虎穴に入らずんば……?
東観漢記によれば班超は字仲升。扶風は平陵の人である、扶風は西漢の都であった長安から少し西に行ったあたりである。永平代(孝明皇帝の代)に竇固を大将として匈奴の討伐軍が興された。超は假司馬として伊吾を攻める際に別軍を率い蒲類海の戦いで多くの胡虜を斬り戦功を挙げた。固は超の働きを認め、従事の郭恂と與に西域の各國への使者の任を与えた。鄯善(楼蘭)王は彼らを礼を以て良く饗したが次第に懈けるようになってきた。どうも匈奴の使者もやってきていたようで彼らはどちらに付くか算した結果匈奴に傾き始めていたようだ。匈奴の使者は三十六人でやがて我らは殺されてしまうのではと超の部下は恐れ始めた。これに超は激怒し「虎穴を探らずば虎子を得ず(不探虎穴不得虎子)、今まさに計を起こし火をかけるぞ、己彼の多寡を胡虜は未だ知らない、必ず大いに震怖するはずだ、そうすれば鄯善國の魂胆を破り事を為し得るはずだ」と言って漢の衆を従えて奔り討ち入った。彼の目論見通り匈奴の使者たちを斬った。これに鄯善王は恐れを為して漢に臣従した。超はその後も西域で漢の版図を広げることに尽力し、彼の活躍がその後のシルクロード貿易の基礎となっている。
呂蒙字子明は寒門の出でありながら鄧當の配下として孫策に従いやがて将となりその身を為した。また後に呉主に諭されて勉学に励むようになり学問を修めた。江表傳によればそれを見た魯肅が「複た呉下の阿蒙に非ず」と驚いたという、蒙はそれに対して「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」と言った。後に彼は関羽を破り蜀に奪われていた荊州を奪還するという大功を挙げたが四十二で病に斃れてしまった、呉主がその死を哀しむこと甚だしかったという。さて、蒙が十五の時に姉の夫であった鄧當が賊の討伐に当たったのだが蒙は竊(窃)かに随行した、「そんなことしちゃあ……だめだろ」と當は叱り、「お母さんに報告させてもらうね」となった。母はこれを聞いて蒙を叱るのだが、これに蒙は反駁する。「貧賤な僕らは日々を暮らすことすら難しい、まかり間違ってでも戦功を挙げなければ富貴になんかなれないんだ。虎穴を探らずば虎子を得ずと言うだろう?(貧賤難可居脫誤有功富貴可致。且不探虎穴安得虎子?)」と言った。母は自分たちの境遇を哀しむ他なかった。他の傳を見るにママうえ様とは仲が良く孝行息子だったようだ、まぁ親子仲を察するのが呂子明のまともさと甘寧のキチガイ極まるエピソードであるのだが……。
おいおい、「虎穴に入らずんば」でしょうが。それおかしいだろ阿蒙。
と思った人が居るのではなかろうか。さて、何故今の日本人は「虎穴に入らずんば」と言っているのだろうか、それは後漢書では不入虎穴となっているからだ。東観漢記は後漢の歴史学者"たち"がちまちま書いていたもので一貫性が悪いなどの問題点があったためちゃんとした後漢書を作る試みがなされてきたが現代に広まっているものは(傳の部分は)范曄のものだ。傳の多くの部分を東観漢記を元としているが、傳の部分を書く際に范曄(南朝宋の人)が書き間違えたのか、それとも不入虎穴にしたほうが分かりやすくね?とそうしたのか、今となっては分からない。なんというかこれを思うと故事成語とかも適当に使っていいんじゃないですかね……




