育成校での日々
ルカの表情は険しかった。
黒板いっぱいに広がる数式。
幾重にも連なった記号と式が、隙間なく並んでいる。
視線で追うだけでも疲れるそれを、理解しようとする気力は湧かない。
思考を放棄しかけたそのとき。
「つまんねえ」
隣で、エンジがぼそりと吐き捨てた。
「——これらの公式を用いれば、リジク石から流れるリジアの変換率を導き出せる」
感情の薄い声が、淡々と続く。
「理解できていれば難しいはない」
一瞬の間。
「では例題だ。この問題、解ける者はいるか」
静寂。
紙をめくる音すら止まった。
誰も動かない。
その空気を裂くように——
「俺がやる」
エンジの声が響いた。
さっきまでの気だるげな表情は消えている。
目だけが、はっきりと光を帯びていた。
「ユベン、やってみろ」
エンジはチョークを走らす。
カツ、カツ、カツ、と乾いた音。
速い、そして乱れない。
数式が繋がる。
分断されることなく、一本の流れとして組み上がっていく。
最後の式を書き終え、チョークが止まる。
ほんのわずかに白い粉が舞った。
教官が黒板を見つめる。
沈黙。
やがて——
「……正解だ」
短く告げた。
鐘が鳴る。
張り詰めていた空気が、一気にほどけた。
「はあ……やっと終わった」
ルカは立ち上がり、両腕を上に伸ばす。
背骨が鳴るような感覚とともに、溜まっていた疲れが抜けていく。
「午後は理術の特訓だー」
解放感のまま、ルカの声は響き渡った。
「つっても、俺らにとっちゃ自由時間みたいなもんだろ」
エンジが腕を組んだまま扉に寄りかかる。
「どいて。入り口で立ち止まんないでよ」
背後から突き刺さる苦情。
「あ、ごめん」
ルカは反射的に体を引く。
すぐ横を、風が抜けた。
銀色の髪が、光を弾いて揺れる。
「二人とも、ごめんあそばせ」
柔らかな声。
レーシェが微笑みながら通り過ぎる。
その隣。
アインは一切視線を向けず、そのまま歩いていく。
「……アイン」
気づけば、呼び止めていた。
ぴたりと止まる足。
深紅の瞳が、まっすぐこちらを射抜く。
ルカの喉が詰まる。
それでも、胸の奥から押し出す。
「よかったら……今日の訓練、一緒にやらない?」
言い切った瞬間、心臓が強く跳ねた。
「お断りするわ」
間を置かず、返ってくる。
温度のない声音。
それだけ残して、アインは再び歩き出した。
取り残される。
(あ……)
言葉が出ない。
——一世一代の勇気は、あっけなく砕け散った。
「ルカ、ドンマイ」
エンジが親指を立てる。
「慰めになってないんだけど……」
肩を落としながら歩き出す。
「いてっ」
額に衝撃が走る。
見れば、エンジの薙刀の木刀が当たっていた。
ルカは、鈍い痛みに苦悶する。
「いつまで引きずってんだよ」
呆れた声。
「……悪い、次はちゃんとやる」
ルカは息を吐き、体勢を整える。
胸の奥に残るもやを振り払うように。
「頼むぜ」
エンジが薙刀を構える。
ゆったりとした動作。その一連の動きに垣間見える高い練度。
張り詰める空気感。
ルカへと迫る鋭利な先端。木製とはいえ、まともに食らうわけにはいかない。
ルカは跳ぶ。虚空には風を切った音だけが残った。
柄へ着地すると同時に踏み込む。
攻守が入れ替わる。
ルカは一気に間合いを潰し、拳を振り抜く。
エンジの咄嗟の反射。
柄から片手を離し、腕で受ける。
骨にまで届く痛み。
エンジの体が後ろへ滑った。足跡が地面に線を刻む。
「っ……!」
痺れた腕がだらりと下がった。
その隙を逃さず、ルカの蹴りが腹に入る。
エンジは柄を地面に突き立て、倒れるのを堪えた。
「……まだだろ」
口元が歪む。エンジのぎらつく闘志。
再び構えられた薙刀。
その波動に自らの身体がひりついていくのをルカは感じた。
交差する視線。
ぶつかる呼吸。
攻防が、もう一度始まった。
「いよいよ明日からだね」
ルカは身体をほぐすのを止めて立ち上がる。
「理術を使った戦闘訓練……どうなることやら」
その声には、わずかに重さがあった。
「乗り気じゃないんだ」
「当たり前だろ、俺たちは、まともに理術の指導受けてねえんだ」
エンジは足元に転がる石を蹴る。
二人に宿るのは、邪属性。
属性ごとに別れての訓練。
他の十属性は、それぞれ同じ属性の教官が指導にあたる。
それに対して、邪属性である彼らに理術を教えられる者はいない。
不安が、胸の奥で燻っていた。
「だから、対人戦闘を磨いてきたんじゃないか。それに、理術を鍛えていないわけではないじゃないでしょ」
「……楽観的だな」
ルカの柔らかな態度。
エンジの肩の力が抜ける。
ぐう、と腹の音。
沈黙。
気まずそうにうつむくエンジ。
「ははっ、戻ろうか」
ルカが歩き出す。
演習場を後にする二人。
西に傾いた太陽が、長い影を引いていた。
食堂はざわめきに満ちている。
食器のぶつかる音。
笑い声。
話し声。
それらが混ざり合い、空気を満たしている。
ルカはトレーを手に、人混みを縫うように進んだ。
(できれば静かなところがいい)
奥へ向かい、空席を探す。
落ち着ける場を見つけたルカだったが一つ問題に直面した。
一人で黙々と食べ進めている少女。
(アイン、他のところにしようか)
別の場所へ意識を向けようとしたとき、ルカの鼓膜が震える。
「ルカ、座らねのか」
肩に置かれた手。
「ひゃ、なんだエンジか脅かさないでよ」
視線が、自然とあの方向へ向く。
エンジがにやりと笑った。
「ほほう、そういう事か」
「俺に任せろ。女の口説き方、伝授してやんよ」
誇らしげで自慢げだ。
「え、ほんとに?」
「もちろん、タダじゃねえ」
トレーからアイスをひょいと奪う。
「……仕方ない。お願いします、エンジ先生」
ルカは葛藤する。背に腹は代えられない。
「隣、いいかい?」
「構わないわ」
アインは顔すら上げない。
「あのさ、アイン」
ようやく、アインがルカを見る。
(次は、確か)
ほんの数分前、ルカは、先程エンジに教わったことを思い出す。
「まずは、簡単な質問からだ。相手の心地良いと思える空間を創ること」
「一方的な話は避け相手のペースに合わせろ」
エンジとの会話を反芻。
「このミートボール美味しいよね」
「そうね」
短い返事。
途切れる会話。
「今日は……何してたの?」
「剣術の特訓」
それだけ。
続かない。
喉が詰まる。
エンジは、少し離れた場所からその様子を眺めていた。
口元がゆっくりと緩む、いたずらが成功したと言わんばかりに。
「……本気で信じるとは、純粋すぎて心配になるぜ」
言葉とは、裏腹に肩を震わせた。
「感心しないな、エンジ君」
横から、冷ややかな声色。
振り向くと、レーシェが立っていた。
腕を軽く組み、呆れたような視線を向けている。
「ここ、座るよ」
返事も待たず、隣の席に腰を下ろした。
「俺は、あいつの背中を押してやっただけだ」
完全に開き直ったような態度だ。
「まったく、あなたってひとは」
レーシェがため息をつく。
その向こうで、ぎこちない会話を続けるルカの姿。
「アインちゃんはモテるなあ」
くすり、と笑う。
花が咲くように、柔らかく頬が緩んだ。
「なあ、アインの趣味とか好み、お前なら知ってんだろ」
トレーからアイスクリームを一つ取り、差し出した。
「……おいそれと、ルームメイトの情報を話すわけにはいかないよ」
レーシェは首を横に振る。
差し出されたそれに、手を伸ばすことはない。
「俺も、同居人を応援してやりたいんだ。……わかるだろ?」
もう一つのアイスを渡す。
その言葉に、レーシェは一瞬だけ目を細めた。
そして——
「……少しだけなら、教えてあげる」
レーシェは、アインを一瞥。
「ごめんね、アインちゃん」
小さい呟き。
だが、ほんのわずかに楽しんでいる色も混じっていた。
(まずい……)
空気が重くなる。
アインが手を止めた。
「あんた、さっきから、何なの?」
鬱陶しいことこの上ないと感じさせる圧迫感。
ルカはうつむき、気おくれした。
「ごめん……嫌だったかな?」
「私、もう行っていいかしら」
アインが立ち上がる。
終わる。
そう思った瞬間——
「待って」
声が出た。
心臓が暴れる。全身に広がる熱。
それでも、ルカは紡いだ。
「君と、仲良くなりたいんだ」
沈黙。こわばる手足。
やがて。
「最初からそう言いなさいよ」
小さな嘆息。
「わかったわ。友達になりましょ」
あっさりとした返答。
力が抜ける。
「……ありがとう」
アインは背を向け、去っていく。
ルカは、冷めたスープを口に運ぶ。
いつもより——少しだけ、美味く感じる。
「ごちそうさまでした」
「うふふ……」
枕に顔を埋めたルカがベッドの上で転がる。
布が擦れ、揺れる音が反響する一室。
「はしゃぎすぎだ、まだ友人になっただけだろ」
浮かれる同居人をエンジがなだめる。
「エンジ、おかえり」
調子の上がった出迎え。
薙刀を壁に立て掛け、エンジは汗を拭う。
「先に寝ていればよかっただろ、就寝時間すぎてんぞ」
「眠れなくて、それに君にお礼を言いたかったし、ありがとうエンジ」
噓偽りのない心の底からの感謝。
ルカから向けられた輝く瞳。
「そ、それは何よりだ」
眼が泳ぎ、どもる。
(心が痛い)
エンジは、胸を抑えた。
僅かに生じた罪悪感。
払拭すべく、エンジは切り出す。
「そういえば、アインって料理が得意なんだとよ」
レーシェから聞き出した機密情報。
「どうして、君がそんなこと知ってるの」
「秘密だ」
エンジは視線を外す。
「エンジ、ケチケチせずに教えてよ」
愉快に舞い上がった声。
ルカは、エンジに飛びかかる。
「うわ、くっつくな、離れろ」
心底慌てふたむくエンジ。
子どものように取っ組み合う。
静寂に包まれなければならない夜。
寮監に怒鳴り散らされるのは当然のことだった。




