答教
卒論発表会があって学生に想定される質問の答えが分からないものがあると言われて答教のようなものを作ることになった。「答教を作っても想定できない質問がくるのが常ではある」と戒めながらも作成してあげた。まぁ想定通りで学生が想定していない質問がくることになる、私が読むようにと渡した論文を読み込み、計算や実験の原理は網羅するようにと渡した教科書を通読していればどれも答えられるだろうが学生にはそれができなかった。私は卒論発表会では自身の研究に用いている手法の原理をよく理解できているかを試すような質問をすることが多い、そして質疑応答がしっかりしていない学生はダメだなとガタイで分析、もちろん研究が面白ければ研究の内容について尋ねるのだが……。
さて、答教とは三国演義において楊脩が曹植のために作ったカンペである。曹操に何かを聞かれたときにどう答えるべきかを記したものだが、曹操が曹植に軍事について問いかけた際にあまりに流暢だったのでカンペの存在はすぐにばれてしまった。なんともお粗末なのは創作の中のものであるからで後漢書の楊震傳や三國志陳思王植傳にはそのような記述はない、陳思王にとっての羽翼のように支えたとはあるが。ちなみに楊脩の父である楊彪のことを嫌っている魏の太祖は楊脩の処刑後に彼に会いに行って「瘦せたようだな」と厭味を言う。それに対して彪は「日磾のような先見の明がなかったことを愧じるのみ、猶老牛の舐犢の愛を懐かしむが如し」と答えた、これは先見の明の語源であるとされている。
ここで挙げられている金日磾字翁叔は匈奴の王太子で色々あって霍去病の猛攻を前に投降した。長八尺二寸、容貌甚嚴であったため男にも女にも全力投球していた漢孝武のオキニとなる。漢孝武は彼の二人の息子たちも弄兒としたが上の寵愛をいいことに狼藉を働くようになる、遂には長子が宮女に手を出したため日磾は自らの手で子を殺した。お気に入りの男を殺された漢孝武は一度は怒るがそれに対して日磾は彼らの罪状を述べてから謝罪する、漢孝武は子を殺さざるを得なくなった日磾を哀れみ泣いた、またその誠実な人柄を敬うようになったという。彪は金日磾の名を挙げているが日磾は結局子が暴れ回るのを止めることができず自分の手で殺してしまっている、先見の明があるのならば賈文和、徐公明、虎候らのように私的な付き合いを避けるべきと助言するべきだったのではなかろうか。ちなみに日磾を継いだ彼の子である賞とその弟である建は孝昭皇帝と年が近く、側仕えし臥起を共にしていたという、あっ(察し)。後漢末における彼の子孫は金旋と金禕だ、禕は楊脩の処刑の前年に太祖に対して反乱を起こし死んだ。日磾の名を挙げたのは彪としては多くの意味を含んでいるのだろう。




