降臨の儀式
夢を見ていた。少しだけ昔の夢だ。
彼女は仲間数人と、とある学校へと向かい一人の悪霊と戦うことになった。
しかし、悪霊は彼女と戦おうとはせず、ただ懇願するばかり。
その哀れさに、争おうとする必死さに、少女はつい情に流されてしまった。
彼女が見ている夢は、戻ることのない日。自分が明確にいとこと差をつけることになってしまった、後悔に溢れた日。
戻りたくても戻れない、悲しい失敗の日。何度も見たはずの夢が、今日は一段と鮮明だ。
しかし、不思議なことにどうしても思い出せないことがある。それは悪霊と呼ばれた少女の顔だった。
夢から現実に戻る間にも、シャムはずっと彼女の顔を思い出そうとしていた。
◇
その病院は廃業してから何十年と経っているのに、未だに取り壊されていない。
広い庭と井戸が近くにあり、茶色がかった古びた病院は、すでに草木に支配され始めている。
病院の中は暗黒に支配されていた。
どのくらい眠っていたのかは分からないが、何かをきっかけにしてシャムは目を覚ました。
最初は頭がぼんやりとしていたが、徐々に違和感が膨らんでいく。
体が動かない。前にも後ろにも、立ち上がることもできずにいる。椅子に座っているようだが、逃げられないように拘束されている。
(え? な、何? 何これ!?)
焦る気持ちのまま必死に動こうとするも、手足が硬い鎖で拘束されていた。目が慣れてくると、そこはまるで知らない場所だった。
一体なぜ、自分はこんな所にいるのだろうか。
うっすらと記憶が蘇ってくる。あの時、マネージャーから紹介された探索者仲間との面接に出かけて。そこで記憶が徐々に鮮明になる。
(そうだ! あたし、あの面接の場所に行って……アッキーが突然乱入してきて、それで!)
彼女は突然現れたかつての仲間に、拉致されたことまでを思い出していた。しかし、後の記憶はない。
その時、真っ暗だった世界に小さな灯りが生まれた。ふわふわと揺れるそれは、蝋燭の火だった。
誰かが蝋燭立てを持って、こちらに近づいてくる。初めはアッキーだと思っていたが、どうやら彼よりも小さい男のようだ。
白髪頭にスーツ姿。どこにでもいるような初老の男。だがこの状況にいる彼女にとっては、不気味でしょうがない。
「初めまして。二階堂シャムさん」
「あなたは……? ここは何処?」
シャムは冷静であろうとした。この男は拉致に関連しているはず。であれば下手に刺激すれば、とんでもない凶行に走る可能性だってある。
男はうっすらとした笑顔を浮かべ、軽く会釈をした。
「私は悪霊師の末裔ですよ。こう言えば、あなたはご存知でしょう」
「……まさか」
「ここは潰れた古い病院です。もう崩れかけで、なのにいつまでも残っている寂しい場所です。まるで私の家系と同じ。そうは思いませんかね?」
それは自虐か皮肉か。除霊師の家系に育ったシャムにとって、悪霊師がどれだけ落ちぶれた存在かは充分に分かっていた。
古くは室町時代から、除霊師と悪霊師は対の存在としてともに繁栄していた。しかし、時が流れるほどに、両者の差は残酷なまでに広がってしまう。
一方は善。一方は悪。本来は役立つはずの両者は、極端な価値観により大きな差が生まれ、現代では一方は死に絶えたとさえ言われていた。
しかし、末裔は確かに生き残っていた。
「どうしてあたしを、ここに?」
「……あなたをここに連れてきてもらったのは、いくつか理由がある。一つは、あのお仲間さんを救うため」
「仲間って、誰?」
「おやおや、一人だけ残ったでしょうが。あの大きな体をした探索者さんが」
アッキーのことかと、シャムは理解した。蝋燭立てを持ったまま、男は静かに彼女の周囲を歩き始めた。
「あの人はねえ、今やとっても怖い悪霊に命を狙われていますから。それを鎮めるために、あなたが必要なのです」
「意味分かんない」
「悪霊を鎮めるために有効なのは、同じくして強力な悪霊を呼び寄せ、戦わせる以外にはない。彼にそう教えました。毒をもって毒を制する、よく言いますよね」
「それってつまり、あたしを使う……ってこと?」
白髪の男の靴音が聞こえる。それは彼女の背後で止まった。吐息が聞こえ、嫌な予感が徐々に膨らんでくる。
「ええ。あなたは死ぬことになる。私の術によって、あなたはとんでもない悪霊に体を乗っ取られるのです。アッキーさんは助かりたい一心ですが、私は違いますよ。私はね、あなたを殺した上で、あなたの家に見せつけたいんです。分かりますか?」
「きゃあ!?」
言うなり男は、突然シャムの左肩を掴む。力強い指先が肩に食い込むようだった。
「復讐したいってわけ? あたし達に」
「ええ、そうですとも。復讐ほど楽しいものはこの世にありませんよ。私はねシャムさん、今までいつだって、お日様の当たる場所で生きていけなかったんです。落ちぶれた家のせいでね。だが元はと言えば、悪いのはあなた達だ」
男はシャムから指を離すと、近くにあったテーブルに置かれていたランプに火をつけ、蝋燭のほうは消した。
すぐ近くに置かれていた瓶を手にし、蓋を開けるともう一度シャムへと近づいていく。
「あなたが正当な後継者だったら、この復讐は最高だったんだが。まあ、充分に効果はあるでしょう。何しろ、由緒正しき除霊師の家柄から、悪霊が生まれてしまうんですからね」
「……最低」
男は瓶から液体を床に垂らしていった。その液体がなんであるのか、シャムには分からない。匂いは感じなかった。
「本当ならね。あなたはこの前の探索で死ぬはずだったんです。いやぁ、大きな計算違いでしたねえ。あのような恐ろしい女がいようとは。しかし、ここでは助かりません。時間はかかりますがね」
液体はシャムの周囲を囲むように撒かれている。それらは少しずつ、泡を吹き始めているのが分かった。
「まさか! 魔瘴水!?」
「おお、さすが知識はおありだ。ご名答」
魔瘴水とは、かつて悪霊を召喚する際に用いたと言われる水のことである。
新鮮な血肉に混ぜ、特別な儀式を行うことにより、意図したとおりの悪霊を呼び起こすことができるという、現代では忘れ去られた禁断の術であった。
だがこの術は、対象の心を痛めつける必要がある。強い負の感情が、悪霊を誕生させる最後の決め手であった。悪辣な儀式の中でも、特に忌み嫌われた方法である。
シャムはこの儀式により、無惨な姿になった人々の話を何度も聞いている。自分が受けることになるとは、考えもしていなかった。
「さて、これは趣味ではないのですが、少々……痛い目に遭ってもらいましょうか」
「あんた、こんなことをしてタダで済むとでも思ってるの」
白髪の男は懐からナイフを取り出した。
「ははは! そういう脅し文句は、もう聞き飽きたかな。誰もが私を怖がらせようとする。でも、私には効果がないんです。なぜか分かりますか? ……私は今まで、一度だって恐怖を感じたことがないんです。この世に絶望した者は、人生に希望を見いだせなくなった者は、なんだって恐れずにできるんですよ。さあ、今からそれを証明してみせましょう」
男は初めて笑った。そして憎き相手の肌を切ろうとしたその時、なぜか手が止まる。
「いや……これでは面白くない……」




