間章:知る者Ⅱ
その日の帰り道は、いつもと違って見えた。もちろん、少し遠回りしたとか、工事で通行止めになっていたとかそんなことではない。
そういった表立ったことではなく、どちらかというと、見える景色の色が変わった。この表現が今の気持ちに一番近い気がした。
同じクラスの瀬尾九華。助けてくれた時から彼女が何を言っているかは、理解に届かないところがあったが、それでも自分を助けてくれたことは確かだった。それに、その分からなさが睡方にはとっては取っ掛かりとなった。
何も知らない。彼がクラスでの話題についていけず、友好の輪を広げられない一つの原因がそれだった。
いつも習慣のようにプレイしているゲームのことは分かる。というか、それにしか興味が無い。家で点いているテレビで流れる内容なんてまるでヘッドショットのように耳に抜けていくし、スマホもゲームの攻略情報を調べることぐらいしか使ったことない。
そのため、逆になぜみんなが得意げに語れるほどの知識を有しているのか、彼にはそっちの方が不思議でしょうがなかった。
でも、彼女は正直そういうレベルでは無かった。言うこと為すこと同年代のクラスメイトの先を行っていて、なんなら先生さえも丸め込んでしまった。その、いわゆる無双ぶりに睡方は胸を打たれた。
「……ただいま」
扉を閉め、ポケットに鍵をしまう。呟くような帰りの返事だったが、それでも靴を脱いでいる間に、リビングに繋がる扉から母親の胡桃が飛び出してきた。
ロングの茶髪に、父にプレゼントしてもらったピンクのチェックのエプロンをまた着ている。保育士をやっているからか、体はモデル体型というよりもどちらかというと母性を感じるようなフォルムをしていて。
「お帰りなさい、あな……あ、じゃなくて睡方か。おかえり」
「……うん」
「お父さん、もうすぐ帰ってくるらしいから大体十分後にはもうご飯にしちゃおうと思うの。だから手洗ってきちゃって」
「はーい」
玄関からすぐに見える真ん前の階段を登っていき、二階の自分の部屋にランドセルを放り投げる。
それから今度はすぐに階段を降り、階段の脇道を通って廊下の奥の洗面所へ行った。
事を済ませてリビングに入る。入ってすぐ右にある、詰めたら四人は座れるだろう少し余裕のあるソファーに座り込んで視線の先にあるテレビを眺めた。流れている番組は両親の好きないつものバラエティ番組だが、なんとなく注視してみる。
そのうち、玄関の扉が開いた音がして母親は限りなく早いスピードでフローリングを駆けて、リビングを飛び出た。
「ただいま〜、胡桃さん」
「お帰りなさいあなた!言ってくれた時間より十分も過ぎたから心配したわ」
「ごめんごめん、ちょっと長引いちゃって」
案の定、帰ってきたのは父の司だった。それから無言の状態が続く。これはいつものやつだ、玄関前にも関わらず恐らく二人は抱擁を交わしている。
やっと沈黙を破ったと思ったら、次は壁越しに聞こえるリップ音だった。一回、二回、三回と来て止まる気配を見せないのには流石に睡方も眉に皺を寄せ、リモコンでテレビの音量を上げる。
ひとしきり上げ始めたくらいの頃に、二人はリビングに入ってくる。白いワイシャツにベルトの巻かれた長ズボンを履いている司は、片手間にネクタイを外しながらテレビを見ている睡方に気づいて。
「おー、睡方も帰ってたのか。珍しいな、テレビに食いつくなんて」
「ああ……ちょっとね」
「きっとあなたに似たのよ。さあ、全員揃ったことだしご飯にしちゃいましょう。睡方、食器並べるの手伝って」
一枚壁を隔てているとは言え、あんなことをした後に当たり前のように接されると、逆にこっちが少し困ってしまう。
頻度的には日常茶飯事ではあるが、気持ち的にはやはりこのスタンスは慣れないし何より実の親がしているという点に嫌悪感を拭えない。
それでも二人に反抗する義理なんて無いから、彼はさっさと立ち上がって胡桃の手伝いを始めた。
「そういえばさ、睡方ももうすぐ誕生日だよね?」
箸で机上に並べられている料理をテンポよく放り込む司が、思い立ったように目線をこちらに向けてくる。言われて気づいたが、味噌汁を流し込んでいたからすぐに返事を返せない。
正直毎日学校に行って帰ってすぐにゲームしてを繰り返している睡方にとっては、今日が平日か休日かという単純な区別しか付けられていなかった。そのため、いつも誕生日の話題を切り出すのは両親のどちらかだった。
「もうそんな時期だったわね。睡方、今年は何が欲しい?」
柔らかに語りかける声が、耳に染み込んでいく。彼は持っているお椀を置くスピードをわざと遅くして、返事までの思考の時間を少し伸ばすという足掻きを見せた。
いつもだったら即答する。新作のゲームソフト、またはゲームハード。幼い頃からそれを両親から与えられてきた影響で、自分もいつの間にかのめり込むようになっていた。別にそれを拒む理由も無かったし、なんなら今もゲームは好きだ。
だけど。なんだか変な理性のようなものが働く。はたまた衝動か。テレビから芸人の一言で生まれた笑いが、返事を待つ静寂に轟いていく。でもそれは、彼女と出会った衝撃から意識を逸らすには余りにも拙くて。
「……図鑑、とか」
一瞬、何も音が聞こえなくなったのを感じる。水中で息を止めているような、底抜けの暗闇。
「え……図鑑?それは、何の?」
「……なんでも、あとは本とか」
「ゲームソフトじゃなくていいの?ほら、いつも言ってたじゃない?」
「言ってた……けど。でも、今年は本が良い」
胡桃と司は思わず顔を見合わせる。少し俯きがちで言ったつもりだったが、自然と睡方は両親に目を合わせて話していた。
胡桃は温和な表情を完全には崩し切らないものの、軽く眉を顰めて司に訴えかけるような目をしていた。最初は彼も同じような目をしていたが、しばらく黙ってから深呼吸をすると、目を瞑って頷き始めた。その様子を見て、彼女は無理やり飲み込むようにしながら。
「分かった、一旦分かったわ。でも睡方、一つだけママに聞かせてちょうだい。なんで本が欲しいと思ったのかを、正直に」
覚えている限り、母には声を荒げて怒られた記憶は無い。もちろん、父にも。でも、よく理由は聞かれる。なんでこれをやったのか、こんなことをやってしまったのか、睡方自身の言葉を聞こうとする。
その日の彼は、机の下で拳を強く握って。
「もっと……知りたいって思ったんだ、世の中のこと」
母と父がじっと視線を預けてくるのに応えたくなって、言葉を紡ぐ。彼が堂々と話せる相手は学校にはおらず、家族しかいないから。
「学校でみんな色んな話をしてるんだ。それで楽しげにしてて。でもいつも、俺だけついていけなくて。だから、ちょっとぐらい、なんでもいいから何かを知ってみたいって」
胡桃が目尻を下げて、柔らかな口調を残したまま。
「……睡方は、偉いのね。私がそれくらいの歳の頃はそんなことなんて、思ったことも無かった。ただ、人生を最大限楽しく過ごして、最後まで笑っていられたら幸せだなって思ってたし、それは今も思ってる。睡方にも、そうあって欲しいって」
彼女は唇を軽く噛んで、机に手を置いた。バラエティ番組の笑い声がよく響く。両親はいつもそうだった。
人に迷惑をかけないこと。そして、人生を思いっきり楽しむこと。口酸っぱく言われたゆえか、まんまと彼の頭の中にはその言葉が染み付いていた。
「でも、知ることって言うのは、その、楽しいことだけじゃないの。この世の中には知らなくて良いようなことがいっぱいあるし、それを知っただけで心が暗い気持ちになっちゃうこともある。だから、あなたには、」
「胡桃さん」
父の穏やかな声が、体を乗り出し始めていた彼女を静止する。両手を膝の上に戻し、軽く頭を下げるその姿に、彼は横に首を振って「いいんだよ」と言葉を浮かばせてから。
「もちろん、僕も胡桃さんと僕も同じ考えだよ。せっかく生まれてきたんだし、睡方には人生を楽しんで欲しい。今までまあそのために色々やってきてはみたんだけど……、もしかしたらそれが逆に、睡方の人生を狭めていたのかもしれない」
今度は逆に「ごめん」と言って、父が睡方へ頭を下げてきた。彼の見たこともない姿に子供ながらも思わず困惑し、どう反応して良いか分からなかった。
「あなた……」
「胡桃さん、これは僕が独断で決めることじゃない。どちらかというと君が判断を下さないといけないと思う。だから、僕の意見はさっき言った通りだけど……、後は任せるよ」
司の視線の先を追うように、胡桃の方を見る。いつもの柔和な雰囲気に似つかわない神妙な出で立ちをしているが、睡方が自分の方を見ていると分かると、すぐに笑顔を戻した。それでもその笑顔は嘘らしいものではなく、不思議と心から湧き出ているもののように見えた。
「睡方が人生を楽しく生きるために必要なことなら、私達はなんでも協力する。それはもちろん。でも……」
彼女の真剣な眼差しに、睡方はじっと聞き入る。
「この先、あなたが大きな壁にぶつかって、理不尽なことやどうしようもないことが起きた時、絶対に自分を嫌いにならないで欲しいの。そういう時ってもうだめだとか自分が悪いんだとか思っちゃいがちなんだけど、その気持ちを堪えて自分のしてきたことを褒めて、大切にしてほしい」
「自分のしてきたことを、大切に?」
「そう。まだ難しくて分からないかもしれないけど、それでもいいの。いつか、思い出してくれるだけで。あなたは幸せになれる、だって私と司さんの立派な息子なんだから」
頭を撫でられる感覚。暖かくて繊細で、その奥に重みのようなものを感じて。父の司が微笑を浮かべているのが、視界の端に見える。椅子に座り直した彼女は膝に手を重ね、いつもの気品高い座り姿勢になった。
「一応、改めて聞くわね。今度の誕生日何が欲しい?」
「……。俺は──────」
今思えば、その時の胡桃の口調は、睡方の答えを分かっていて質問したようだった。
届いたのは、昆虫の図鑑だった。ページ上に並ぶ多種多様の昆虫の、その細部までが嫌というほど大きく映し出されているのを見て正直良い気持ちはしなかった。
それなのに、ページをめくる手が止まらなかったのも事実だった。今までじっと見たことのないような、顔、足、隅に書いてある生態。ブルーライトを浴び続けていた彼の目には紙に印刷されている全てが新鮮に見え、それは画面上に映るものよりもやけに近くにいる気がした。
それから睡方は色んなことを知りたいと思い、学校の図書室に暇があれば行ってみるようになった。また、休み時間になってはよく九華の席に行き、会話をするようにもなった。
よりにもよって彼女は休み時間でもずっと紙に文章を書き続けているため、友達は睡方だけだったようでそれから何年間もその日々は続いた。
そして、時は巡り。二人は、同じ晴滝中学校へと進学した。もう桜も舞い散った頃、睡方は普段来ることのない旧校舎を歩き、目的の場所へと向かっていた。この中学校に今年から設立された、新たな部活の部室へと。
湿っぽい階段を上がり、見つけた。紙が一枚テープで雑に貼られた、もう古びたドア。それを音をさせながらゆっくりと開けると、そこには、机を一つだけ出し、ただ一人で紙に文字を書いているあの姿があった。
初めて、彼女が文章を書いている途中に手を止めて、顔を上げた。睡方はドアを閉めると、彼女にまっすぐその声を届けた。
「あの、新聞部に入部希望の、渓翠睡方って言うんですけど」
彼女はいつもみたいな無愛想な顔をしながらも、ほんの少しだけ口角を上げていた。
「来ると思った」




