第10話⑤:自由、いや、そんなんじゃないけど
常に晴天が続くにも関わらず、神殿の大理石の床は裸足で触れるといつも冷たい。そんなことを由依の前で口走ってしまったのが運の尽きだったな、と睡方は毎回自分の足を見る度に思う。丈の短い靴下の表面に、ひらがなで『すいほー』と書いてある。その周辺の甲の部分にはこれでもかと言うほどキラキラしたシールが貼ってあって、子ども用品でももっとマシなのがあるだろうという奇抜なデザイン。正直言葉に出来ないほど恥ずかしい。
それはデザインという観点だけでなく、これが由依の手作りの品だということも含んでいる。別に神なんだから最初から靴下そのものを生成すればいいのに、わざわざ手芸道具と糸を生み出して、そっから自分で作り始めて。指から血出したり、途中で間違えてニットが出来そうになったり。でもこう作らないとーって融通効かせずにずっと作業を続けてやっと完成させた代物。恥ずかしいよ。でも、せっかくだから履いてる。なんか、すげぇ頑張ってたし。
椅子の背もたれに身を預け、鏡をじっと見つめる。何か異常があったら即時に行動できるよう、あくびはしてられない。天啓ポストにはすぐに投函出来る位置に机は設置されており、眼前にはペンと紙切れ。幸い、睡方が動く羽目になるような事態は本日まだ起きていない。
「あの二人、何してんだろうね」
後ろから声がして、半分だけ振り向く。右目は鏡。左目は、その声の主を捉える。
「な」
また別の机に這いつくばって、由依は一枚の新聞紙と険しい顔で睨めっこ中。ペンを持つ手は止まったままで、こちらには一瞥もくれない。
可憐な窓辺の少女、とは言い難い口を尖らせたどこか抜けた表情が、一周回って彼女の執筆の苦難を表していた。頭を抱え、ただひたすらに新聞紙と顔との間の距離が狭まっていくのみ。遂にはペンを指から離して机に転がし、そのまま上半身を机上に寝かせた。反動を付けたように体を起き上がらせ、大きく伸びをする。
「あー! 早くうちらの番にならないかなー、最後にデート行ったのももう一ヶ月前になっちゃうよ! ねえ、睡っち?」
「デートって言うな、これでも地上の偵察の仕事なんだから」
言われた由依が、目を細める。唇を舌で湿らせてわざと睡方から視線を外すと、頭の後ろで手を組んだまま鼻にかけた声を出して。
「へー、睡っちはデートだと思ってないんだー」
睡方が思わず全身を振り向かせる。
「……いや、別に、そういうわけじゃ、ないわけでもないけど」
客観的であれば我慢出来たであろうおぼつかない素振りが止まらない。顔のどこかを触っては触ってというような、指が迷子になる感覚を覚える。
由依は眉を上げ、ほくそ笑んだ。なぜか嬉々とした目で睡方を見て、鼻高々に手のひらを向けてくる。
「はいはいはい。分かってる、分かってる。みなまで申すな」
どこか満足げな表情のまま彼女は再びペンを持って作業へと戻った。安堵からため息を吐く睡方が、より椅子に体重をもたれかからせる。
「でもいつか、四人でも地上でゆっくり遊べたいなぁ」
腕を動かしながら、ふと呟くように由依は漏らした。太陽の光が鏡に反射して、頬に熱を感じる。睡方は自然と口角を上向かせた。
「……そうだな」
体を戻し、鏡と対する形でまた世界の監視に身を投じる。自分もペンを持ち、人々、自然、文明の営みをその目で追い続ける。
「そういえばさ、想っちっていつ告るんだろうね」
ペンを指の上で回しながら。
「あと……一億年後ぐらいじゃないか」
言った途端、鏡面のどこかからくしゃみが聞こえてきた。
おかわりのミルクをもう一杯ちびちびと喉に通しつつ、鼻で深く息を吸う。木造の宿屋のほのかに包み込まれるような匂いと、アルコールで頭を揺らされるような匂いが混ざる。だが九華はもっと深くを感じていた。地上を漂う、混沌の空気を。
今回の世界は随分続いたと思う。自然の脅威を乗り越え、ある程度文明も発展し、数々の王国が地上を席巻している。初めてだ。ここまで世界が保ったのは。
周囲の人々は我を忘れ、酒を酌み交わして盛り上がっている。笑顔も昔と比べたらよく見かけるようになった。悪くない。悪くないんだが。
「隣国の奴らまでやられたら俺達ってどうするんだ?」
「そりゃあ、戦うしかねぇだろ」
「また口だけ言ってお前。俺たちただの農民が既に三国も滅ぼした帝国に勝てるはずねぇのに」
「お前だって家族いんだろ。俺なんかいざとなりゃな、農具ぶん回して兵隊なんかぼっこぼこだぞ」
酒場の喧騒に混じって、近くに座っている往々とした体つきの男たちの会話が耳へと入ってくる。世界を包む争いの気配は未だ続いており、むしろその規模は古代よりも拡大していた。この国の隣で行われている百年戦争はまさにそんな戦乱の世を象徴するものだった。ここにいる人間も平和に酒を飲んでいられるのはもはや今日までかもしれない、それほど危機迫る状況が日々続いている。
「澱死病で人は減るし、戦争でも人は減るし。俺たち破天候な時代に生きてるってわけだ。いつか俺たちが伝説にでも載ったりしてな」
「夢の見過ぎだこの野郎。……あ、伝説と言えば、お前知ってるか。天から降ってくる、文字の書かれた紙っぺらの話」
コップを持ち上げた九華の動きが一瞬止まる。
「紙っぺら? あーあーあー、あれか! なんかくだらねえことばっか書いてあるやつ」
「そうそう、あれ実はな。噂によると、神様からの贈り物って言われてるらしいぞ。っていうのもな。町のガキが、なんか空飛んでる人型の奴らがこの紙配ってるところを見たって言うんだよ」
「えぇ? 本当かそれ。信用ならんべ」
「まああくまで噂だな。でもな。もしほんっとうに神様が配ってるんだとしたら、俺は直々に内容に文句言ってやろうと思ってんだよ。知らねえ国の何でもない生活なんかじゃなくて、どことどこが戦ってどこが負けたか教えてくださいーってな」
「そりゃあいいな! 戦況を知れれば、それこそ俺たちだって他国の王を打ち倒すチャンスがあったり……ってそりゃないか!」
大きな笑い声が響き、それが他の笑い声と重なって甚だしい輻輳となる。九華は話をしていた彼らの背中への視線を、そっと下ろした。そのままミルクを一気に飲み干し、コップを机に置く。カウンターの下で手を深く握り、数枚の硬貨を生成した。
「おじさん、ごちそうさま」
「あいよ」
小銭をコップの横に置き、九華は退店した。外には色彩豊かなハーフティンバーの家々が立ち並ぶ。辺りに生える木々と積まれた煉瓦の赤が良いコントラストを生み、活気溢れる街に見えるが。反して空気は鬱々としていた。道の側には肌の一部が白化し、既に生き絶えたであろう遺体が点在する。
今世紀最大の伝染病、澱死病の犠牲者たちだ。発症まで体の中で潜伏し、症状である体の白化が確認されてからは、何らかの対処をしなければ長くても三日で死に至ってしまう。にも関わらず、治療法は未だ確立されておらず、現時点で出来る対処は一時の延命のみ。凶悪すぎるほどの疾病だった。そしてその澱死病を放ったのは、紛れもなく我々神であった。遺体を視界の端に置きながら、九華は足早にその場を去る。
町の中心からは離れた川沿いの深い森の中へと進み、辺りに人の気配を感じないほどの所まで来た。全身が草木に包まれている中で一応見回しつつ、九華はその場で一回転した。衣装が一瞬で変化する。男物のダブレットと革ズボンは消え、下着の上から女物のチュニックを被る。付けていた帽子と仮面は消え、特徴的なポニーテールが飛び出す。どこかに行くにはやはり男性を偽った方が憚られないが、やはりこっちの方が自分には楽だし合っている。創造力を応用した、神の変身能力は非常に便利だ。
「お父さん! お父さん!」
気を抜いた瞬間だった。遠くの草むらから何か声が聞こえてきた。発された方向に呼び寄せられるように九華は向かっていく。背の低い若草が足首に絡まって走りづらい。近づくにつれて声が大きくなってくると、それが子供の声だと分かった。叫ばれる言葉と言葉の間隔が徐々に狭まっていくのが緊迫感を感じさせる。
悠々と育った植物が相互に絡み合い、生垣のような緑の壁を作り出している。声はその奥から流れ込んできていた。九華は静かに草を掻き分けて隙間を作り、隠れて何が起きているのかを見やる。
少し開けた空間。草原の上に恐らく父親と思われる男性の体を揺すっている、声色から想像した通りの少年がいる。六〜八歳程度のよく発達した体躯ながら、四肢やそれ以外の肌は傷だらけで血も出ていて痛々しい。だが、それが可愛く思えるほど、地面に伏す父親は体を激しく痙攣させていた。
九華の瞳孔が開き、思わず足が動く。両手でなるべく大きな隙間を作り、そのまま体をめりこませるようにして緑の壁を貫通し、転がり込んだ勢いで少年と父親の元へ駆けつけた。
「大丈夫ですか!? 起きれますか!?」
少年の父親の肩を叩く。だが、返事は呻き声でしか返ってこない。
「一度仰向けにしましょう。手伝ってくれる?」
「……う、うん!」
豆鉄砲を喰らったような顔を一瞬しつつも首を縦に振った少年と、一緒に父親の体をうつ伏せから仰向けへと移動させる。その際に手に伝わる父親の心臓の鼓動があまりにも速いのを感じた。彼の額には汗が光り、布一枚のような服装にも大きく染みが出来ている。
肌着めいたそれをめくり、九華は唇を噛む。体の一部に見える白化の症状。
澱死病だった。それも末期の。
「僕、おぶってきたんだ……! 家に来てくれるはずのお医者さんが何時間経っても来ないから……! でも途中でお父さんの様子がおかしくなっちゃって……」
「あんた、一人でか……!?」
静かに頷く彼の傷だらけの四肢を見て、納得した。それでも、九華の背丈よりも大きく筋肉質な大人の男性を、まだ年端もいかないであろう少年がおぶってくるなんて相当の体力と根気が必要だ。どこに家があるのかは分からないが、間違いなく数十分程度の歩行では出来ない傷が少年にはいくつも付いていた。
九華は、動きを止めてしまった。苦しみ、唸る父親を眼下に、頭に浮かぶ不適切なはずの思惟が脳の神経系を鈍らせる。
自分たちが放った伝染病。それは死者が出ることを覚悟して、我々が人類に放った災厄だ。当たり前だ。降りかかって何も起きない災厄は、災厄ではない。そんなことを十分に理解して、その罪を背負って、それでもいつかの未来のために世界を安寧へと導こうとしていたんじゃないのか。
隣で必死に呼びかける少年が視界に入る。私が今ここで彼の父親を一人救って、それが何になる。澱死病で死んだ人はもう既にこの世界で何百、何千万といる。それなのに今更、その中の一人を助けて救世主気分にでも浸りたいのか。
そんなの、傲慢すぎやしないか。
父親の痙攣は更に激しさを増していく。少年が九華の腕を掴み、まるで縋るように泣きつく。
「お願いお姉さん……! お父さんを助けて……! 僕の大切な家族なんだ……
!」
彼の指が服越しに強く食い込む。九華は無駄に拳に力を入れて、腕を腿にくっつけるしか出来ていなかった。
人々が笑顔になる世界を作る。その目的で、今目の前の人間から笑顔を奪うなんてあっていいのか。
だが、彼のように目の前で家族が死んだ人だっていくらでも。
唇が揺れる。口が乾く。木々がざわめき、耳を劈いてくる。どうすればいい。どうすればいいんだ。何のために、自分たちは世界を守ってきたんだ。
「ぼさっとするな」
声がして、顔を上げる。
揺らめくダブレットの裾。目の前には、想汰がいた。少年の父親を挟んで九華と反対側で膝立ちになり、彼の手首に手を当てて脈を測っている。
「あんた……どうしてここに」
「君はどうしたいんだ」
常の冷たい双眸が、彼女を見つめる。宿っているのは、信念のこもった青い光。
いや、違う。
青い、炎。
「心に正直になれ。君が、本当にしたい選択を選べ」
言われて、大脳を覆う霧がどこかに消えていくのが分かった。吹き抜ける風はポニーテールを揺らし、高々と靡かせた。
少年の方を向く。
「あんた、ちょっと目瞑ってて」
「……え?」
「いいって言うまで。出来る?」
「わ、分かった」
涙に溺れていたその瞳を彼は瞼で隠した。確認すると、九華は想汰と目を合わせてお互いに頷き、意識の朦朧とする父親の上で二人は手を翳した。
青い光が眼前で弾ける。彼の体が渦巻く光子の波に飲み込まれる。それらは肌の白化した部分へと入り込んでいき、細胞へと染み込んでいった。瞬間、白カビのように父親を蝕んでいた部分が綺麗に消滅した。光子が全身を這いずり、全ての肌の白化を治療していく。父親は閉じかけた瞼を開き、最後にその目に光子が宿った。
「……あれ」
父親は上半身を起き上がらせ、自分の両手を見やる。九華は少年の肩を叩く。
「ありがとう。もう、いいわよ」
瞑目を解いた彼は、最初に父親と目を合わせた。そして父親が息子の名前を呟いた後、彼は父親に思いっきり抱きついた。
「お父さん!」
うわっ、と再び父親は草原に背中をつけた。笑顔を浮かべた息子を腕に抱きしめながら。
「俺は、一体……」
「この人たちがね! お父さんが病気で倒れてるところを直してくれたんだよ」
「あなたたちが……」
父親は左右に顔を向ける。九華は安堵から来る無意識の微笑を浮かべつつ。
「お子さん、あなたをおぶって医者のところに連れて行こうとしていたんです」
「そうだったのか……。ありがとうございます」
「お姉さんたちは、神様だよ!」
少年の快活な言葉に、思わず九華は眉を跳ねさせる。父親が咎めるように。
「こ、こら。神様という言葉を、そんな簡単に」
「で、でも……!」
こちらを向く少年に目線を合わせづらくなった九華が目を泳がせる。そんな中、想汰が何かに気付いたように指を指す。
「君……それって」
「あ、これ……?」
少年が首から下げていた飾りを取り、そこに付いていた折り畳まれた紙を広げる。広げられたそれは、私たち四人が人知れず刊行している新聞、創界新聞の記事の一つだった。
「神様からの贈り物を、お守りにしてるんだ。それにこれ読んでる時って何だか戦争のことを忘れられる気がして……」
少年の言葉を聞いて、想汰は九華へと目線を向けてきた。九華はその言葉を頭で反芻し、熱くなって溢れそうな思いを必死に頬に力を込めて堪えたのだった。
「命を救ってくださり、本当にありがとうございました。あなたたちにも神のご加護があらんことを」
夕陽が落ち始め、手を繋いで去っていく父親と少年は去っていった。
「ありがとう! お姉さんたちー!」
二人を見送りながら、手を振りながら帰っていく少年へ手を振り返しながら九華は呟いた。
「私たちってなんて愚かなのかしらね」
「まったくだ。いつになったら、神様になれるんだろうな」
乾いた笑いを浮かべつつの想汰だった。大きく手を振り、見送り切って腰に手を当てると、背中側にポータルが出現したのが分かった。
中から白装束姿の由依と睡方、それからタプが出てくる。
「やっほー」
「タプタプ!」
それぞれが大量の紙束を持っていた。高く積み上がった塔にも思えるそれらを睡方が九華と想汰にも、何部ずつ分けて渡していく。
「じゃ、今月分の配布と行くか」
「そうね……!」
睡方と由依がタプに乗り、九華と想汰も白装束姿に戻ってからまたがる。神の加護を受け、空を一瞬の速度で駆け上がるタプは大気圏近くまで届くのに一分もかからない。雲の下で地上がうっすらと見える程度の所で止まると、九華は世界を見下ろしながら持っている新聞紙をばら撒く。
「創界新聞、七月号の配布開始!」
タプが控えめの速度で四脚を動かし、空を闊歩していく。それに合わせて四人は新聞を振り落とし、そのまま各地域の上を転々と移動する。ひらひらと舞い落ちる紙々が町並みに消えていく。それは、頼りを伝えに来る蝶のよう。配る最中、九華は今日遭遇した少年の顔を思い浮かべながら呟く。
「さっきね、新聞読んでくれてる子どもに出会ったの」
前に座る三人が、相互に顔を見合わせる。
「読んでる時だけ戦いを忘れられる、って」
先頭を座る睡方が、新聞を持った手を一瞬止めて。
「良かったな。やり始めて」
「うん……!」
九華は高く高く手を掲げ、新聞を空へと放した。飛んでいく渡り鳥のごとく。命を運ぶコウノトリのごとく。空気を切り、地上へと降り立て。我らのささやかなる願いと共に。
「あ〜あ、誰かうちらを見つけて絵でも描いてくれないかな〜」
由依の凡庸なる呟きと共に、タプ含めた一行は青空の中へと消えていくのだった。
今月分を全て配り終え、ポータルを通じて神殿へと戻ってくる。四人は慣れた顔で椅子を生成し、そこへと鎮座する。
長机の机上を手で強く叩き、九華は威丈高に宣言した。
「それではこれから、第何回かもとっくに忘れた、神分子部、定例会議を始めます!」
世界は、続く。一時的な終わりは来ても、いつまでも、どこまでも。でも彼女たちが向かうのは終わりじゃなかった。
永遠に始まるような、そんな世界だった。




