ピエロの乱入
廃病院の受付近くにあるひらけたスペースで、彼の儀式は始まっていた。
まずはナイフをチラつかせ、少女の恐怖心を煽ることからだ。
「こんな真似をして、ただで済むと思ってるわけ?」
「ええ、思っていますよ。そもそも、私が手を汚すわけではありませんからね」
「は?」
「そんな所に隠れていないで、お姿を見せてはいかがですか?」
声をかけたのは、シャムからは見えない暗闇の向こう。びくりと震えた何かが、従うように姿を現した。
「アッキー……」
「悪く思うなよシャム。これはしょうがねえことなんだ」
褐色肌の巨漢は、以前までの堂々たる雰囲気がなくなっていた。怯える犬のような、哀れな空気が彼を包んでいる。
「この儀式ってやつをしないと、俺だけじゃなくてみんなが困るんだよ。あの悪霊って奴ぁタチが悪すぎる。お前じゃなきゃ無理なんだ」
「何言ってんの!? 意味分かんないんだけど」
「そのナイフでどうするんだ。警察も探してるし、急がないとここがバレるかもしれないぞ」
シャムの怒りの眼差しから目を逸らし、アッキーは男へと質問をした。白髪の男は薄気味の悪い半笑いを浮かべながら、彼にナイフのグリップを向ける。
「困りましたな。では私から提案があります。アッキーさん、彼女が死なない程度に傷を負わせてはいかがでしょう」
「は? お、俺にやれってのかよ」
「ええ。貴方がやるから意味があるのですよ」
白髪の男は今の状況が楽しくてたまらないとばかりに、満面の笑みになった。
反対にアッキーは顔面蒼白になり、シャムは瞳を見開いて固まってしまう。
「ば、馬鹿言うんじゃねえ。傷害……もしかしたら殺人になっちまう。俺は生き延びても、ムショに入るのは我慢ならねえんだよ」
「貴方。そのような悠長なことを、どうして今語っているのです」
男はナイフを向けたまま、怯えるアッキーに一歩、また一歩と迫る。気がつけば吐息が拭きかかる位置まで顔を寄せていた。
「もう悪霊は、貴方の居場所を完全に掴んでいますよ。早くしなければ、刑務所がどうとか以前に、貴方死ぬんですよ。時間はもうない。そして私がしたところで、彼女に大きな絶望を与えることなどできはしない。仲間であった貴方が裏切るからこそ、この行いには意味があるのです。分かりますか、分かっていますよね」
「そ、それは……」
シャムは二人のやり取りを見つめながら、体が震え始めていた。アッキーの怯えた目を見れば見るほど、嫌な予感が膨らんでいく。
この時、ふと廃病院に何かの音がした。既に精神に異常をきたしていた男は、微かな音にすら極端に反応し、焦ってしまう。
「証拠は、残らねえんだよな」
「……塵一つ、残しはしませんよ」
そしてまたも、判断を誤ってしまった。彼は男からナイフを受け取り、悲しみに顔を歪ませながら、シャムの前へと立った。
「どこを切ったらいいんだ?」
「死なない程度なら、どこでもよろしいですよ」
「アッキー! 何言ってんの、やめて!」
白髪の男にとって、彼はもう操り人形と変わらない。遊んで遊んで、飽きたら捨てるような、その程度の価値でしかない。
しかし哀れな男は気づくことなく、ナイフを振り上げ、そして力いっぱいに少女を切りつけた。
病院の中に悲鳴が響く。衣服が破けてふわりと浮かんだ。左肩から胸付近に破けた服の中から、黒いダンジョン用のスーツが姿を現した。
「おや、準備の良いことで。まあスーツに亀裂は入っていますから、もうすぐ刺さるでしょう。さあアッキーさん、もう一度……同じところを」
白髪の男は背後から、シャムを捕まえて上体を起こし、もう一度刺すように命令した。
「く……う、うおおおお!」
今度こそやってやるとばかりに、アッキーはナイフを振り上げる。苦しみと混乱の最中にいるシャムは、この時確かに見た。
何かが暗き闇を突き抜け、そのまま反対側の壁すら壊していく光景を。まるで音が遅れて届いたかのように、爆音が両耳を通過していく。
アッキーは突然の事態に体勢を崩し、そのまま慌てて後ろに下がった。白髪の男はシャムを離し、突き破られた壁の向こうを凝視している。
「な、なんだあ!? なんなんだよ!」
「警察……ではないでしょうね。まだ見つかるには早すぎる。おや?」
真っ暗な廊下の奥から、奇妙な音が聞こえてくる。それはカタカタという何かが壊れそうな、奇妙な響きだった。
徐々に輪郭を帯びてくるそれに、アッキーは恐れを抱かずにはいられない。
「な、なんだよあれ。ピエロの人形……か」
近づいてきたそれは、道化師の人形だった。
何十年も昔の年季が入った品であり、この暗闇だらけの世界では不気味すぎる。しかも喉のあたりから、数秒おきに奇妙な笑い声が再生されている。
「それはカメラではありませんか! アッキーさん、すぐに破壊してください」
動揺して震えるだけのアッキーとは違い、白髪の男はすぐに何が仕掛けられているのかを理解し、顔を手で隠しつつ暗い方へと体を寄せた。
男の言うとおり、配信機材が人形に仕込まれている。もしライブ配信が始まってしまえば、自分たちの犯行が明らかになってしまう。
白髪の男からすれば、自らの姿が映ってしまうのは大きな問題だった。全てはすぐそこにいるアッキーに罪を着せる。その計画が崩れてしまう。
しかし、もうすでにライブ配信は始まっていた。
:こんちゃー
:こん……ん?
:急に始まったじゃん
:今回もすげー楽しみ!
:せんちゃん!
:今日はダンジョン配信?
:あれ?
:なにこれ
:ん?
:あれシャムちゃんじゃね?
:え、え!
:アッキーがいる!
:確かアッキーに攫われたんだよな
:おおおお? せんちゃんはどこだ
:これってどう言うこと?
:現場抑えたとか!?
:アッキーめちゃくちゃビビってる
:シャムちゃん!?
:どうなってんのこれ
:事件の現場とか?
:やばい
:証拠撮ったのか!?
:え、え? 意味わからん
「アッキーさん、早く! 早くしろ!」
「あ、ああ……ああああああ!」
しかし、アッキーは動けなかった。
廊下の向こうから、彼が恐れていた絶望の象徴が姿を現したからだ。




