たまには昔話でも その3
潮の香りを含んだ風を浴びながら、相馬は目を細めた。
空を見上げれば青空が広がっており、視線を下に向ければ、そこにもまた同じような色が広がっている。
航海の真っ最中であった。
既に陸を発ってから三日が過ぎているため、周囲にあるのは水平線だけだ。
船は真っ直ぐに進んでいるように見えるものの、本当にそうなのかは相馬には分からない。
だがそこに不安を覚えることなく、悠々と景色を眺めているような余裕があるのだから、随分と慣れたものである。
まあ、一月以上もかかる船旅を何回も繰り返していれば当然かもしれないが。
早いもので、相馬がこの世界に来てから、十年もの月日が流れようとしていた。
最初に滞在していた街、というか国を出てからも四年近く経っているので、旅をするのにも慣れたものだ。
ただ、この世界に関しては、逆に慣れたとは感じなくなったような気がする。
それが気のせいでしかなかったということを、旅をしている間に何度も実感したからだ。
驚くようなことは今でも度々あり、きっと慣れることなどないのではないかと、最近ではそんなことすら思うようになっていた。
中でも最も驚いたのは、この世界には神というものが実在している、ということだろう。
物証があるとかそういうレベルではなく、文字通りの意味で神がそこら中にいるのだ。
……いや、さすがにそれは言いすぎたかもしれないが、それでも探せば割と簡単に見つかるというのは本当である。
神の起こす奇跡を目にしたのも、一度や二度ではない。
とはいえ、それでも信心深くなることがなかったのは、神にも色々なものがいるということを同時に知ったからだろうか。
日々の生活に困窮し悪事に手を染めることとなった神を見たし、人々の願いを聞きすぎるがあまり困ったことになっている神もいた。
外見、性格、善悪。
全ては神によって異なり、唯一共通していることがあるとすれば、神と呼ぶに相応しい力を使うことが出来たということだけだ。
しかしそういったことを知ると共に、相馬はとあることを確信するに至った。
自分は元の世界に帰ることは出来ない、ということである。
何せ彼らの言によれば、この世界には、世界を渡ることの出来るような力を持つ神はいないらしいのだ。
視るだけであったり、魂だけで転生するのであれば話は別らしいが、前者は勿論のこと後者も意味はない。
死んで戻ったところで、それがどうだというのか。
それに実際のところ、最初からあまり帰る気がしなかったというのもある。
元の世界に未練がなかったというわけではないが、それ以上にこの世界には魅力があったのだ。
或いは、旅に出ていなかったならば、まだ分からなかったが……何にせよ、帰れないというのならば、そうかと受け入れるだけであった。
ちなみに、あの街を出て以来、相馬は一箇所に一月以上留まっていたことはない。
それは単純に、旅をするのが楽しいからである。
勿論大変なことは沢山あるが、楽しさはそれ以上であった。
最初は多少の恐怖も覚えていた魔物との戦闘も、その一つだ。
新しい場所へと赴き、見たこともないような魔物と戦うのは本当に楽しかった。
一度痛い目を見てからは、きちんと事前に情報を集めるようにしたが、それでも魔物は時に予想もつかないようなことをしてくる。
だがそれを凌ぎ、倒せた時の喜びは格別だ。
何よりも、自分の剣の腕が上がっていることが実感出来るのがよかった。
やはり実践こそが、剣の腕を磨くには何よりも重要なのだ。
とはいえ当然のように毎日の素振りは続けている。
どれだけ疲れていたとしても、だ。
既に日課となっているそれは、やらなければ気分が済まないようなものとなっていたのである。
しかしそれでも、未だに相馬は誰かに剣を習ったことはない。
その機会がなかったから……というのは、きっと事実ではあるものの、建前でもあるのだろう。
何となく、最初の切欠となった彼ら以外から教わろうとは思えないのだ。
そしてそれは、二度と叶うことはない。
「……そういえば、あれからもう一年が経つのであるなぁ」
只者ではないと思っていた彼らが、剣聖とまで呼ばれる剣士とその一番弟子であることを知ったのは、旅に出てしばらく経ってからのことだ。
そのことに驚きはなく、むしろ納得と誇らしさのようなものを感じたのを覚えている。
何かを教わることはなくとも、もらえるものはあった。
全ての始まりであった彼らの剣戟と、木で出来た剣。
それだけと言ってしまえばそれだけではあるが、それは十分すぎるものでもあった。
「ま、それに……今はもう一つ増えたであるしな」
呟き、腰に視線を落とす。
視界に映るのは、木の剣ではなく、金属の光沢を持った剣だ。
旅に出てもずっと意地のように木の剣を使っていた相馬ではあるが、それは一年ほど前に砕けてしまっていた。
その代わりにと貰ったのが、これだ。
剣聖愛用の剣であり、形見の品でもあった。
彼の最後を看取ったのは、相馬だ。
とはいえそれは、ただの偶然である。
依頼を受けて向かった先で一番弟子と共に再会し、だがそこにはとある強大な力を持つものが存在していた。
悪魔などと呼ばれることもある、魔物とは一線を画す存在だ。
対するこちらは、三人。
相馬は足手まといにならないよう気を配るのが精一杯で、それは一番弟子も大差ないようであった。
相馬と彼の者との間に差がないのではなく、相手が強すぎたのである。
そんな相手に、剣聖は一歩も怯むことはなかった。
戦闘は互角のまま推移し……やがて、悪魔の身体が地に沈む。
しかしそれと同時に、剣聖もその場にくずおれた。
彼も彼で、ギリギリだったのだ。
相馬も一番弟子も身体中ボロボロとなっており……それでも相馬の方がマシだったのは、それこそ相馬が脅威とはならなかったからである。
悪魔が狙ってこなかったからこそ、無事だったのだ。
今にも死へと向かいそうな師の姿を、その場でうずくまったまま一番弟子は悔しそうに見ていた。
自分が役に立てなかったことと、何よりも傍で見届けることが出来ないからだろう。
相馬に誰かへと手を貸せるほどの余力は残っておらず、相馬もまた悔しさと申し訳なさを心に抱きつつ、剣聖の傍でジッとその時を待った。
出来ることは既になかった。
出来るのはただ、見送ることだけなのだ。
そんな相馬へと、剣聖は最後まで握ったままであった剣を差し出してきた。
まるであの時、木の剣を差し出したように、である。
反射的に受け取ってしまった相馬へと、剣聖は満足そうな笑みを浮かべ頷くと、そのまま息を引き取った。
最後まで、相馬に何かを言うことはなく。
その必要はないだろうと、そう言うかの如く。
剣聖の遺体はそのままそこに埋葬した。
何となくそれを望んでいるような気がすると、何とか動けるまでには回復した一番弟子と意見の一致がみられたからだ。
装備の一部だけは形見と亡くなった証として取り外したものの、その他はそのまま埋め、それが剣聖の最後であった。
当然と言うべきか、相馬は剣を返そうと思ったのだが、受け取ってはもらえなかった。
渡されたのはお前なんだから、受け取る資格があるのはお前だけだと言って。
重すぎると思うのならば、それもここへ埋めていけとも言われたが、少し悩んだ末に受け取ることにした。
この剣に相応しく、渡したことを後悔されることのないよう、剣の腕を今まで以上に磨くことを誓いながら。
一番弟子の彼女とは、そこで別れ、それ以来会ってはいない。
だがきっと今もまた、必死になって腕を磨き続けているのだろうとは思う。
剣聖の一番弟子として相応しいように。
今度こそ、後悔をしないためにも。
「……多分、いつかは剣を交える時が来るのであろうな」
最初はただ剣を使えればいいと思い、その後は漠然と剣の腕を磨くだけであった相馬だが、あれ以来しっかりとした目標が出来た。
剣聖に追いつく……どころではなく、そのさらに上を目指すこと。
剣の道を極め、頂へと辿り着くということだ。
やはり目指すのであれば、そのぐらいがちょうどいい。
しかしそれはきっと、向こうも同じだろう。
別れの時の目を見て、相馬はそんな確信を抱いている。
おそらくは、相手も同じはずだ。
だからこそ、いつかはどちらが上なのかを、決めなければならない。
「……楽しみであるな」
それは心からのものであった。
もしかしたら死ぬかもしれないし、殺してしまうかもしれない。
だがそれよりも、純粋に楽しみであった。
いつかあの剣聖の一番弟子であった者と戦うのが。
打ち倒し、剣の頂へと上っていくのが。
それを想像するだけで、自然と口の端が吊り上っていく。
「ふむ……となれば、こうして暢気に景色などを眺めている場合ではないであるな」
むしろ暇を持て余している今こそが絶好の鍛錬日和ではないかと、相馬はおもむろに剣を引き抜いた。
そのまま振り上げ……何となく、空を見上げる。
「……今日も見えんである、か」
その先にいるものを見据えるように目を細めるも、視界に映るのは一面の蒼だけだ。
そこに求めるものは見えない。
剣の頂へと辿り着く。
それは既に決定事項だが、どうやって確認するかということも、相馬は決めていた。
この世界には様々な存在がいる。
悪魔であったり、神であったり、龍であったり。
しかし中でも最強と呼ばれる存在は、一つだけだ。
それが、龍の神とも言われている存在である。
そんなものを倒すことが出来れば、きっと証明することが出来るだろう。
自分が、剣の頂へと辿り着けたということが。
とはいえ、それはまだまだ先の話ではあるが――
「いつか絶対に、辿り着いてみせるのである。だから、その時を楽しみに待っているといいのであるぞ」
そこにそれがいるかのように呟くと、視線を下ろし、そのまま腕も振り下ろしたのであった。




