第124話:絶望の座標、第三十五層の怪物
新宿の地下に広がる世界で唯一の迷宮。
その第三層へ向かうべく、『黒鉄堂』の鍛冶場に設置された階層接続門の前に、拓也たちは立っていた。
「拓也。このポータルの行き先を、昨日お前たちが踏破した第二層のボスの広間(第三層への入り口)に設定してくれ」
鉄山が顎で円環をしゃくる。
拓也は「はい」と頷いて円環の表面に触れ、『深層言語・限定解析』を起動した。
青い光のコードが視界を埋め尽くし、空間を繋ぐ術式を読み解いていく。第二層の広間へ座標を合わせるのは、今の拓也にとっては造作もないことだった。
だが、その直後。
拓也の解析の瞳が、円環の奥底――鉄山が抽出した「姉・三月が使っていた空間跳躍の魔力残滓」の最も濃い部分に刻み込まれた、ある『絶対座標』を捉えてしまった。
「……嘘、だろ」
無意識に、拓也の口から震える声が漏れた。
「どうした、坊主。術式にバグでもあったか?」
風間蓮が怪訝そうに覗き込む。
「違います。……このポータルの基礎になった、姉ちゃんのテレポートの残滓。姉ちゃんがいつも、どこから跳躍して地上へ帰還していたのか。その一番色濃く残っている座標の数値が、見えたんです」
拓也は、血の気が引いた顔で、背後の神宮寺たちを振り返った。
「第三十五層、です」
その言葉が落ちた瞬間、鍛冶場の空気が完全に凍りついた。
常に不敵な笑みを浮かべていた風間の顔から表情が消え、瀬戸玲奈は小さく息を呑んで口元を覆った。
日本の最高峰のプロである神宮寺蒼太でさえ、その大盾を持つ手に力を行き場なく込め、ギリッと奥歯を噛み締める。
「……三十五層、だと。冗談だろう、拓也殿」
「……神宮寺さん。この国の探索者協会における、迷宮の『公式最高到達記録』は第何層なんですか?」
「三十層だ。結成されたばかりの頃の、国内屈指のトップパーティ十組が合同で編成した『百人編成の強襲部隊』が、文字通り血を流して到達した限界点だ」
神宮寺の言葉に、拓也は静かに頷く。
「ええ。しかも、その記録が樹立されたのは迷宮が出来た直後の『初期』ですよね。……当時の迷宮は、今よりも環境変動の幅が狭く、魔物の密度も低かった。当時の三十層と、今の三十層では、難易度が全く違います」
神宮寺は渋い顔で認めた。
「その通りだ。今の環境下では、二十層に到達するだけで国家的な英雄になれる。……それが現実だ」
拓也は、握り締めた短剣の感触を確かめながら、腐海の奥へと視線を向けた。
彼は、昨夜鉄山の工房でポータルの魔導回路を解析した際、姉・三月が使っていた空間跳躍の魔力残滓から、とんでもない数値を読み取っていた。
「……俺は、姉ちゃんのテレポートの残滓を解析しました。彼女が、迷宮のどの地点から跳躍してきていたのか。その一番色濃い『座標』が……」
拓也は呼吸を整え、意を決して告げた。
「第三十五層です」
「……何と言った?」
風間が動きを止め、瀬戸が息を呑む。
三十層が「国家規模の合同チームが死線を越えて到達した限界」であるならば、三十五層とは、人類が観測すらできていない「深淵の底」に他ならない。
「冗談だろ……? 三十層ですら、初期難易度ですら百人がかりの地獄だったんだ。今の魔力環境下で、第三十五層だなんて……」
風間が、信じられないものを見るような目で拓也を見つめた。
「俺も、最初は見間違いだと思いました。でも……俺の解析は、嘘をつかない。姉ちゃんは、そんな場所を、たった一人で主戦場にして蹂躙していたんです」
静寂が、鍛冶場に落ちた。
三月がFランクを装いながら、裏では誰も到達できない深淵の果てで、人類が知り得ない怪物たちと戦い続けていたという狂気。
「……姉ちゃんは、天才です。凡人の俺には、到底届かない別次元の怪物だ」
拓也は、自分の震える両手を見つめた。
姉がどれほどの苦労をして強くなったのか、その凄絶な道のりは知らない。だからこそ、拓也にとっての「如月三月」という存在は、生まれながらにして世界の理をねじ伏せる力を持った、絶対的な「神格」として映っていた。
「俺は、凡人です。だからこそ……天才の姉ちゃんが、何かの拍子で足元をすくわれるほどの深淵を、この程度の第三層で無双したくらいで追いついたなんて、口が裂けても言えない」
拓也は、唇から血が滲むほどに強く歯を食いしばった。
「俺は、もっと深く、もっと深く……。皆さんの力を借りて、迷宮の全てを暴き尽くします。……たとえ三十五層だろうが、そこにあるシステム(理)を俺が読み解き、皆さんの力を最大限に引き出して、必ず姉ちゃんの元へ辿り着く」
少年の、狂気にも似た執念。
その瞳に宿る青い光は、もはや迷いなど微塵も感じさせない、冷徹なまでの「指揮官」の輝きを放っていた。
「……恐ろしい姉弟だ」
神宮寺が、深い敬意を込めて拓也の肩に手を置いた。
「三十五層か。名を聞いただけで背筋が凍るような絶望だ。だがな、拓也殿。君がそこまで行くと決めたのなら、私たちの盾と矛は、何度限界を超えてでも君の指揮に応えよう。……君の頭脳と、私たちの命。全部賭ければ、その『天才』の足跡を追えない道理はない」
「違いねえ。三十五層のバケモノだろうがなんだろうが、お前が弱点をバラして俺に突かせりゃ、必ず死ぬ。そうだろ、指揮官殿?」
プロたちの絶対的な忠誠。
拓也は顔を上げ、瘴気を払い除ける光のドームを見つめた。
圧倒的な才能を持つ姉との、あまりにも絶望的な距離。だが、その距離を測ることができたからこそ、拓也の瞳に宿る『解析』の青い光は、いっそうの冷徹さと鋭さを増していた。
「……行きますよ。第三層を蹂躙して、さらに深くへ。……姉ちゃんの元へ、必ず」
少年と、日本最高峰のプロたち。
彼らの視線は、目の前の鍛冶場を通り越し、遥か地底深く――三十五層という絶望の底へと真っ直ぐに突き刺さっていた。
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