第九話:第二層の『主』と、狂おしい胎動
Dランクの探索者たちを置き去りにしたまま、
三月は第二層のさらに奥、未踏の領域へと足を進めていた。
壁の青白い燐光すらも途絶え、
手元を照らすのは、自身の感覚の鋭さと、
時折、闇の中に光る不気味な怪物の瞳だけ。
普通の人間の探索者なら、恐怖で精神が狂いそうになるほどの深い闇。
しかし、今の三月にとっては、この静寂と暗黒こそが、
己の『飢え』を誰にも邪魔されずに満たせる、最高の食卓だった。
さっき蜘蛛の群れを喰らったことで進化した『俊敏(小)』の効果は、
歩を進めるたびに、確かな全能感として身体に馴染んでいく。
目にも留まらない速さ、というわけではない。
しかし、一歩を踏み出す際の足の回転、身を翻す速度、
何より、敵の気配を感じてからの「反応速度」が、昨日までとは比べ物にならないほど鋭くなっていた。
脳が避けるべき方向を認識した瞬間に、筋肉が寸分の遅れもなく追従する。
思い描いた通りの速度で、体が滑らかに、そして劇的に速く動くのだ。
岩の突起や濡れた地面を完璧に駆け抜け、
音もなく暗闇を疾走することができる。
(この速度なら、どんな攻撃が来ても体がすぐに反応してかわせる……)
衣服の上から纏った安物の革鎧。
その下にある彼女の素肌には、すでに『堅牢(小)』の力も宿っている。
劇的に跳ね上がった身のこなしの速さと、攻撃を通さない強靭な肉体。
最底辺だったはずの自分が、一歩ごとに人間を辞めていくような、
歪んだ高揚感が胸の奥でトクトクと脈打っていた。
その時、通路の天井から、ドサリと巨大な質量が降ってきた。
現れたのは、先ほどのアイアン・スパイダーを、
さらに二回りは巨大化させたような、圧倒的な体躯を持つ蜘蛛だった。
全身を覆う外殻は漆黒ではなく、血のように禍々しい赤。
複眼の数も多く、そこから放たれる殺意の波動は、
第二層の他の魔物とは一線を画していた。
「『ブラッド・マザー』……第二層の、主」
探索者協会の資料で読んだことがあった。
第二層の最深部、次の層へと続く境界線に稀に現れるという、
そのエリアの生態系の頂点に君臨するボス個体だ。
通常のDランクパーティが複数、万全の準備を整えて挑まなければ、
まず勝つことはできないとされる、凶悪な魔獣。
「キシャアアアアアアッ!!」
洞窟全体を震わせるような、凄まじい咆哮。
ブラッド・マザーの八本の脚が、一斉に岩肌を掻きむしり、
三月めがけて突進してくる。
その速度は、先ほどの蜘蛛たちとは比べ物にならない。
巨大な丸太のような脚が、鋭い槍となって上空から何度も突き落とされる。
ドス! ドス! ドス!
激しい衝撃とともに、三月の周囲の岩肌が爆散し、破片が飛び散る。
しかし、三月の肉体は、その猛攻を完全に置き去りにしていた。
「速い……けれど、私の体の方がもっと速く動く……!」
さっき獲得したばかりの『俊敏(小)』が、彼女の肉体に驚異的なキレをもたらす。
突き出される鋭利な脚の嵐を、
限界まで引き上げられた反応速度で、次々と紙一重で躱していく。
一歩の踏み込み、上体の反らし、すべての回避行動のスピードが圧倒的だった。
掠りさえしない。
怪物の怒りは頂点に達し、口から緑色の粘着質な糸を大量に吐き出してきた。
広範囲に広がる網。避けるスペースはない。
「だったら――」
三月は回避をやめ、正面から踏み込んだ。
右腕の『怪力(小)』を爆発させ、
腰に携えた『魔鉄の塊剣』を、下から上へと一気に振り上げる。
ズバァァァンッ!!
凄まじい風切り音とともに放たれた黒鉄の一撃は、
迫り来る粘着糸の塊を、その圧倒的な質量と風圧だけで強引に引き裂いた。
それどころか、勢いのままブラッド・マザーの顔面へと肉薄する。
怪物が驚愕に複眼を揺らした瞬間には、すでに遅かった。
三月は空中で素早く身を翻し、重い黒い剣を、
怪物の脳天めがけて、渾身の力で叩きつけた。
ドガアアアァァッ!!
硬質な外殻が激しくひび割れ、内側の肉が潰れる嫌な音が響く。
だが、さすがは第二層の主。
頭部を粉砕されかけながらも、その巨大な一本の脚を、
三月の脇腹めがけて、鋭く薙ぎ払ってきた。
ドォンッ!!
防ぐ間もなく、三月の身体が真横へと吹き飛ばされる。
激しく岩壁に激突し、凄まじい土煙が舞い上がった。
「……っ」
静まり返る暗闇。
普通の探索者なら、今の衝撃で肋骨がすべて砕け散り、
内臓を破裂させて即死していただころだ。
だが、土煙の中から、三月は平然と立ち上がった。
「痛い、けど……これだけ?」
すでに獲得していた『堅牢(小)』の肉体は、
第二層の主の全力の一撃すら、ただの「強い打撲」程度に減衰させていた。
安物の革鎧は無残に引き裂かれていたが、
その下にある彼女の白い肌には、微かな赤みが差しているだけだった。
自分の無敵に近い頑強さに、三月の唇が歓喜に歪む。
「私の勝ち、だね」
三月は地を蹴った。
さっき進化した『俊敏(小)』による、弾かれるような超高速の踏み込みで、
動揺するブラッド・マザーの懐へと一瞬で滑り込む。
そして、ひび割れた頭部の傷口に向けて、
黒い剣を、これでもかと深く、根元まで突き立てた。
「グガッ……、ギ、ギギ……」
怪物の巨体が、激しく痙攣し、やがて力を失って崩れ落ちる。
完全に動きが止まったその瞬間。
三月の理性を、あの狂おしいまでの『飢餓感』が完全にハイジャックした。
武器を引き抜き、怪物の巨体に両手を押し当てる。
視界は、どす黒いほどの真っ赤な捕食の色に染まっていた。
【固有スキル『魂喰い(ソウルイーター)』を発動します】
「あ、はあぁぁぁ……っ! あぁぁぁっ!!」
これまでとは、文字通り次元の違う『魂』が流れ込んできた。
第二層の生態系の頂点、その命の結晶。
あの圧倒的な突進力と速度を生み出していた、濃密なエネルギーの奔流が、
三月の両手を通じて、全身の細胞、血管、魔力へと注ぎ込まれていく。
脳髄が焼け付くような、凄まじい快感。
あまりの快楽に、三月の身体が弓なりに反り返る。
怪物の命を、その存在のすべてを、自分の肉体の血肉へと書き換えていく。
その万能感の前に、人間としての倫理や常識など、
塵芥のように吹き飛んで消えていった。
やがて、ブラッド・マザーの巨体は完全に灰色の塵となり、
光の粒子となって消滅した。
後に残されたのは、妖しく不気味に明滅する、真っ赤な大粒の魔石。
「はぁ……はぁ、はぁ、はぁ……!」
三月は地面に膝をつき、激しい呼吸を繰り返した。
全身から、湯気のような魔力の残滓が立ち上っている。
その足に力を込めると、爆発的な瞬発力と、
恐ろしいほどの身のこなしの速さが全身に満ち満ちていくのが分かった。
【第二層の主(ボス個体)の魂の捕食を完了しました】
【身体能力が爆発的に上昇します】
【スキル『俊敏(小)』が『俊敏(中)』へと進化しました】
【固有能力の適応により、肉体の『魔力許容量』が拡張されます】
頭の中に響く、冷徹な神の如き声。
さっき蜘蛛の群れから得て進化させたばかりの『俊敏(小)』が、
ボスの強大な魂を吸ったことで、早くも『中』の領域へと進化を果たした。
もはや、十層以降のスピード自慢の魔物とも、
その速度を上回る身のこなしで圧倒できるだけの領域。
三月は、地面に転がる赤い魔石を拾い上げた。
第二層の主のドロップ品。
これなら、換金すれば十数万円、あるいはそれ以上の価値になるかもしれない。
先日のオークの魔石で得た百三十万円と合わせれば、実家の当面の生活費や父の薬代、
そして弟の今後の学費すら、十分に余裕を持って賄うことができる。
少し前まで明日のご飯すら危ぶまれていた極貧生活からは、完全に脱却できたはずだ。
かつての三月なら、この赤い魔石を握りしめて嬉し泣きしていただろう。
だが、今の三月にとって、そんな現実的な数字はどうでもよかった。
お金がもたらす安心感など、今の彼女を支配する熱の前ではひどく些末なものだ。
「まだ……まだ足りない。もっと、もっと強いやつを……」
ぽつりと溢れた声は、もはや人間の少女のものではなかった。
第二層の主を喰らってもなお、彼女の奥底にある深淵は、
さらなる極上の魂を求めて、激しく、狂おしく脈打っている。
三月は赤い魔石をポケットに放り込むと、
ブラッド・マザーが守っていた、さらに奥の通路へと視線を向けた。
そこには、第三層へと続く、漆黒の巨大な縦穴が口を開けている。
人類の最高到達層、三十層。
その遥かなる深みを目指し、
最底辺だったはずの少女は、本物の『怪物』として、
静かに、しかし確実な足取りで、さらなる深淵へと降りていくのだった。
家族のための大義名分が果たされつつあるにも関わらず、魔石(お金)への興味を完全に失い、純粋な『魂への飢え』だけで迷宮の奥へ進んでいく三月。いよいよ次回は第三層への突入となります!
「面白くなってきた!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマークや**評価(↓の☆☆☆☆☆)**で応援をお願いいたします!
それでは、第十話でお会いしましょう!




