追われる男
「幽奈!」
その後すぐ、息を切らしながら希空が廃病院へと駆けてきた。夜の闇が、よりいっそう病院を不気味に彩っている。
「無事? 大丈夫なの!?」
「はい。シャムちゃんが危なかったけど、もう大丈夫みたいです」
「えへへ。心配かけちゃってごめんね」
シャムは本調子ではないものの、なんとか無事だ。希空も二人の様子を見て、ほっと胸を撫で下ろしていた。だが幽奈は立ち上がり、病院の奥へと歩き出した。
「すみません。シャムちゃんをよろしくお願いします」
「え? ちょっと待って幽奈。どこ行くの?」
「ここ、とっても危ない所みたいで。一般の人が間違えて入ったみたいです。心配なので行ってきます」
「一般の人? ちょっと!」
希空が止めようとした時には、幽奈の姿はなかった。彼女は現在も配信中の自分のスマホ画面を見て、男が何処に向かったのかを把握しようとする。
幽奈は儀式のことを知らない。ここが危険な悪霊のいる場所だと勘違いし、男が不幸な一般人だと思い込んでいた。
◇
白髪の男は必死に病院の中を逃げ回っていた。
建物は三階建てであり、彼は今最上階を走り回っている。なぜかあのピエロが自分を追いかけてくるから。
この時、人形からは一定時間おきに奇妙な笑い声が鳴っていた。元々おもちゃに付けられた機能であり、スイッチを押していると内部の電池が切れるまで笑い声が続く。
男にはそれが酷く不気味で堪らなかった。視聴者達もまた、声がする度に驚いている。
:この笑い声なんなん?
:すげー怖い
:ってかこの配信機材何処に向かっとるんや?
:せんねこととシャムちゃん置いてどっか行ってるんだけど
:マジでどこ向かってるか分からん
:こんな配信初めてだわ
:ちなアッキーは行方不明、知らないおっさんを追いかける謎配信
:さっきのせんちゃんが怖すぎて、ようやくチャット打てる元気が戻ってきたわ
:ってかこの声が怖すぎ!
:同接やっばw w
:うわあああ
:今日の配信ホラー感が凄すぎてもう、ね
:さっきのせんちゃん過去一で怖かった
:シャムが悪霊化したのかと思ったけど、あっさり敗北してたな
:せんちゃんが一番怖い
:ワイ、ガチでしばらく震えてたんやが
:この後も恐怖映像続いたりしないよな?
:漏らしちゃったよおおお!
:ってか、ここ病院っぽいよな
:チラチラ見えるおじさん何?
:こんなに同接凄いホラー配信初めてだわ
この時、なんと同接はすでに七百万を超えていた。しかし配信主はそれに気づいていない。
白髪の男はこの時、初めて想像を絶する恐怖を味わい、錯乱して逃げ続けていた。
「くそ! なんで私がこんな目に遭うんだ。なんだあの人形は、なん、」
いいかけて彼は足を止めた。廊下の奥にある階段へと向かおうとしたその時、奥のほうに誰かがいたからである。
黒く長い髪をして、白い服を着た女。先ほど自らに恐怖を教えた少女そのものだった。
「ア………ダイ」
「あああーーー!?」
彼女が声を発した時、その目を見て男は逃げ出した。赤く光る眼差しに悪寒が走る。
逃げてきた方向へとまた走ろうとしたが、そこにはピエロの人形がいた。
「う、うおおおわああ!」
男はどちらとも接触しない渡り廊下へと走る。
(あああ。おじさん、逃げちゃった。すっごい怖がってる)
幽奈は気さくに声をかけたつもりだったが、怯える姿を見て慌てた。そんな彼女の心など知らない白髪の男は、とにかくひたすら逃げ続ける。
しかし、逃げた場所には必ず幽奈が現れる。いくつもの廊下を駆け回り、走り続けた先で必ず待っていた。
実際、ピエロの配信画面を観ながら先回りしているのだが、もはや男には何も理解できなかった。
そしてある時、階段のすぐ手前にたどり着いた時、幽奈もまた近くまでやってきていた。
「アー」
「く、来るなぁああ!」
男は絶叫しつつ、スーツの懐から見慣れないものを取り出し、彼女へと向ける。両手で握りしめられたそれは、本物の拳銃であった。
白髪の男は闇社会で生きるうちに、銃を手にいれる機会があった。しかし、その手は震えている。
(あれって? 本物なわけないよね。モデルガン?)
幽奈はよく分からないが、とにかく男を刺激しないようにするべきだと思った。この時、ピエロの配信機材も二人に追いついており、男を背後からしっかりとらえている。
視聴者達は、白髪の男が銃を取り出した姿が一瞬だが見えた。構えていると背中に隠れるので分からないが、明らかに異常な状況であることは誰もが理解している。
この時、幽奈はシャムから普段の生活におけるアドバイスを思い出していた。
シャムからは、笑顔が素敵だと褒められたことがある。ちゃんと笑顔を見せれば、大抵の人とは仲良くなれるとアドバイスをもらったこともあった。
(笑顔……そう、とにかく笑顔)
幽奈はまだ自らが魔力を発しており、異形の見た目になっていることを忘れていた。
そしてシャムの助言どおりに笑おうとしたが、どうしても無理をしているために、半笑いのような表情になってしまう。
「ド、ドウ……モ」
「フォ、おあああああーーー!」
とうとう恐怖が限界に達したのか、男は発砲した。それも五発。
乾いた音が病院内に鳴り響き、四発は胴体に当たり、一発は額に当たった。
男の銃の腕は、恐怖に支配された時でも確かなままであった。額を撃たれた幽奈は、顔がのけぞったようになり止まっている。
「や、や、やったか?」
今度は白髪の男が半笑いになった。視聴者達は信じられない現場を目撃していることに気づき、唖然としてチャット欄が止まっている。
(……なんか当たったけど、痛くない? ……やっぱり、モデルガン?)
のけぞった顔が正面に向き直る。幽奈の額には穴が空いていないだけではなく、少しの怪我さえしている様子がなかった。衣服も特に変わっていない。
「ひ、ひ……」
「ダイ、ジョ——」
「ひいいいいいい!」
男は悲鳴を上げながら必死に階段を走り降りていく。何度も転びそうになりながらも、幽奈から逃亡しようとする。
同時に視聴者達もまた、恐怖に駆られてチャットを入力していた。
:え? あれ本物じゃないの!?
:せんねこ、撃たれてなかった?
:せんちゃん
:まさか銃で撃たれてノーダメージなん!?
:ヒィ
:ちょ、ちょっと
:ワケ分からんけど、とにかくおっさんにげろ! 殺される!
:強すぎるってばよ
:また漏らしちゃった
:あああああああ
:怖いけど続きが気になりすぎて
:今日絶対トイレ行けないよ
:不死身なのかせんちゃん……
:なんであのおっさん銃持ってんだ
:絶対やばいおっさんだろ
:カオス過ぎるよおおおおーーーー
:おっさん逃げてええええええ
:意味分からんけど、早くこのおっさん捕まればいいのに
息が切れている。男はもう限界だった。しかし、不気味な少女とピエロは何処までも自分を追いかけてくる。
だが、今は二階にいるはず。先ほどの出口に戻れればきっと大丈夫だ。男は必死すぎて、先ほど自らが大変な映像を撮られたことなど、考える余裕がなかった。
どんなに逃げても、ピエロの笑い声が迫ってくる。今度挟み撃ちにあったら終わるような気がした。
その時、一つの病室が目に留まる。彼は一目散にその部屋へと飛び込んだ。
古く壊れかけの扉が軋みながら開き、震える男を招き入れた。




