第十二話:戦いの名残と、帰るべき場所
砕け散ったクリスタル・マンティスの残骸が、光の粒子となって虚空へ消えていく。
後に残されたのは、薄暗い水晶の森の中で怪しく輝く、
一つの美しい透明な魔石だけだった。
三月はそれを拾い上げると、じっと見つめてからポケットへとしまい、
ふぅ、と深い溜息を吐き出した。
「……危なかった」
掌にMP(魔力)を集束させて『吸入の門』を作り出し、
自らの意志で『魂喰い』を発動させることには成功した。
しかし、流れ込んでくる圧倒的な快楽と狂気じみた飢餓感は、
やはり人間の理性を容易くすり潰そうとしてくる。
唇を強く噛み締めた痛みの残る感覚と、
脳裏に必死で焼き付けた家族の笑顔。
それらがあったからこそ、今、こうして「如月三月」としての自我を保っていられる。
新しく獲得したスキル『気配察知(微)』が、
脳内で周囲の状況をかすかに囁き、新しい感覚が馴染んでいくのが分かった。
しかし、緊張の糸が解けた瞬間、
三月は自分の身体に、強烈な違和感を覚えた。
「……あ」
見下ろすと、衣服は完全にボロボロだった。
第一層での激闘、第二層の主であるブラッド・マザーの猛攻。
それらによって支給品の安物の革鎧は完全に引き裂かれ、すでに迷宮に捨ててある。
残された衣服も、カマキリの鋭い鎌の風圧や、
飛び散った水晶の破片によってあちこちがズタズタに破れていた。
おまけに、返り血と土埃でドロドロに汚れている。
かろうじて隠すべきところは隠れているものの、
腹部や背中の白い素肌が、無防備に露出してしまっていた。
いくら『堅牢』の力で肌そのものが鋼鉄のように強靭になっているとはいえ、
この格好のまま探索を続けるのは、あまりにも不都合が多すぎる。
何より、この姿で万が一他の探索者に見られたら、別の意味で通報されかねない。
その時、ズボンのポケットの中で、スマートフォンが再び微かに震えた。
取り出して画面を見ると、先ほど救われた、
母親からの温かいメッセージがそこにあった。
『今日は三月の好きなハンバーグにして待ってるよ』
「……うん。一度、帰ろう」
ぽつりと、少女らしい柔らかな声が暗闇に響いた。
どれだけ強大な力を手に入れようと、どれだけ深くへ潜ろうと、
今の自分を人間に繋ぎ止めているのは、あの温かい家族の存在だ。
理性の鎖を錆びつかせないためにも、
そして、このボロ布のような衣服を着替えるためにも、
今は一度、あの光のある場所へ帰るべきだと本能が告げていた。
三月は重い『魔鉄の塊剣』を腰の鞘へと収めると、
未練なく踵を返し、第三層の水晶の森から地上へと続く長い道のりを戻り始めた。
――その日の夕方。
東京の喧騒を抜け、三月は実家のある古びたアパートへと辿り着いた。
ギィ、と建付けの悪いドアを開ける。
その瞬間、玄関まで香ばしいデミグラスソースの香りが漂ってきた。
「ただいまー……」
「あ、お姉ちゃんおかえり! ……って、うわあああ!? 何その格好!?」
リビングから出迎えた弟の拓也が、三月の凄まじい姿を見て飛び上がった。
衣服は破れ、肌が見え、泥と血の匂いが混ざっている。
奥のキッチンからは、エプロン姿の母親が血相を変えて飛んできた。
「三月!? 怪我はないの!? もぉ、無理はしないでって言ったのに……!
ほら、早くお風呂に入ってきなさい! 服は洗っておくから!」
「あはは……うん、大丈夫。服が破れただけだから。すぐお風呂入るね」
家族の騒がしいほどの心配の声を浴びながら、
三月はそそくさと洗面所へと向かった。
泥だらけの服を脱ぎ捨て、まずはトイレに入る。
便座から立ち上がると、実家の家計が潤ったことで最近新調されたばかりの、
ピカピカの自動洗浄トイレが、ジャーッと軽快な音を立てて勝手に便器を洗い流した。
(……本当に、帰ってきたんだな)
あの血と狂気、そして美しくも冷酷な水晶が立ち並ぶダンジョンの奥底とは、
完全に地続きとは思えないほどに平和な世界。
すべてが便利で、綺麗で、当たり前の優しさに満ちている。
浴室で温かいシャワーを浴び、泥と返り血を綺麗に洗い流す。
鏡に映った自分の身体には、傷一つ残っていなかった。
あんな危険な場所へ行き、恐ろしい怪物の魂を喰らってきたというのに、
その肌は以前よりも白く、滑らかにすら見える。
(私は、まだ人間だよね……)
自分に問いかけるように呟き、部屋着に着替えてリビングの扉を開けた。
「三月、ハンバーグが冷めちゃうぞ。早く座りなさい」
食卓の奥では、大病を患ってずっと塞ぎ込んでいた父親が、
少し顔色の良くなった様子で、嬉しそうにビールグラスを傾けていた。
テーブルの中央には、大皿に盛られた湯気立つ巨大なハンバーグ。
「わあ、美味しそう……! いただきます!」
箸でハンバーグを切り分けると、じゅわっと肉汁が溢れ出た。
口に運ぶ。
お肉の旨味と、母親特製の少し甘めのソースが、口いっぱいに広がっていく。
(美味しい……、本当に……)
怪物の魂を喰らった時の、あの脳髄を直接かき回されるような狂気的な快楽とは違う。
ただただ温かくて、胃袋の奥からじんわりと安心感が広がっていく、本当の「美味しさ」。
それは、冷え切りかけていた彼女の心を、芯から温めてくれるものだった。
「お姉ちゃん、次のお休み、僕の参考書買いに付き合ってよ。
駅前に大きい本屋ができたんだ」
「いいよ。その代わり、帰りにクレープ奢ってね」
「えー、お姉ちゃんオークの魔石で大金持ちになったのにケチだなあ」
「それとこれとは別。お姉ちゃんが命がけで稼いだお金なんだからね」
「分かってるよ。いつも、ありがとう」
拓也が少し照れくさそうに目を逸らしながら、ハンバーグを口に運ぶ。
そんな他愛のない会話、家族の笑顔、箸の進む音。
そのすべてが、三月の内側で今も低く唸りを上げている『怪物』の首に、
頑丈な理性の鎖を、一本、また一本と巻き付けていくのが分かった。
私は、人間だ。
この温かい場所を守るために、あの力を使うんだ。
化物に呑まれて、この笑顔を失うことだけは、絶対に有ってはならない。
家族の団欒の中で、三月は自分にそう、何度も何度も言い聞かせていた。
「お母さん、ハンバーグおかわりある?」
「あるわよ、たくさん食べなさい」
温かい日常の光を全身に浴びて、少女の心は満たされていく。
しかし、その瞳の奥には、理性を完全にコントロールした上で、
大切なものを守るためにさらなる力を求める、静かなる捕食者の光が灯っていた。
お母さんの特製ハンバーグや、新調した自動洗浄トイレ。この何気ない日常の暖かさこそが、三月が『魂喰い』の狂気に呑まれないための、最も強固な心の拠り所となっています。
大切な家族を守る決意を新たにし、人間としての理性を繋ぎ止めた三月。
次回、衣服や装備を新調し、彼女は再び第三層の深淵へと挑みます!
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや**評価(↓の☆☆☆☆☆)**で応援していただけると非常に励みになります!
それでは、第十三話でお会いしましょう!




