第80話:水没する旧世界、深海の大海竜と流体の支配
逆さまに虚空へ突き刺さる、かつての東京のシンボルであった巨大な電波塔の残骸。
その最下部――本来であれば展望台であったはずの場所に、青黒く渦を巻く転移の歪み(ポータル)が口を開けていた。
如月三月は、無重力の虚空を蹴ってその展望台へと静かに着地した。
第21層『浮遊廃都』の探索を開始して、わずか一時間あまり。新たなる理『空間把握(中)』の恩恵により、無数の死角から迫る防衛機構の群れをことごとく粉砕し、最短ルートで一切の迷いなくこの階層の終着点へと到達したのだ。
「中層までと違って、階層の主に相当するような存在はいなかったわね。機神兵の残骸がそれに近かったのかもしれないけれど」
三月はポータルの前で足を止め、軽く息を吐いた。
深層と呼ばれる領域は、もはや「ダンジョン」という枠組みを超え、狂った異世界そのものだ。このポータルの先に何が待っているのか、予測すらつかない。
だが、彼女に躊躇いはなかった。
(早く帰って、お母さんのご飯が食べたいわ。今日はたしか、ハンバーグだって言ってたし)
迷宮の最深部を攻略する規格外の探索者が、今一番気にしているのは「夕食の献立」だった。
三月は『漆黒のロングコート』の襟を正し、青黒いポータルの中へと一切の迷いなく足を踏み入れた。
転移の光が視界を覆い――次の瞬間、彼女を「圧倒的な質量」と「息苦しさ」が包み込んだ。
「……っ!?」
空気が、ない。
三月の全身に、万力で締め上げられるような凄まじい圧力が四方八方からのしかかる。
視界は完全な漆黒。だが、肌に触れる凍てつくような冷たさと、肺への酸素供給が絶たれたことで、彼女は自分が今「どこ」に放り出されたのかを即座に理解した。
水の中だ。
それも、生半可な深さではない。光の全く届かない、水圧で鉄骨すらひしゃげるほどの「深海」である。
(第22層は、完全な水没エリア……!)
普通の探索者であれば、転移した瞬間に水圧で内臓を破裂させられ、数秒で溺死する即死のトラップ階層。
さらに最悪なことに、今の三月にとってこの環境は「致命的な弱点」を突くものだった。
水という途切れることのない物理的な圧力。
もしここで『自動透過の理』が発動して肉体が魔力化すれば、水は三月の身体をすり抜けて「内側」へと入り込んでくる。そして実体化した瞬間、体内に侵入した水と水圧によって、彼女の肉体は内側から破裂してしまうだろう。
(透過は絶対にダメ。自滅するわ。なら……!)
三月はパニックになることなく、極めて冷静に脳内の魔力回路を操作した。
まずは『堅牢(中)』の出力を限界まで引き上げ、自身の肉体を分厚く強固な魔力被膜で覆い尽くす。それによって、外側から身体を押し潰そうとする致死的な水圧と極寒の冷気を完全にシャットアウトした。
次に、『重力操作(微)』を起動。
自身の周囲にある「水」に対して、強烈な重力の反発力(斥力)を全方位に向けて展開した。
ゴボァァァァッ!!
海中に凄まじい水流の渦が発生し、三月を中心に半径二メートルほどの海水が弾き飛ばされる。
水圧と重力の反発が拮抗し、深海にぽっかりと「球状の空気の空間」が生まれたのだ。
「……ふぅ。息が止まるかと思った」
三月はその重力球の中で、ようやく新鮮な空気を肺に吸い込んだ。
『精密魔力循環』が水中に溶け込んだごく微量の酸素や魔素を猛スピードで濾過し、球体の中を満たしていくため、長時間の滞在でも窒息の心配はない。
呼吸を整え、体勢を立て直した彼女は、『空間把握(中)』を展開して周囲の地形を確認した。
脳内に構築された3Dマップを見て、三月は再び驚愕することになる。
(ここも、街の残骸……)
水底に沈んでいたのは、第21層と同じく「東京の街並み」だった。
ただし、こちらは無重力で浮遊しているわけではない。ひび割れた高層ビル群や、沈没した巨大なタンカーの残骸、錆びついた首都高速道路の残骸が、深い海の底に乱雑に突き刺さって海底都市を形成しているのだ。
「……迷宮学の学者たちがこれを見たら、泡を吹いて倒れるでしょうね」
三月がそう呆れたように呟いた直後。
脳内のマップに、海底のビル群の陰から凄まじい速度で接近してくる「超巨大な熱源」が点灯した。
全長三十メートルは下らない、尋常ではない質量のバケモノ。
それは、水圧をものともせず、海底のビルを薙ぎ倒しながら三月の重力球へと真っ直ぐに突進してくる。
『深海の大海竜』。
硬質な青い鱗に覆われた巨大な海竜。その姿は、神話に登場する水竜と、深海を潜航する巨大な原子力潜水艦を融合させたかのような威容だった。
「グルルォォォォォォォッ!!」
海竜が咆哮を上げると、周囲の海水が震動で沸騰し、凄まじい衝撃波となって三月の重力球を押し潰そうと迫る。
普通の探索者なら鼓膜が破れ、気絶しているところだ。
「大きければ強いと思ってるの? 水中なら私が手出しできないとでも?」
三月は冷徹に笑い、背中のホルダーから相棒である『双極の魔刃・黒月』を抜き放った。
そして、あえて自らを守っていた「重力球の斥力」を、海竜の突進方向に向けて一気に解放したのだ。
ドバァァァァァンッ!!
圧縮されていた重力と水圧が反動で前方に弾け飛び、海竜の顔面へと水の巨大な大砲となって直撃する。
「ガァッ!?」
想定外の物理衝撃に、海竜の巨体が水中で大きく体勢を崩した。
その一瞬の隙を見逃す三月ではない。
彼女は自身の足元に『磁力操作(微)』で海底の鉄骨を引き寄せ、それを足場にして海竜の懐へと弾丸のように跳躍した。
(水中で『爆熱』を暴れさせれば、水蒸気爆発で私まで巻き込まれる。なら、凍らせて斬る!)
脳内の『多重並列処理』をコントロールし、『黒月』の刀身に『氷結の魔力回路(真)』の絶対零度のみを極限まで注ぎ込む。
漆黒の刀身に、蒼碧の血管が眩い光を放って脈打つ。
「大人しく、解体されなさい」
海竜の巨大な顎の下に潜り込んだ三月は、上段から渾身の力で『黒月』を振り抜いた。
『怪力(中)』の圧倒的な膂力と、刀身から放たれる絶対零度の斬撃。
ピキィィィィィィィンッッ!!
黒月が海竜の分厚く硬質な鱗を容易く両断した瞬間、傷口から直接流し込まれた『氷結(真)』の魔力が、三十メートルを超える巨体を内部から一瞬にして完全に凍結させた。
悲鳴を上げる間すらない。
深海の覇者は、海底に沈む巨大な氷の彫像と化して、その動きを永遠に止めた。
「……もろいわね。これなら、さっきの機神兵の方がまだ歯ごたえがあったわ」
三月は海竜の頭部へと着地し、その奥で微かに明滅している心臓へと左手を突き入れた。
分厚い氷を割り、肉の奥深くにアクセスする。
対象の生命力はすでに完全に沈黙している。安全圏からの絶対捕食。
固有スキル『魂喰い』。
海竜の巨大な魂と、深海を支配していた理が、圧倒的な奔流となって三月の体内へと流れ込んでくる。
(……冷たい水圧の記憶。それを捻じ伏せる、圧倒的な適応力)
三月は目を閉じ、『精密魔力循環』でその暴虐な魂を瞬時に自身の器へと調律・定着させた。
光が収まり、彼女の脳内に新たなスキルが刻み込まれる。
『流体操作(微)』の獲得。
水や血液など、形を持たない「流体」の圧力と流れを自在に操る理。
これまでは重力で無理やり水を退けていたが、この能力を使えば、水そのものに干渉し、自身の周囲だけを完全に乾燥した陸地のように変えることも、逆に水流を刃のように撃ち出すことも可能となる。
「……素晴らしいわ。これで、この階層は私にとってただの散歩道になった」
三月が指先を軽く振ると、彼女を包み込んでいた重力球がスッと消滅した。
代わりに、周囲の海水が三月の意思を汲み取ったかのように、彼女の身体から数十センチの距離を保って「自ら退いて」いく。
水圧も、冷気も、呼吸の苦しさも、もはや一切ない。
『重力』『磁力』そして『流体』。
三つの環境操作能力を手に入れた彼女は、いかなる極限環境においても自身の全力を叩き込める、完全無欠の殺戮者へとまた一歩近づいた。
「さあ、ハンバーグが冷めないうちに、さっさとこの水槽の底を抜けましょうか」
漆黒のコートを一切濡らすことなく、如月三月は深海の底に沈むビル群の奥深くへと、優雅な足取りで歩みを進めていった。
透過が使えないという絶体絶命の状況下でも、『重力操作』で空間を作り出し、冷静に敵を氷漬けにする三月の圧倒的な戦闘センスが光ります。さらに『流体操作』を獲得したことで、彼女の環境適応能力はもはや限界を知りません。
家族の待つ食卓のために深層を散歩感覚で踏破していく三月の無双劇。この展開を気に入っていただけましたら、ぜひブックマーク登録や、評価ボタンでの応援をよろしくお願いいたします! 皆様からの反応が、何よりの執筆の励みになります。次回の更新も楽しみにお待ちください!




