酔った一人が、ふらつく足取りで近づいてくる。
「酒が不味くなるだろうが。腕でも切り落として黙らせるか?」
剣が抜かれる乾いた音。
それだけで、心臓が跳ね上がった。
冷たい剣先が、額に触れる。
皮膚の上をなぞるだけで、思考が凍りついた。
足の力が抜け、ルカはその場に崩れ落ちる。
地面に尻を打ち、痛みよりも恐怖が先に来た。
「やめろ」
低く、よく通る声が響いた。
「価値が落ちるだろう」
盗賊たちが道を開く。
焚き火の向こうから、一人の男が現れた。
盗賊団の頭だった。
落ち着いた足取り。
酔っている様子もない。
「どうしましょう?」
「これを使う」
頭は懐から黒いチョーカーを取り出した。
光を吸い込むような色合いで、不気味な存在感を放っている。
盗賊たちが、どよめいた。
「いいんですか? そんな貴重な――」
「構わねぇ」
頭は淡々と答える。
「こいつを売り飛ばせば、もっと金になる」
鉄格子に近づき、ルカを見下ろした。
その視線に、感情はない。
腕が伸び、顎を乱暴につかまれる。
無理やり顔を上げさせられた瞬間、冷たい感触が首に巻き付いた。
――カチリ。
金属音が、やけに大きく響いた。
首元に触れた黒い輪は、異様なほど冷たかった。
何も起こらない。
その沈黙が、かえって恐ろしく、ルカは息を呑んだ。
体が、ぞわりと粟立つ。
「……何なんだ……お前たちは……」
声が震える。
「母さんを……ユウを……ハルを……返してよ……」
それが、精一杯だった。
「黙れ」
頭が腕輪をかざす。
命令は、それだけだった。
――声が、出ない。
喉が締め付けられ、口が開かない。
舌が、顎が、まるで他人のものになったように動かない。
息はできるのに、声だけが奪われている。
「……っ」
異様な沈黙に、背筋が凍った。
「すげぇ……」
「さすがだな、頭」
盗賊たちが歓声を上げる。
「それは《縛輪》だ」
頭は愉快そうに言った。
「首輪を付けたやつは、この腕輪を持つ者に逆らえねぇ」
理解が、遅れてやってくる。
――逆らえない。
恐怖に突き動かされ、ルカは首元に手を伸ばした。
触れた瞬間――
全身を貫く激痛が、爆発した。
視界が白く弾け、内側から神経を引き裂かれる感覚が走る。
歯を食いしばる間もなく、喉の奥から悲鳴が漏れた。
「――あぁぁぁぁっ!!」
体が勝手に跳ね、地面に叩きつけられる。
指先が痙攣し、爪の間が赤く染まった。
「言い忘れてたがな」
頭の声が、遠くで聞こえる。
「無理に外そうとすると、こうなる」
息を吸うたび、胸が焼ける。
涙と唾液が混じり、口元を汚した。
「ほら、苦しめ」
腕輪がルカの眼前に迫る。
腕輪に呼応したように痛みが、再び襲った。
意識が砕けそうになり、体が丸まる。
「――が……あぁ……!」
転げ回る姿を、盗賊たちは笑って眺めていた。
「これに懲りたら、俺たちを不快にさせねぇことだな」
冷たい言葉が、最後に落とされる。
ルカは頭を抱え、震える体を必死に押さえ込んだ。
声は出ない。
抵抗もできない。
闇の中で、ただ一つの願いだけが残る。
(……誰か……助けて……)
その願いは、焚き火の音にかき消され、夜へと沈んでいった。
* * *
村は、すでに「終わった場所」になっていた。
惨劇の後であるというほかないだろう。
家屋は焼け落ち、井戸の周囲には倒れ伏した人影が点々と横たわっている。
泣き声も、怒号もない。ただ、火の名残がぱちぱちと音を立て、血の匂いだけが冷えた空気に沈んでいた。
その沈黙を、足音が切り裂く。
白銀の外套が闇を進む。
強い光沢を持たない、落ち着いた銀白のロングコート。
立ち襟はきっちりと閉じられ、左右対称の前合わせが、無駄のない規律を物語っていた。
布のようにしなやかな外観の胸部には、オーダ・リロジアの紋章が輝いている。
先頭を行く長身の男が着る外套は、他よりもわずかに長い。
ふくらはぎにかかる丈。
肩章は白銀で統一され、その中央から背へと、淡い青銀の光が一本、静かに走っている。
指揮官にのみ許された発光ラインだった。
カヤトは立ち止まり、村を見渡した。
「被害の状況は」
低く、抑えた声。
「住民、駐在兵ともに全滅。生存者は確認できません」
「……そうか」
短く応じる。
視線が、焼け焦げた地面の端に転がる小さな靴を捉えた。
一瞬だけ、呼吸が止まる。救難信号を受け取り数刻。
――間に合わなかった。
その感情は、表に出る前に押し殺された。
奥歯を嚙みしめ拳が、音を立てないほど静かに握られる。
「ローグ」
名を呼ばれ、副官が一歩前に出る。
「賊どもを追撃する」
ローグは即座に頷き、部下へ視線を送った。
合図を受け、一般兵の一人が前へ出る。
膝丈の白銀コート。装飾のない肩。
胸元の理術秩序紋が、かすかに存在を主張していた。
「風属性・中等理術――風脈千里視」
詠唱とともに、風が広がり血の匂いを拡散させていく。
夜気に溶け込み、地を這い、村を越えて遠方へと伸びていった。
風は、村から森へ木々の間を通り抜ける。
誰も口を開くことはない。
風の音だけが、やけに大きく耳に残る。
やがて、術者は静かに目を開く。
「捕捉しました。西方、約三キロ地点。十九名……その中に、子供が一人います」
その言葉に、空気が張り詰めた。
カヤトの背の発光ラインが、わずかに明度を増す。
鋭い眼光を放つカヤトは、命令を下した。
「行くぞ」
踏み出した瞬間、地面が弾ける。
白銀の外套が夜を裂き、凄まじい速度で駆け出した。
仲間たちが、その背に続く。
助けられる命は、まだ一つ残っている。
救えなかった村を背に、部隊は暗闇を切り裂いた。
誰一人、振り返らない。
――次こそ、必ず間に合わせる。




