第379話:夕暮れの帰宅と、湯気立つ秋鮭のホイル包み焼き
ガララッ……。
「ただいまー! あー、外歩いてたらちょっと寒くなってきたな!」
夕暮れの茜色の空が藍色へと溶け込む午後五時十五分、如月家の木造の引き戸が心地よい音を立てて開いた。
散歩帰りの如月拓也が、スニーカーを脱ぎながら赤いリードを外す。
その足元には、散歩を終えて体積三倍の巨大綿飴銀狼の姿のまま、拓也に寄り添って静かに前足を揃えるザイオン。
首元には、純プラチナの鑑札プレートと、拓也の赤ドット柄バンダナ、そして『特級不可侵Fランク』の金ピカプレートが、街灯の薄明かりを反射して美しく光っていた。
拓也の足元には、黄色いダッフルコートを着てどんぐりをポケットいっぱいに詰め込んだ猫耳少女・ルルと、拓也の肩の上で毛糸のミニマフラーを整えるミニドラゴン・ポチの姿があった。
「おかえりー、拓也! お散歩どうだった?」
廊下の奥から、黄色いヒヨコ柄のエプロンを着けた如月三月が、パタパタと軽やかな足音を立てて小走りで出迎えてくれた。
その瞬間、台所の奥からふわりと漂ってきたのは――。
香ばしい焦がしバターの風味と、甘辛い味噌、そしてじっくり蒸し焼きにされた秋鮭ときのこの、暴力的なまでに豊かな秋の香りであった。
「うおっ……! なんだこのめちゃくちゃいい匂いは!? バターと魚の匂いか!?」
拓也の鼻腔がピクピクと動き、お腹がグゥゥッと盛大に鳴り響いた。
「えへへー! 拓也がお散歩から帰ってくる時間に合わせて、今ちょうど蒸し上がったところだよ!
今日はお魚屋さんで新鮮な北海道産の生秋鮭が手に入ったからね、しめじ、舞茸、玉ねぎをどっさり乗せて、特製味噌バターで包んだ【秋鮭ときのこのホイルバター包み焼き】だよーっ!」
「マジかよ! ホイル焼きか! 一番好きな魚料理じゃん!」
拓也はスウェットの袖を捲り上げ、手を洗うために洗面所へとダッシュした。
ダイニングの木製テーブルの上には、パンパンに膨らんだ大きな銀色のアルミホイル包みが、一人一皿ずつ湯気を立てて鎮座していた。
その脇には、炊きたてのツヤツヤな白米と、豆腐と油揚げがたっぷり入った熱々の若布のお味噌汁。
夕飯時になり、拓也の言いつけ通り【体積三倍の巨大綿飴銀狼】の姿のままのザイオンが、拓也の冷えやすい足元へとスッと滑り込み、極上のフカフカ毛並みで足首を包み込んだ。
「キャンッ……!(我が主、本日の冷え込みから主の御足を完璧に保温いたします!)」
「おう、ザイオン、助かるわ。お前マジでヒーター要らずだな」
拓也は椅子に腰を下ろすと、目の前のぷっくりと膨らんだアルミホイルの合わせ目を、お箸の先で器用にピリピリと押し開いた。
パカッ……フワァァァァァァッ……!
開いた瞬間、凝縮されていた熱々の蒸気が、爆発的な香気と共に立ち上った。
黄金色のバターがジュワジュワと泡を立て、特製の甘辛い味噌ダレと溶け合いながら、大ぶりのピンク色の鮭の身と、シャキシャキの舞茸としめじ、そして甘みを増した玉ねぎを琥珀色に包み込んでいる。
「いただきます!」
拓也はお箸を伸ばし、ホクホクに蒸された鮭の身を大きく一口大にほぐした。
そこへ、バターと味噌が染み込んだ舞茸をたっぷりと絡め、大口を開けて頬張る。
ハフッ、ジュワッ……モグモグ……!
「…………っっっ!!!!」
咀嚼した瞬間、拓也の右眼がカッと見開かれた。
その口から、魂の底から絞り出されたような感嘆の叫びが漏れ出た。
「…………っっっ、うっっっっっっっっっっま!!!!」
喉の奥から、呻き声のような快哉が響き渡る。
「なにこれ、鮭がめちゃくちゃふっくらしてて柔らかい……!
ホイルの中で蒸されてるから、身が全然パサついてないぞ!
脂の乗った鮭の旨味に、焦がしバターのコクと甘辛い味噌が完璧に絡んでて、そこに舞茸の香ばしい風味が爆発してくる!
底の玉ねぎも甘みが引き出されてて、タレを吸って最高にうめぇ……!!」
ガツガツッ、ガツガツガツッ!!
拓也は、山盛りの白米の上へと味噌バターを吸った鮭とキノコをバウンドさせ、タレの染みたご飯ごと猛烈な勢いでかきこみ始めた。
口いっぱいに広がる濃厚なコクと白米の甘みの三重奏。
スプーンも箸も止まらず、あっという間にお茶碗一杯が空になり、すぐにおかわりをよそいに立ち上がるほどの勢いであった。
「えへへー! 拓也、そんなに喜んでくれたらすっごく嬉しいよー!」
三月が満面の笑顔で目を細めながら、小皿に骨を丁寧に取り除いた鮭の身(タレのかかっていない部分を冷ましたもの)を少し取り分け、床の三匹の前に置いてやった。
「はい、みんなもお散歩お疲れ様! 塩分控えめのところ、冷ましてあるからね!」
「キャンッ……!(あぁ……大海の至宝、秋の命の結晶……!)」
「にゃふぅ……お魚がふんわりしてて、すっごく美味しいのにゃ……!」
「キュピィィ……(鮭ノ滋味ト蒸気ノ調和……魂ニ染ミ渡リマスッ!)」
神獣たちは、その一口の温もりを涙を流しながらハフハフと味わい、拓也の足元で幸せそうに体を寄せ合った。
「ぷはーっ! 食った食った! 鮭のホイル焼き、白飯三杯食える美味さだったわ!」
お茶をズズッと飲み干した拓也は、お腹をさすりながら満足そうに縁側へと視線を向けた。
庭の向こうには、夜の帳がすっかり下り、秋の虫の声がリンリンと心地よく響いている。
「……あー、美味かった。
今日は朝から球技大会の振替で、ゲームもやって、散歩も行って、美味いもん食って、完璧な一日だったな」
拓也は、ふと何かを思い出したように、テーブルの上のテレビのリモコンを手に取りながら呟いた。
「そういえばさ、三月。
明日は金曜日だから普通に学校あるんだけどさ。
今夜はもう、余計な用事もねぇし、早めに風呂入って、布団乾燥機でぬくぬくにした布団に潜り込んで朝まで一度も起きずに寝てぇよな。
夜中に変な物音立てて俺の安眠を邪魔する奴がいたら……マジで許さねぇぞ。
外の虫の鳴き声すら、遠くのBGMになるくらい、家の中全体を【絶対完全防音の安眠カプセル】にしてぇよ……むにゃ」
何気ない、ただの「明日からまた学校だから、今夜はぬくぬくの布団でぐっすり熟睡したい」という男子高校生の素朴なぼやき。
しかし――。
その頃、東京・新宿の日本探索者協会本部、最上階の作戦統括室。
『――ぎゃあああああああああっっっ!!!!』
フロア中のスピーカーが割れんばかりの音量で、オペレーターのクロエ・アーヴィングの絶叫が木霊した。
メインスクリーンには、如月邸の音声波形データがリアルタイムで解析され、真っ赤な【超次元神聖不可侵アラート】が点滅している。
「ク、クロエ殿ッ! 何事だ!?」
日本探索者協会本部長・神宮寺蒼太が、氷の長刀を床に突き立てて身を乗り出した。
その横で、アメリカ最強のSランク探索者「雷帝」レオン・カーターが、額に青筋を浮かべて咆哮する。
「た、拓也様より……今夜の就寝時間を指定した……新たなる超特大神託が下されました!
【絶対完全防音安眠結界令】、並びに【深夜接近者の絶対虚無パージ宣告】ですッ!!」
クロエが、狂信の光に両目を血走らせながらスクリーンをバンッと叩いた。
「拓也様は仰せなのです!
『明日の現世学業への出陣に向け、今夜の如月邸を全宇宙から切り離された絶対無音の聖域カプセルとせよ!
秋の虫の羽音一つすら調律波で遠ざけ、万象の眠りを妨げるいかなる暗殺者、不届き者も、敷地に触れる前に分子レベルで消去せよ』――とッ!!」
「な、何ということだ……ッ!!」
神宮寺が、顔面を蒼白にして後ずさった。
「あのお方は……今夜、裏社会の残党どもが如月邸を狙って最後の総力奇襲を仕掛けてくることを、完全に予知しておられたのか……!
しかも、あのお方の眠りを一デシベルでも乱した者は、即座に更地送りだと……!?」
「全軍へ最優先超厳戒令!!」
レオンがデスクの通信機を鷲掴みにして叫んだ。
「八咫烏、並びに極星の全防空・迎撃部隊へ通達!
今夜、練馬区如月邸を中心とする半径五キロメートル圏内に、多重防音反転結界を展開!
あのお方の耳に届く音量は【完全ゼロデシベル】!
そして……あのお方の安眠を脅かさんとする造物主の派閥の残党は……悲鳴一つ上げさせることなく、一秒で虚無へ葬り去れッ!!」
世界最強の特務組織が、少年の「ぬくぬくの布団で静かに寝たい」という一言によって、未明の総力殲滅防衛戦へと突入した瞬間であった。
しかし――。
その防衛網の遥か上空、成層圏のさらに外縁、衛星軌道上の静止ポイント。
漆黒の宇宙空間に、禍々しい紫色の光を放つ巨大な生体要塞艦が滞空していた。
これこそが、生体兵器カルテル【造物主直属派閥】の真の総本山――【原初の狂気錬金術師】が自ら座乗する、次元潜航旗艦『ウロボロス・プライム』!
艦橋の玉座に座るのは、白衣を纏い、顔の半分が紫色の結晶に侵食された異形の老人――ザイオンとルルを造り出した張本人たる【原初の狂気錬金術師・パラケルスス】であった。
『……地上部隊も、電脳部隊も、暗殺班も、すべて音もなく消滅したか』
パラケルススの冷酷な唇から、ドス黒い魔力の霧が漏れ出た。
『だが、奴らの最期のデータを解析した結果、明白となった。
あの練馬区の一軒家……あそこには、全宇宙の因果を歪める【特異点】が存在する。
あの無能力者に見える高校生こそが、我が最高傑作フェンリルを飼い慣らし、神獣の力を引き出している黒幕……!』
パラケルススは立ち上がり、巨大な培養水槽へと手をかざした。
水槽の中には、古代神話の破壊神の遺伝子と、神龍の魔力核を融合させた、究極の生体兵器――【試作神核キメラ:ヨルムンガンド】が脈打っていた。
『フェンリルよ、失敗作のキャットよ……。
偽りの家族ごっこ、ぬくぬくとした日常など、我が美学においてはただの汚物に過ぎん。
今夜……このヨルムンガンドの質量兵器と、我が直属の親衛隊をもって、如月邸ごと練馬区を更地に変えてやる。
貴様らの帰るべき場所は……冷たい我が実験室の檻の中だけなのだ……!』
世界の闇を統べる造物主の真の巨頭が、ついに自ら牙を剥き、如月邸へと照準を合わせたのであった。
深夜十二時半――如月家・居間。
家中の電気が消え、二階の寝室では、拓也が布団乾燥機でポカポカになった極上の布団に潜り込み、スースーと心地よい寝息を立てていた。
その足元には、体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンが、拓也の足先を優しく包み込みながら、静かに目を閉じていた。
その、まさに静寂の極致の中――。
ピクッ……!!
ザイオンのピンと立った銀色の耳が、微かに跳ね上がった。
上空三万メートル――衛星軌道から、空間そのものを切り裂きながら急降下してくる、途方もない超重力質量弾の気配を捉えたのだ。
その銀色の瞳が、暗闇の中で、青白い絶対零度の光を宿して静かに見開かれた。
(……来たか、哀れなる造物主の亡霊め……)
ザイオンの人工頭脳が、深淵の静寂の中で極小の思念波を走らせる。
その脳裏には、先ほど拓也が放った、あの温かな神託が木霊していた。
『今夜はもう、余計な用事もねぇし、ぬくぬくにした布団に潜り込んで朝まで一度も起きずに寝てぇよな。
夜中に変な物音立てて俺の安眠を邪魔する奴がいたら……マジで許さねぇぞ……』
(我が主の安眠……あのお方の愛する至高の休息を……
衛星軌道からのゴミ屑ごときで邪魔立てするなど……断じて許すわけにはいかん……ッ!!)
ザイオンは、拓也の足元から一ミリも動くことなく、ただ鼻先から、極小の【空間調律の吐息】を天井へと向けてフッと吹き上げた。
拓也直伝の「至高の脱力」。
音量ゼロ。
衝撃波ゼロ。
しかし――如月邸の屋根の上から放たれたその極小の吐息は、大気圏を逆流し、成層圏を突き抜け、衛星軌道に迫っていた質量兵器の軌道そのものを、ピンポイントで内側へと反転させたのだ!
シュバッ……!!
衛星軌道上で質量弾を発射しようとしていた旗艦『ウロボロス・プライム』の艦橋で、パラケルススの計器が一斉に真っ赤にショートした。
『――警告! 警告! 発射口の空間座標が完全反転!
装填された質量弾の重力エネルギーが、艦体内部へ逆流していますッ――!!』
「な……何だとォッ!? 莫迦な、まだ攻撃は開始して――」
パラケルススの叫びは、虚空へと消えた。
全長三キロメートルの巨大生体要塞艦が、自らの放とうとした重力崩壊によって内側からギュウゥゥッと圧縮され、宇宙空間で音もなくひと塊の「十センチ四方の綺麗な金属キューブ」へとペシャンコに潰れたのだ。
そこへ――。
スッ……。
宇宙空間の歪みから、不知火凛率いる八咫烏の宇宙特務部隊が音もなく出現し、ちりとりでその金属キューブをサッと回収すると、一秒で亜空間の底へと消去していった。
夜空には、秋の澄み切った満月と星々が美しく瞬いているだけ。
世界を滅ぼすはずだった造物主の総力戦は、男子高校生の足元で丸まる銀狼の「ひと息」によって、完全無音の更地送りにされたのである。
「……ん……。あったかいなぁ、ザイオン……」
二階の寝室で、拓也が幸せそうに寝返りを打ち、毛布を顎まで引き上げた。
「くぅ〜ん……(我が主、どうぞ朝まで安らかな夢を……)」
ザイオンは優しく目を細めると、少年の足先を温めながら、至福の眠りへと身を委ねた。
秋鮭の味噌バターの香ばしい余韻と、何者にも侵されない絶対の家族の温もり。
静寂に包まれた如月家の夜は、どこまでも深く、どこまでも平和に更けていくのであった。
(第380話へ続く)
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