第88話:姉の背中と、迷宮の小さな綻び
第25層を突破した如月三月は、第26層『静寂の図書館』へと降り立っていた。
ここはかつての世界の記憶が、膨大な蔵書となって結晶化した空間。時折、古びたページをめくる音のような魔力の揺らぎが響く、奇妙な静寂に支配された階層だ。
「……今日は早めに切り上げようかな。お母さんが今夜はすき焼きだって言ってたし」
三月は手際よく『空間把握(中)』を展開し、最短ルートで第27層への道を探る。
その最中、彼女の端末に鉄山からメッセージが届いた。
『東雲の野郎が、拓也の様子で少し気にかかることがあると言ってる。店に来い』
同日、夕暮れ時。
如月家から少し離れた迷宮学研究室の入り口。
弟の拓也は、姉が持ち帰った「黒い金属片」をルーペで熱心に観察していた。それは第25層で姉が何気なく「道端に落ちてたから」と手渡した、ただの廃棄物の欠片だ。
「……おかしいな」
拓也は眉をひそめる。
彼が学んでいる迷宮学の教科書によれば、この階層で採取できる魔鉱石は、一定の魔力放射量を持つはずだ。しかし、この欠片からは、物理的な摩耗痕があるにも関わらず、魔力が「限りなくゼロに近い」レベルで定着している。
(まるで、超高密度の魔力を、意図的に極限まで希釈したような……)
そんなはずはない。自然界でそのような現象が起きるには、少なくとも神話級の加工技術が必要だ。
拓也は、姉が普段から「運が良かった」と言って持ち帰るアイテムに、違和感を覚え始めていた。
それは、偶然にしてはあまりに完成度が高すぎ、そして「迷宮の真実」に触れすぎているのだ。
「……拓也くん。あまり深追いしない方がいいよ」
背後から声をかけたのは、白衣を羽織った東雲だった。
東雲は拓也の表情を見て、冷や汗を流したい衝動を必死に抑え込む。
(危ない……。ここまで観察眼が鋭いとは。三月の『カモフラージュ』も、そろそろ限界か?)
「東雲先生。この石……本当にただの秋葉原層のゴミですか?」
拓也の真っ直ぐな視線に、東雲は眼鏡のブリッジを押し上げ、作り笑いを浮かべる。
「……ああ、そうだ。変異個体の影響で魔素が変質した、ただの粗悪品だよ。そんなものより、君にはもっと学ぶべき理論があるだろう?」
そう言って話題を逸らす東雲の背中に、拓也は静かな疑念の目を向ける。
姉を信頼している。だが、姉の周りで起きていること、そして姉が時折見せる「全く別の生き物のような眼差し」との間に、埋めようのない溝が生まれ始めていた。
その頃、裏路地の『黒鉄堂』。
三月は鉄山から、拓也の疑惑について報告を受けていた。
「嬢ちゃん、東雲も必死に隠蔽してるが、あの子(拓也)の直感は鋭いぜ。このままだと、近いうちに決定的な瞬間に立ち会っちまうかもしれねえ」
鉄山の言葉に、三月はコクリと頷く。
「……そうね。拓也に隠し事をするのは、私にとっても一番辛いことだわ」
三月の瞳に、深い憂いと冷徹な決意が入り混じる。
家族の平穏を守るためなら、協会を敵に回すことも厭わない。だが、弟の知的好奇心という「純粋な力」だけは、彼女にとっての唯一の弱点であり、同時に愛おしい守るべき対象でもあった。
「もしバレそうになったら……その時は、私がまた『日常』を演じ直すだけよ」
三月はそう言い残し、帰路へと就く。
彼女の背中を見送りながら、鉄山は静かにため息をついた。
弟の「疑惑」という小さな綻びが、いずれ如月家の平穏を揺るがす大きな亀裂にならないことを祈りながら。
三月は帰宅の途、星空を見上げる。
ダンジョンの深淵でどれほど恐ろしい怪物になろうとも、明日もまた、拓也の「お姉ちゃん」として食卓を囲む。
その覚悟が、彼女を誰よりも強く、そして誰よりも孤独な戦いへと駆り立てていた。
第88話をお読みいただきありがとうございます!
弟・拓也が姉の持ち帰る「遺物」の正体に疑問を持ち始めました。天才的な直感を持つ拓也と、必死に誤魔化す東雲。この絶妙な心理戦が、如月家の平穏に影を落とし始めています。
三月の冷徹な「支配者」としての顔と、姉としての葛藤。この二面性が物語の緊張感を高めていますね!
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