金色の狐の絵
森の奥深く、〈森の神様〉の住処に通じる『獣の領域』。
村の人間はおろか、森の獣たちさえも踏み入れることをためらう聖域。その聖域を守るのは、金色に輝く美しい一匹の〈金色狐〉。
そんな静かな夜。『獣の領域』に人間の娘がたった一人で、足を踏み入れた。
〈金色狐〉は、『獣の領域』に足を踏み入れた人間は容赦なく噛み殺す。それが、森の掟。
〈金色狐〉は月を背に、娘に襲いかかる。迷い込んだ娘は〈金色狐〉に噛み殺されるはずだった。
「あなたはとても綺麗ですね」
娘の声が響く。娘の喉を噛み殺そうとしていた〈金色狐〉は娘の言葉に行動を止める。
自分を殺そうとしている相手を恐れることなく、綺麗だと褒める娘。それはまるで、あの時の。
・・・お前はとても綺麗だな・・・
かつて、『獣の領域』に迷い込んだ一人の絵師の言葉。自分を殺そうとしている相手を恐れることなく、綺麗だと褒めた男。
一度目は見逃し、二度目はないと告げたにも関わらず、『獣の領域』に足を踏み入れた絵師。
〈金色狐〉を描くために、何度も『獣の領域』に足を踏み入れて、見事に〈金色狐〉の絵を描いた絵師。
〈金色狐〉が愛した絵師の男と娘は同じ言葉を口にした。
「(………何が目的で我らの領域に?)」
〈金色狐〉は娘に尋ねる。
〈金色狐〉は、娘が何者か知らない。村の人間たちは、森の決まりをわかっているので森の奥深くの領域に足を踏み入れない。
もしかすると、絵師のように、旅の途中で道を間違えて、『獣の領域』に入ってしまったのかもしれない。そうなると、娘は旅人。つまりは、森の決まりを知らない余所者だ。それなら、絵師と同じように一度は見逃してやろう。
「わたくしは、兄様を探しています」
「(……あなたの兄が我らの領域にいると?)」
「森の奥深くには、美しい金色の化け狐が二匹いると村の人から聞きました」
顔を上げた娘の顔をはっきりとみた〈金色狐〉が息を飲む。
娘の顔立ちに絵師の面影が映る。何より、その眼差しが、自分が愛した絵師によく似ていた。
「わたくしの兄様は、美しいモノを描くことに自分の全てを捧げる絵師なのです。あなたを描きたいと望む絵師の男が、訪れませんでしたか?」
目の前の娘は、〈金色狐〉が愛した絵師の妹だった。
「(………こちらに来なさい)」
〈金色狐〉は絵師の妹をある場所へと案内する。絵師の妹は〈金色狐〉の後を追う。着いた先は、寂れた小屋。
「(入りなさい)」
〈金色狐〉は前足で器用に小屋の扉を開け、小屋の中に入っていく。絵師の妹は迷うことなく、〈金色狐〉に続く。しかし、小屋の中は真っ暗で何も見えない。
絵師の妹が暗闇に困惑していると、〈金色狐〉がフッと息を吹いた。〈金色狐〉が吹いた息が〈狐火〉になり、小屋の中を照らす。
そこには、一枚の絵が壁に飾られていた。
「この絵は……」
絵師の妹は息を飲む。
壁に飾られた絵には、凛々しくて美しい金色の毛並みの狐が描かれていた。
絵師の妹の目の前には、艶やかに美しい笑みの〈金色狐〉の絵と静かに佇む〈金色狐〉。
「綺麗」
目の前の二匹の〈金色狐〉に眼を奪われる。
「この絵は……兄様の絵」
幼きころから、兄の絵を見てきた絵師の妹は気がついた。
絵師の妹が考えた通りだった。兄は〈金色狐〉を描きに『獣の領域』に訪れた。そして見事に〈金色狐〉を描いたのだ。
「……わたくしの兄様は今、どこにいますか?」
絵師の妹は、期待と不安をこめて〈金色狐〉に尋ねた。
「(死んだわ)」
〈金色狐〉は、冷たく突き放すように絵師の妹に告げた。
〈金色狐〉の答えに、絵師の妹は目の前が真っ暗になる。膝から崩れ落ちた。
そんな絵師の妹の様子に、〈金色狐〉は自分自身を責める。自分が〈守り獣〉としての役目を優先していれば、絵師は死ななかった。〈金色狐〉は〈守り獣〉としての役目よりも、自分の想いを優先してしまった。
あの時、絵師の絵を見てみたいと思わなければよかった。そうすれば、絵師は死ななかった。
「(私が彼を殺した)」
だから、〈金色狐〉は絵師の妹に言った。絵師の妹が〈金色狐〉を睨みつける。
懐に護身用に隠し持っていた小刀を、絵師の妹は取り出す。
(……ようやく、私はあの人の元に逝くことができる)
〈金色狐〉は目を閉じる。
目の前で絵師が死んだ時、〈金色狐〉は絵師の後を追おうとした。だけど〈金色狐〉はできなかった。一つの未練があった。
〈金色狐〉が愛した絵師が精一杯に描いてくれた絵。共に過ごした記憶を、共に分かち合った想いを形とした絵。
絵師の描いた絵をそのままにできなかった。ただ『獣の領域』に朽ちさせたくなかった。誰にも知られず、誰の記憶にも残らずに忘れ去られてしまいたくなかった。
「(この小屋にあるモノはあなたの好きにして……大切にしてちょうだい)」
〈金色狐〉は、絵師の妹に絵を持っていくように頼んだ。仇が描かれた絵だが、絵師の書いた形見の絵だ。絵師の妹であるかの彼女なら、絵を乱暴に扱ったりはしないだろう。
〈金色狐〉をこの世に縛るモノはない。思い残すことは何もない。〈金色狐〉は絵を絵師の妹に託して、自分は絵師の元に逝こう。〈金色狐〉は絵師の妹に全てを任せた。
小刀を持つ絵師の妹の手が震える。
絵師の妹は兄を探す途中。他の旅人から、とある村で旅の絵師が『獣の領域』を守る〈金色狐〉に殺されたとの噂を聞いた。それを確かめるために、絵師の妹は〈金色狐〉がいる『獣の領域』を訪れた。
目の前にいる〈金色狐〉は自分が兄を殺したと口にした。
ならば、目の前にいる〈金色狐〉は兄の仇。それなのに、絵師の妹は、動くことができなかった。
目の前の〈金色狐〉はただ静かに、泣くことを耐えているように見える。どうして、〈金色狐〉はこんな表情をしているのだろうか。
絵師の妹は、兄が描いた〈金色狐〉の絵に視線を向ける。凛々しくて美しい金色の毛並みの狐が描かれている絵。
絵師の妹は幼いころから、兄の絵を見てきた。絵師の妹が知る限りの絵師である兄の最高ともいえる傑作だ。
兄はどんな想いで、この絵を、〈金色狐〉を描いたのだろうか。
(きっと、兄様は)
絵師の妹は小刀をしまう。
絵師の妹が聞いた噂、〈金色狐〉の言葉は真か偽りなのか、わからない。ただ、一つだけ、確かなことがある。
「…………兄様は最後にあなたの絵を描けたのですね」
絵師の妹は呟く。
・・・…すまない……最後にお前の絵を描けてよかった…ありがとうな……・・・
絵師の最後の言葉。
(……ああ)
絵師の妹の言葉が〈金色狐〉の心の決意を揺らす。この兄妹は同じことを言うのだろうか。
「あなたの領域に無断で入り込んで、申し訳ありませんでした」
絵師の妹は〈金色狐〉に頭を下げる。
〈金色狐〉が娘の行動に驚いている間に、絵師の妹は小屋から出て行こうとする。
「(待ちなさい。絵は持っていかないの?)」
〈金色狐〉は慌てて、絵師の妹を止める。絵師の妹は〈金色狐〉に振り返る。
「(絵は持って行ってちょうだい!)」
〈金色狐〉は慌てるあまりに早口になる。
絵師の妹が絵を持ってくれないと、〈金色狐〉は絵師の元に逝けない。
「兄様が描いた絵はここに置いていきます」
絵師の妹は〈金色狐〉の言葉に首を横に振る。
「兄様を愛してくれてありがとうございます」
絵師の妹は目元に涙を溜めながら、〈金色狐〉に優しく笑う。そして、絵師の妹は小屋から出て行った。
呆然と絵師の妹を見送った〈金色狐〉は小屋に残された絵を見る。誰にも知られずこのまま絵を残したくない。
「(……私はまだ、あなた元には行けないわ)」
まるで、絵師に生きろと言われているようだ。小屋に残された〈金色狐〉は、涙を流した。
「これで、いいのよね。兄様」
兄が最後に描いた絵を妹は持って帰ることはできなかった。だって、あの絵は、兄が愛しい女に贈った求婚の絵なのだから。
兄は頑固者で、自分が納得できるまで絵を描き続ける人だった。自分が美しいと認めるモノしか描かなかった
それと、もう一つ、兄には譲らないモノがあった。
・・・俺が初めて描く女は俺の惚れた女がいい・・・
恥ずかしそうに兄は笑いながら、よく言っていた。
兄は自分が美しいと認めるモノしか描かなかった。そして、兄は初めて描く女は、自分が愛する女を描きたいと願っていた。
〈金色狐〉の話を聞いて、〈金色狐〉を見て、妹は思った。
兄は、あの〈金色狐〉に一目惚れをしたのだ。
「とても美しい狐様でしたわ。兄様が惚れてしまうのは、仕方がないわ」
『獣の領域』から帰ってきた絵師の妹は慈愛の笑顔で語った。




