第二十一話
関宿城。
城主・千崎万助は、色白の顔に不気味な笑みを浮かべながら、畳に広げた房総半島の地図を覗き込んでいた。
安房の「天羽」の文字を赤く囲む指先は、微かに震えている。 それは期待か、焦燥か、あるいは長年胸に溜め込んだ怨念の昂ぶりか。
「……そろそろかなぁ」
呟きは甘く、しかし底に冷たい毒が混じっていた。
数日後、館山城。
「大殿、関宿城主・千崎万助殿の使者が参られました」
片倉の報告に、長経は軽く頷いた。
「千崎殿からってことは、あれだな」
胸の奥に、千助の面影がよぎる。
あの穏やかな笑顔。
「どうされますか」
「通してくれ」
使者が通され、深々と頭を下げる。
「長経様。我が殿・万助殿の御父上、千助様の三回忌が来月三日にございます。ぜひご参列いただきたく」
「もちろん。お誘い、ありがたく思います」
使者が帰ろうとしたところで、長経が声をかけた。
「ちょっと待ってくれ」
「はい?」
「片倉、手伝ってくれ」
長経は片倉を連れて納戸へ向かい、山積みの菓子箱を指差す。
「持てるだけ持て」
「えっ⁉」
「千助様には生前、とてつもなく世話になった。使者を手ぶらで帰すわけにはいかん」
長経の声には、千助への深い敬意が滲んでいた。
「……承知しました」
二人は大量の菓子箱を抱えて戻り、使者に差し出した。
「つまらぬものだが、ぜひ受け取ってほしい」
「い、いや……こんなに?」
「素手では持てまい。馬と大きな籠を貸す。それで持って帰ってくれ」
「はっ! ありがとうございます!」
「万助殿によろしく伝えてくれ」
使者は深く頭を下げ、館山城を後にした。
関宿城。
「殿、長経殿が三回忌に参られるとのこと。そしてこちらが長経様からのお土産です」
万助は使者から報告を受け、静かに頷いた。
その目は笑っているのに、奥底に黒い影が揺れている。
「そうか。ご苦労だったな」
万助は使者の手を優しく握りしめた。
「安房から遠かったろう。よく来てくれた」
「い、いえ。普段から高い給金をいただいておりますので、このような……」
万助は微笑み、言葉を遮った。
「これは儂からの感謝の気持ちぞ」
使者に金子を渡す手は妙に優しい。
だがその優しさは、どこか“作り物”のようだった。
「はっ……ありがたく頂戴いたします」
「それと、この長経殿からのお土産は家臣たちで分けよ」
「殿は召し上がらないのですか?」
「甘いものは太るからな。遠慮せず食べよ」
使者は廊下に出ると、懐に入れられた金子の額を見て目を見開いた。 再び万助の元へ戻る。
「殿、十万は……さすがに多すぎます!」
「多いかどうかは儂が決める。お前が立派に務めを果たしたからこそ、父が目をかけていた長経殿が三回忌に来てくれるのだ。これ以上の親孝行があるか?」
「……はっ! ありがたき幸せ!」
使者は涙を浮かべ、万助にひれ伏した。
使者が去ると
「父上……見ていてください。儂は必ず……」
万助は仏壇に向かって呟いた。
その声は震え、憎悪と愛情が入り混じっていた。
一か月後、館山城。
「よし、今から関宿城に行く。水道、一緒に来ないか?」
「えっ、いいんですか!」
「たまにはサシで旅行もいいだろ」
「嬉しいです!」
二人は馬を走らせ、関宿城へ向かった。
関宿城。
使者に案内され、長経と片倉は千助の仏壇が置かれた六畳の部屋に通された。
「殿が参りますので、しばしお待ちを」
その瞬間、四方の襖が一斉に開いた。 相手刀を構えた三十人ほどの男たちが雪崩れ込む。
片倉が小声で囁く。
「図られましたね」
長経は情けない声を上げた。
「えぇ~……なんですかぁ~? 何の目的があるんですかぁ~?」
兵たちの後ろから、万助が姿を現す。 その目は血走り、頬は紅潮し、呼吸は荒い。 まるで長年押し殺してきた感情が、今まさに溢れ出しているようだった。
「久しぶりだな、長経」
「万助殿、久しぶりなのに物騒な挨拶ですね」
「お前らを人質にして、安房をもらう」
万助の声は震えていた。
怒りか、興奮か、あるいは復讐の快感か。
「待ってくださいよ~! なんで安房が欲しいんですかぁ?」
「黙れ。抵抗するな」
片倉が耳打ちする。
「大殿、私が全員斬ります」
「無理だよ。お前の強さは知れ渡ってる」
「えっ」
長経は両手を上げ、あっさり言った。
「わかりました。安房差し上げます。差し上げます」
「大殿‼」
万助は驚いた。
「……すんなりだな」
「はい、抵抗するなと言われましたんで」
「お、おう……いい心がけだ」
「水道、すぐに経丸に伝えてくれ。安房を万助殿に譲ると」
「殿‼」
長経は片倉の手を握り、泣き顔で叫ぶ。
「頼む、すぐ行ってくれ! 儂、まだ死にたくないんだ‼」
「……承知しました」
片倉を館山城へ走らせた後、 万助は叫んだ。
片倉は城兵が開けた道を駆け抜け、館山城へ向かった。
「長経を縛れ!」
大柄な兵が二人、長経に迫る。 しかし長経は二人を軽く躱し、脇差を奪って首元に突きつけた。
その動きは静かで、無駄がなく、 まるで“死を覚悟した者の落ち着き”があった。
先ほどまでの情けない声とは別人のように、落ち着いた声で言う。
「万助殿。無駄な殺生はしたくない。話し合いましょう」
兵たちは抜け出そうとするが、長経の力に押さえつけられ動けない。
「……わかった。話し合いに応じる」
長経は二人を解放し、脇差を返した。
「ごめんね、少し痛かっただろう」
兵たちは動揺しながら受け取った。
「では、単刀直入に聞く。何が目的?」
万助は怒鳴り返す。
「お前の余裕そうな態度がムカつく! 予定を変える。全部話してやる!」
そして、長年胸に溜め込んだ怨念を吐き出すように叫んだ。
「目的は、お前への復讐だ‼」
万助の狂気は、言葉だけではなかった。
長経は真剣な顏で
「すまないが教えてくれ俺はいつお前の恨みを買った」
「よその子のくせに、父上はお前を見込んでいた‼」
「そんなこと……」
「死ぬ間際も言ってただろ! 万助を頼むって!」
万助の声は涙で震えていた。
「聞いてたけど、それで儂の方が見込まれてたってのは……」
「それだけじゃねぇ! 父上はお前といる時、よく笑っていた‼」
「いいじゃん、それは……えっ? それが原因で復讐?」
「まだある‼」
万助の目が狂気に染まる。
「お前は、儂が大好きだった美咲と結婚した‼」
「えぇぇぇぇ! 万助殿も美咲好きだったの⁉」
「父上も、初めて好きになった女も奪いやがった‼」
「だから儂の人生をめちゃくちゃにしてやると決めた!」
「父上が亡くなってすぐ、家臣に命じて美咲を毒殺した」
長経の表情が固まる。
「……は?」
「どうだ! 余裕なくなっただろ! 怒り狂えよ! そしたら殺してやる!」
万助は高笑いした。
長経は静かに問う。
「それは……事実なのか?」
「事実に決まってんだろ! 美咲は死んだじゃねぇか!」
「……お前が、殺したのか」
「そうだよ! お前が悲しんでるって聞いて最高の気分だった!」
万助は笑いながら涙を流していた。 その姿は、哀れで、狂っていて、そしてどこか子供のようだった。
「だが、お前は立ち直った。娘の経丸も立派に育ってると聞いた」
「だからまた潰す。今度は安房を奪う方法でな!」
「だがさっき思った。こいつは何度でも立ち上がる。だから今殺す!」
「者ども‼ 殺れ‼」
十人の屈強な兵が襲いかかるが、長経は一瞬で蹴散らした。
「安心せい。峰打ちじゃ。だが次は殺す」
若い兵たちは恐怖で震え上がる。
「行け! 行かねば殺すぞ‼」
長経は静かにその場に腰を下ろした。
若い兵たちは震え、誰一人として前に出られない。
「こんなところで若い命を散らす必要はない。お前たちには未来がある」
長経は彼らに向けて、まるで我が子に語りかけるような柔らかい声で言った。
その声音には怒りも恐れもなく、 ただ深い慈しみと、武士としての静かな誇りだけがあった。
長経はゆっくりと着物を脱ぎ、白い肌を露わにする。
その所作は乱れがなく、美しい。
腹に刃を当てると、ふっと微笑んだ。
そして、迷いのない動きで刃を引いた。
鮮血が畳に散る。
だがその姿は苦悶ではなく、どこか安らかだった。
武士が己の意志で死を選ぶときだけに宿る、 静かな気品がそこにはあった。
長経は最後の力で背筋を伸ばし、 まるで座したまま眠るように、ゆっくりと前へ倒れた。
「なっ……何が起こってる‼」
万助が駆け寄ると、長経はすでに息絶えていた。
万助は長経の頭を踏みつけ、叫ぶ。
「死んだか‼ やっと儂は貴様に勝ったんだ‼」
しかしその声は震え、 勝利の叫びというより、 “自分に言い聞かせるような悲鳴”だった。




