第282話:林間学校の案内と、忠犬のサバイバル準備
七月も中旬に差し掛かり、教室の窓から聞こえる蝉の声がいよいよ本格的な夏の訪れを告げていた。
東京の閑静な住宅街にある中学校の二年B組。担任の鈴木先生が、少しだけ緊張した面持ち(三者面談のトラウマがまだ抜けきっていない)で、教壇から一枚のプリントを配り始めた。
「えー、お前たちも楽しみにしていると思うが……来週末から二泊三日で、恒例の『林間学校』を実施する。行き先は隣県の緑星山にある県立ロッジだ。班ごとにカレー作りや、オリエンテーリングを行うから、しっかり計画を立てるように」
その言葉を聞き、如月拓也は、配られたわら半紙のプリントを眺めながら静かに安堵の息を吐き出した。
(……林間学校。カレー作りに、安全な森の中を歩くオリエンテーリング。これぞまさに、俺が求めていた『普通の中学生の平和なイベント』だ。特異点での血で血を洗う死闘や、Sランク探索者たちの過剰な警護とは無縁の、ただのレクリエーション……!)
拓也は、自身が着ている鉄山厳特製の『二千円の無地パーカー(最強のステルス偽装装甲)』の胸元を撫で下ろした。
このパーカーで魔力ゼロの一般人を完璧に演じ切っている今、林間学校で目立つような真似をしなければ、彼の平穏な市役所職員への道はさらに盤石なものになるはずだ。
「よっしゃあ! 林間学校だぜ如月!」
隣の席の健太が、目を輝かせて身を乗り出してきた。
「俺、この間Fランクの探索者ライセンスを取ったばっかりだからな! カレー作りの時の薪割りは任せておけよ! Eランクの鉄剣でスパスパ割ってやるからよ!」
「ははは。ありがとう健太。でも、薪は最初から割ってあるやつがロッジに用意されてると思うよ。俺は打撃力『2』だから、野菜を洗う係くらいしかできないけどね」
拓也は、完璧な一般人の愛想笑いを浮かべて答えた。
その平和な会話の隣で。
拓也の護衛としてアメリカから派遣され、今や三月の手料理によって完全に調教された忠犬・クロエ・アーヴィングが、凄まじい眼光でプリントを睨みつけていた。
彼女のプラチナブロンドの髪が、微かな緊張感と共に揺れる。手元のノートには、日本語でびっしりと何やら物騒なメモが書き込まれていた。
「……アーヴィングさん? そんなに怖い顔して、どうしたの?」
拓也が小声で尋ねる。
「っ! た、拓也様!」
クロエはハッとして姿勢を正し、周囲に聞こえないように顔を近づけてきた。
「この『リンカン・ガッコウ』という野外サバイバル訓練……。非常に危険な任務とお見受けいたします。プリントの地図によれば、目的地である緑星山のふもとには、Cランク指定迷宮の入り口が存在していますわ……!」
「えっ? ああ、確かに山奥だから、小さな迷宮はあるかもしれないけど……」
「それに、この『オリエンテーリング』という項目。魔力探知を封じられた状態で、敵性領域の森をコンパス一つで踏破しろという意味ですね? さらに『カレー作り』……これは現地で魔獣を狩り、毒を自力で解毒して糧とせよという、極限状態での兵站確保の訓練……!」
クロエの青い瞳に、エージェントとしての冷酷な光が宿る。
「ご安心ください、拓也様。この忠犬クロエが、森に潜むCランク魔獣を全て事前に駆除し、極上の肉だけを解体してカレーの鍋に放り込んでみせますわ! 拓也様の口には、泥のついたジャガイモなど一欠片も入れさせません!!」
「いや、違うから! 林間学校は軍事訓練じゃないから! 普通にスーパーで買った豚肉とジャガイモを切って煮るだけだから!!」
拓也は、スパイとしての思考回路が全く抜けていない(むしろ三月の料理でステータスが跳ね上がったせいで好戦的になっている)美少女に向かって、必死にツッコミを入れた。
(……マズい。アーヴィングさんを俺と同じ班にしたら、絶対に森の中で魔獣の首を狩り始める。俺の平和なカレーが、血生臭いサバイバル飯になっちゃう……!)
拓也が頭を抱えていると、クロエは「三月お姉様にも、この重大な任務(林間学校)の件をご報告しなければ……」と、使命感に燃える顔で一人頷いていた。
その日の放課後。
拓也とクロエが連れ立って如月家へ帰宅すると、リビングでは三月が鼻歌を歌いながら、ミシンで何かを縫っていた。
「たーくやっ、クロエちゃん! おかえりなさい!」
淡いグリーンのワンピースを着た世界最強の主人公(姉)が、花が咲くような笑顔で二人を出迎える。
「お、お姉様ァッ! ただいま戻りましたァッ!」
クロエは、玄関に入るなり靴を脱ぎ捨て、三月の前にスライディング土下座のような勢いで平伏した。彼女の背後には、千切れるほど激しく振られる幻覚の犬の尻尾が見えるようだった。
「ふふっ、二人ともいい子だね。……あっ、拓也。机の上にあるプリント読んだよ! 来週から林間学校に行くんだね!」
三月が、ミシンの手を止めずに言う。
「うん。二泊三日で、緑星山の県立ロッジに泊まるんだ。ただの学校行事だから、心配しなくていいよ」
拓也は、姉がまた「過保護な暴走」を起こさないよう、あえて『ただの行事』であることを強調した。
しかし、三月の深緑色の瞳には、すでに底知れぬ懸念の光が宿っていた。
「でもねぇ、拓也。学校のカレー作りって、普通のスーパーの安い豚肉と、栄養の少ないお野菜しか使わないんでしょ? 拓也は今、市役所のお兄さんになるために毎日お勉強頑張ってるのに、そんな栄養スカスカのご飯じゃ、体がもたないよ!」
「いや、もつよ! 普通の中学生はみんなそれ食べて育ってるんだから!」
「それに、山の中ってことは、夜は冷えるかもしれないし。もし変な虫とか、迷宮から漏れ出したバケモノが拓也のテント……じゃなくて、ロッジの近くに出たらどうするの?」
三月が、心底心配そうな顔で小首を傾げる。
「おっしゃる通りです、お姉様ッ!!」
床に平伏していたクロエが、弾かれたように顔を上げた。
「拓也様の平穏は、私が命に代えてもお守りいたします! 当日は、私が森の生態系を更地にして、安全を確保いたしますわ!! そして、カレーの具材には……私が仕留めた最高の魔獣の肉を密かに混入させます!!」
「うんうん、クロエちゃん頼もしいね!」
三月が、クロエのプラチナブロンドの髪を優しく撫でる。
クロエは恍惚とした表情を浮かべ、「はふぅ……」とだらしない声を漏らした。
(……終わった。俺の平和な林間学校が、身内と狂犬のタッグによって完全に破壊される……)
拓也は、絶望のあまり視界が真っ暗になるのを感じた。
「でもね、クロエちゃん」
三月が、ふと真剣なトーンで告げた。
「クロエちゃんは拓也と同じ班の『生徒』として参加するんだから、あんまり抜け出して魔獣を狩ったりしてたら、先生に怪しまれちゃうでしょ?」
「あっ……! た、確かに……。私の隠密スキルなら教師の目は誤魔化せますが、調理の際に長時間離席するのは不自然ですわ……」
クロエがハッとして自身のミスに気づく。
「だからね、お姉ちゃんがいいものを準備しておいてあげたの!」
三月は、ミシンで縫っていた小さな小袋を掲げた。それは、可愛らしいウサギの刺繍が施された、手のひらサイズの巾着袋だった。
「じゃーん! 特製・お姉ちゃんの愛情スパイスだよ!」
「ス、スパイス……ですか?」
クロエが不思議そうに尋ねる。
「うん! カレーを作る時に、クロエちゃんがこっそりお鍋にこれを振り入れてね。中身はね、この間迷宮で拾ってきた『Aランク変異種の魔核』を、お姉ちゃんがすり鉢で粉々に砕いて、いろんな魔法ハーブと混ぜた特製の粉末なの! これを一つまみ入れるだけで、ただの豚肉カレーが、全身の魔力回路を強制活性化させる究極のスタミナカレーに早変わりするんだよ!」
「なっ……!?」
拓也の右眼が、巾着袋から漏れ出す尋常ではないエネルギー波長を捉え、激しく痙攣した。
Aランク変異種の魔核の粉末。
それはもはやスパイスではない。軍の特殊部隊が決死の突撃を行う直前に服用するような、致死性スレスレの最高級劇薬である。
そんなものを中学生のカレー鍋に投入すれば、食べた生徒全員が魔力暴走を起こして口から火を吹くか、最悪の場合、ロッジごと吹き飛ぶ。
「す、素晴らしいですわお姉様ァッ!!」
しかし、クロエの目は狂信的な輝きに満ちていた。
「それがあれば、拓也様は完璧な栄養を摂取でき、周囲の一般生徒たちにはバレずに済みます! さすがお姉様、計り知れぬ深謀遠慮……! このクロエ、必ずやカレー鍋への投下任務を遂行してみせます!!」
「うんっ! よろしくね、クロエちゃん!」
「ストップ!! 絶対にストップゥゥゥッ!!」
拓也は、胃痛など気にしている余裕もなく、全力で三月の持つ劇薬スパイスの巾着袋を奪い取ろうとした。
しかし、打撃力『2』の彼が、世界最強の腕力を持つ三月から物を奪えるはずもない。三月は「あはは、拓也ったら照れ屋さん!」と、軽く身をかわすだけであった。
「いい? アーヴィングさん! 絶対に、絶対に鍋に入れないでね!? クラス全員がバケモノになっちゃうから!!」
「ご安心ください拓也様! 拓也様のお皿にだけ、集中的に振りかけますわ!!」
「そういう問題じゃないんだよ!!」
夏の夕暮れ時。
如月家のリビングには、絶望する少年指揮官の叫び声と、世界最強の姉の楽しげな笑い声が響き渡っていた。
来週に迫った林間学校。
魔力を隠して市役所を目指す十四歳の平穏なレクリエーションは、Aランク魔核の特製スパイスと過剰な忠犬の同行により、早くも『生命の危機(物理的な暴走)』という暗雲に包まれていた。
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