第280話:忠犬スパイの過剰防衛と、フライパン粉砕クッキング
夏の蝉時雨が響き渡る、七月の朝。
如月拓也は、いつものように中学校へ向かう通学路を歩きながら、右眼の眼帯の下で静かに絶望的な溜め息を吐いていた。
彼が着ているのは、鉄山厳が開発した二千円の無地パーカー(最強のステルスと防御力を誇るナノマシン装甲)である。これさえあれば、市役所職員を目指すただの「ひ弱な中学生」としてのカモフラージュは完璧なはずだった。
しかし、現在の彼の周囲の状況は、およそ「一般人」のそれとはかけ離れていた。
(……右の電柱の影に一回、上の街路樹の枝に一回。……アーヴィングさん、いくらなんでもやりすぎだ)
拓也が歩を進めるたびに、周囲の木々や電柱の影から、プラチナブロンドの美しい髪がチラチラと見え隠れしている。
昨日、姉の三月が作った『クラーケン入り魔力弁当』を完食し、AランクからSランク級へと強制進化を果たしたアメリカの特務エージェント、クロエ・アーヴィングである。
彼女は今、レオンからの「影の護衛としてボスを守れ」という命令と、三月への「絶対服従」の誓いを胸に、拓也の登校を完璧にサポート(過剰防衛)していた。
「キャンッ!?」
拓也の数メートル先で吠えようとした野良犬が、木の上のクロエから放たれた『Sランク級の殺気(威圧)』を浴びて、泡を吹いて気絶する。
「チリンチリ――ヒッ!?」
猛スピードで角を曲がってきた新聞配達の自転車が、クロエが指先で弾いた小石によってタイヤをパンクさせられ、安全な方向へと横転していく。
(……俺の半径十メートル以内が、絶対に安全な無菌室みたいになってる。頼むから普通に横を歩いてくれ。逆に目立って仕方ない)
拓也は胃痛を堪えながら、街路樹の上に向かって小さく手招きをした。
シュタッ。
音もなく、クロエが拓也の目の前に降り立つ。
「おはようございます、拓也様! 本日も周辺のクリアリングは完璧ですわ! 拓也様の平穏な登校を阻む障害は、このクロエ・アーヴィングが全て排除いたします!」
クロエは、学校の制服姿のまま、軍人のような完璧な敬礼を決めた。
「アーヴィングさん、おはよう。……あのさ、俺はただの中学生なんだから、暗殺者から身を守るような護衛はいらないんだよ。普通に、クラスメイトとして一緒に歩こう?」
「なっ……! わ、私のような卑しい番犬が、拓也様と肩を並べて歩くなど、恐れ多くて……ッ! 三月お姉様にお叱りを受けてしまいます!」
(ねえさんはそういう細かい身分制度みたいなのは気にしないと思うけど……)
完全に「三月お姉様至上主義」の忠犬と化してしまった彼女の思考回路を修正するのは、容易なことではなさそうだった。
その日の三時間目。二年B組は、家庭科の調理実習の授業を迎えていた。
エプロンと三角巾を身につけた生徒たちが、班ごとに分かれて調理台を囲んでいる。本日のメニューは、中学生の調理実習の定番である「野菜炒め」と「スクランブルエッグ」である。
「よーし如月! 俺、キャベツ切るの得意だから任せとけ!」
同じ班になった健太が、意気揚々と包丁を握る。
「うん、頼むよ。じゃあ俺は卵を割るね」
拓也がボウルに卵を割り入れようとした、その時だった。
「お待ちください、拓也様ッ!!」
同じ班のクロエが、血相を変えて拓也の手を止めた。
「え? どうしたの、アーヴィングさん」
「その卵……! スーパーで特売になっていた、ただの一般の鶏の卵ですわ! そんな貧弱な食材を、拓也様の尊いお口に入れるわけにはまいりません!!」
クロエの頭の中には、昨日食べた「クラーケンのウィンナー」や「エルフ・キャベッジ」の記憶が鮮明に焼き付いている。彼女にとって、如月家の食卓に並ぶべき食材は、最低でもAランク魔獣の肉か、伝説級の魔法植物でなければならないのだ。
「いや、家庭科の授業の食材なんだから普通だよ。むしろ安全で美味しいよ」
「いいえ! 三月お姉様から、拓也様の健康と平穏をお守りするよう仰せつかっております! 私が、このありふれた卵を、魔力圧によって極上のエネルギー体に昇華させてみせますわ!」
クロエは、Sランク級に跳ね上がった魔力を両手に込め、卵を握りしめようとした。
(マズい!! 今の彼女の出力でそんなことをしたら、卵が爆発するどころか調理台が消し飛ぶ!!)
拓也の右眼が、数秒後の『大惨事(家庭科室の崩壊)』を完璧に予測する。
「アーヴィングさん、ストップ!!」
拓也が慌ててクロエの手を掴む。
「ひゃんッ!?」
拓也に手を握られたクロエは、顔を真っ赤にしてフリーズした。
「た、拓也様に……お手を触れられるなんて……! ああっ、でも、私にはフライパンを温めるという任務が……!」
パニックに陥ったクロエは、空いている方の手で、ガスコンロの上に置かれていた鉄製のフライパンの柄をギュッと握りしめた。
メキィィィッ……!!
彼女の、Sランク級に跳ね上がった無意識の『握力』が、分厚い鉄製のフライパンの柄を、まるで粘土のようにグシャッと握り潰してしまったのだ。
「…………え?」
健太が、ひしゃげたフライパンを見て目を丸くする。
「あ……あわわ……」
クロエは、自分のやってしまった過剰な破壊行為に気づき、青ざめた。これでは、拓也の平穏な学校生活を守るどころか、自分が一番のトラブルメーカーではないか。
(……ああ、やっぱり。急激なステータスの上昇に、彼女の体のコントロールが全く追いついてないんだ)
拓也は、握り潰されたフライパンを見つめながら、静かに胃薬の小瓶に手を伸ばした。
「クロエちゃん、力みすぎちゃ駄目だよー!」
その時、家庭科室の入り口から、底抜けに明るい声が響いた。
「えっ?」
拓也とクロエが振り返ると、そこには、淡いグリーンのワンピースに可愛らしいフリルのエプロンを着けた、絶世の美女――如月三月の姿があった。
「ねえさん!? なんで家庭科室にいるの!?」
拓也が悲鳴を上げる。
「ふふっ、今日はPTAのボランティアで、調理実習のお手伝いに来たの!」
三月は、ニコニコと笑いながら拓也たちの班へと歩み寄ってきた。
クラスの男子生徒たちは、突如現れた美しすぎる「如月の姉」に釘付けになり、家庭科教師も彼女の圧倒的なオーラ(と笑顔)に気圧されて完全に場の主導権を奪われている。
「お、お姉様ァッ!! 申し訳ございません、私が未熟なばかりに、フライパンを……!」
クロエが、半泣きになりながらひしゃげたフライパンを差し出す。
「うんうん、クロエちゃんは昨日急に強くなっちゃったから、まだ力の加減が難しいんだよね。お姉ちゃんが教えてあげる!」
三月は、クロエの手からひしゃげたフライパンを受け取った。
そして、両手で軽く、本当に「ティッシュペーパーのシワを伸ばす」ような何気ない動作で、フライパンの鉄をスッ、スッと撫でた。
グニャリ、ピタッ。
一切の魔力を伴わない、ただの純粋な物理的圧力の操作。
三月の手が撫でた部分から、鉄の分子構造が強制的に再配列され、握り潰されていたフライパンは、わずか数秒で『工場出荷時よりも美しい完璧な平らな状態』へと修復(物理)されたのである。
「…………」
健太とクロエ、そして拓也は、目の前で起きた「錬金術を物理で再現する」という規格外の現象に、ただ無言で立ち尽くした。
「はい、元通り! お料理はね、力を込めるんじゃなくて、優しく愛情を込めるのが一番美味しくなる秘訣なんだよ!」
三月が、極上の笑顔でフライパンをガスコンロに戻す。
「は、はいッ!! 私、お姉様のお言葉を胸に刻み、拓也様のために最高の野菜炒めを作りますわ!!」
クロエは、完全に三月の神業に心酔し、目を輝かせて包丁を握り直した。
「うん! みんなで美味しいご飯を作ろうね!」
三月が楽しそうに笑い、健太も「如月の姉ちゃん、すっげえマジックだな!」と能天気に笑っている。
(……ねえさんの物理的修復スキル、もはや魔法よりもタチが悪い気がする……)
拓也は、過保護すぎる忠犬と、規格外すぎる姉に囲まれた調理台で、ただ一人、市役所への遠い道のりを思い描きながら、無言で卵をボウルに割り続けるのであった。
彼の平穏な学校生活は、新たな護衛の加入により、ますます騒がしく、そして胃の痛い方向へと加速していく。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




