苦難の生活
水は氷のように冷たく、ひび割れた私の両手から容赦なく体温を奪っていく。
ひび割れた皮膚の隙間に入り込んだ泥や馬の糞の臭いは、何度石鹸を使っても完全に落ちることはない。私は硬い豚毛のブラシを強く握り直し、目の前にある豪奢な馬車の車輪を無心で擦り続けた。
私の名前はエララ。年齢は十二。この煤煙と黄金が混ざり合う街、ルークスで生まれ育ち、物心ついた頃からこうして馬車の清掃をしている。
ルークスは、巨大な炭鉱によって栄える一方で、一部の特権階級と圧倒的な数の貧困層が明確に分断された歪な街だ。王都や他国からやってくる貴族、あるいは莫大な富を築いた財閥の商人たちは、皆一様に立派な馬車に乗ってこの街を訪れる。彼らの乗る馬車は、黒檀や紫檀といった高級木材で作られ、窓枠には金箔が施され、座席には柔らかなベルベットが敷き詰められている。そんな煌びやかな箱を引くのは、美しく手入れされた純白の馬や、時にはこの世界特有の微かな魔力を帯びた大型の騎獣たちだ。
しかし、どれほど美しい馬車であっても、街道を数日も走れば泥や埃、獣の排泄物が跳ね返り、無残なほどに汚れてしまう。私の仕事は、彼らが街の高級宿で休息を取っている間に、その泥に塗れた馬車を元の輝きに戻すことだった。
「おい、そこ。車輪の裏側の泥がまだ落ちていないぞ。旦那様は少しの汚れも許さないお方だ。しっかり磨け」
宿の雇われ管理人である恰幅の良い男が、私を見下ろしながら冷たく言い放つ。私は反論することなく、ただ短く「はい」とだけ答え、再び冷水の中に手を突っ込んだ。
痛みを通り越して感覚が麻痺し始めた指先で、車輪のスポークの間にこびりついた頑固な泥を削り落としていく。十二歳の少女の細い腕では、この重労働は決して楽なものではない。全身の筋肉は常に悲鳴を上げ、夜になれば熱を持つ。だが、私は泣き言を言わない。泣き言を言ったところで、目の前の泥が消えてなくなるわけではないし、凍える手が温かくなるわけでもない。
私は自分が決して恵まれた環境にいないことを、冷酷なほど客観的に理解している。神様に祈れば救われるとか、いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるなどという、安っぽいお伽話の幻想を抱くには、私はあまりにも早く現実を知りすぎた。
「ふぅ……」
一つ息を吐き、ようやく一台の馬車を磨き終えた。乾いた布で水気を拭き取り、真鍮の飾りが鏡のように私の顔を映し出すのを確認する。そこには、栄養失調で頬がこけ、煤に塗れた薄汚い少女の顔があった。くすんだ灰色の髪は短く切り揃えられ、感情の読めない暗い瞳がこちらを見つめ返している。
「ご苦労様。見違えるように綺麗になったわね」
背後から、鈴を転がすような高く澄んだ声が聞こえた。振り返ると、日傘をさした貴族の令嬢が立っていた。上質な絹のドレスに身を包み、私とは住む世界が違うことを全身で証明しているような少女だった。おそらく年齢は私と同じか、一つ二つ上くらいだろう。
彼女の傍らに立つ従者が、無造作に銀貨を一枚、私の足元の水溜りの横に投げ落とした。
「これはお嬢様からのお心付けだ。拾うがいい」
「ありがとうございます。お嬢様」
私は泥水に膝をつき、深く頭を下げて銀貨を拾い上げた。これが、私が生きるための唯一の命綱である「チップ」だ。馬車清掃の正式な給料は、雇用主から直接、私の父親の手に渡るシステムになっている。その給料が私の口に入る食べ物に変わることは、ただの一度たりともない。だからこそ、こうして気まぐれな貴族や商人から直接もらえる小銭だけが、私が飢え死にしないための唯一の手段なのだ。
令嬢はふと何かを思い出したように、従者が持っていた鞄の中から分厚い皮表紙の束を取り出した。
「そうだわ。あなた、字は読める?」
「……はい。少しだけ」
「なら、これらをあげるわ。王都の学院で使っていた古い本なのだけれど、荷物になるだけで邪魔だったの。捨てるのも忍びないし、貧しい子への施しとしてあなたに譲るわ。暖炉の焚き付けにでも、売り払ってパンの足しにでも、好きにしなさい」
令嬢はそう言うと、三冊の重たい本を私に押し付けた。ずっしりとした重みが腕に伝わる。古びた羊皮紙と、インクの独特の匂い。私はその匂いを嗅いだ瞬間、冷え切っていた胸の奥に、ほんの少しだけ温かい火が灯るのを感じた。
「ありがとうございます……大切にします」
私が本を胸に抱きしめて再び頭を下げると、令嬢は満足そうに微笑み、従者と共に去っていった。彼女にとってはただの不用品の処分であり、自己満足の施しに過ぎない。だが、私にとってはこれ以上ないほどの宝物だった。
夕刻。街を照らす魔力灯にオレンジ色の光が灯り始める頃、私の長い一日が終わる。
重い足を引きずりながら、私は街の中心部から外縁部へと向かって歩き出した。石畳の美しい大通りから、次第に舗装されていない泥道へと変わり、立ち並ぶ建物も豪華な石造りから、隙間風の吹き込む傾いた木造長屋へと姿を変えていく。空気が重く、常に石炭の燃える匂いと、腐った生ゴミ、そして安酒の饐えた匂いが混ざり合った、貧民街の臭いが鼻を突く。
家へ近づくにつれ、私の心臓の鼓動は嫌でも速くなる。胃の奥が冷たく締め付けられ、足取りが鉛のように重くなる。
「――だから言っただろうが! この役立たずの雌豚が!!」
薄暗い路地の奥、私の「家」と呼ばれる粗末な小屋から、今日も獣のような怒号が響き渡ってきた。
父親の声だ。彼はこの街の地下深くで働く炭鉱夫だが、労働の過酷さを言い訳にして、稼いだ金のすべてを酒に注ぎ込む正真正銘のろくでなしだった。私の馬車清掃の給料も、彼の手から酒場の店主へと右から左へ流れていく。
「やめて、お願い……! それは明日のパンを買うための……!」
母親の悲痛な叫び声と共に、ガシャンと何かが砕け散る音がした。陶器の皿か、あるいは木の椅子か。続いて、鈍い打撃音と、うめき声。
私は家の少し手前にある物陰に身を隠し、膝を抱えてガタガタと震え始めた。耳を塞ぎたいのに、手が動かない。
助けに入らなければ。そう思う自分と、絶対に動いてはいけないと警告する自分の二つが、私の中で激しくせめぎ合う。
数年前――私がまだ八歳だった頃。今日と同じように、酒に酔って暴れる父親から母親を庇おうとしたことがあった。小さな体で父親の足にすがりつき、「お母さんを叩かないで」と泣き叫んだ。
その時、父親の目に映っていたのは愛する娘ではなく、自分の不満を邪魔するただの障害物でしかなかった。
巨大な拳が、容赦なく私の顔面を殴りつけた。視界が白く弾け、口の中に鉄の味が広がり、私は部屋の端まで吹き飛ばされた。壁に背中を打ち付け、息ができなくなり、折れた肋骨が内臓に突き刺さるような激痛が走った。這いつくばって咳き込む私の腹を、父親はさらに安全靴の硬い爪先で蹴り上げた。
『親に向かって生意気な口を利くんじゃねえ! お前もこの女も、俺が食わせてやってるんだぞ!』
その時の光景、痛み、酒の臭い、そして絶対的な暴力の前に自分がどれほど無力であるかという絶望が、私の魂に深く、消えないトラウマとして刻み込まれてしまった。それ以来、私は父親が暴れているのを見ると、体が石のように硬直し、声すら出せなくなってしまう。母親が殴られているのをただ見殺しにするだけの、卑怯で臆病な娘になってしまったのだ。
かつて、私はこの地獄から抜け出すために、一度だけ街の衛兵に助けを求めたことがあった。
雨の降る冷たい夜、裸足で泥水を跳ね上げながら衛兵所の扉を叩き、必死に惨状を訴えた。しかし、美しい銀色の鎧を着た彼らは、泥だらけの私を汚物でも見るような目で一瞥し、鼻で笑ったのだ。
『貧民窟の酔っ払いの喧嘩など、俺たちの管轄外だ。誰も殺されてないんだろう? なら家に帰って寝てろ、薄汚いガキが。ここはお前のようなドブネズミが来る場所じゃない』
蹴り飛ばされ、雨の降る冷たい石畳の上に転がったあの夜。私は完全に理解した。
この世界には、正義など存在しない。衛兵も、法律も、すべては金と権力を持つ者たちのために機能している。貧困層の人間は、ただ家畜のように搾取され、野垂れ死んでいくだけの存在なのだと。誰かに助けを求めても無駄だ。弱者は、自分自身の力で生き抜くか、黙って死を受け入れるしかないのだ。
家からの怒号が少しずつ収まり、やがて父親の高いびきが聞こえ始めた。暴力の嵐が過ぎ去ったのだ。母親はきっと、部屋の隅で腫れた顔を押さえながら、声を出さずに泣いているだろう。
私は重い足を引きずり、家には入らず、その裏手にある古い家畜小屋へと向かった。
そこが、私の本当の「居場所」だった。




