たまには昔話でも その4
ふと、歩みを進めていた足を止めると、相馬は後ろを振り返った。
しかしそこにあったのは、だだっ広いだけの草原だ。
人影や魔物の姿どころか、他には文字通りに何もない。
草木と、道なき道だけが広がっていた。
そのことをこれまでの人生に例えようとするのは、ちょっと詩的にすぎるだろうか。
だが一瞬、そんなことを思ってしまったのは事実だ。
この世界に相馬がやってきてから、気が付けば二十年ほどが経っていた。
あっという間だったようにも、ひどくゆっくりだったようにも思える。
それでも一つだけ確かなことがあるとするならば、ようやくだと、そう思えるということだろう。
そしてそれは、とても贅沢なことだ。
おそらく、相馬は恵まれていた。
最も強くそう思えることは、最初にいた場所があの国だったということである。
旅を繰り返す中で知ったことなのだが、あそこはこの世界で例外的な場所だったのだ。
少なくとも、相馬がこれまで旅をしてきた中で、あれほど優しく穏やかな場所は他にはなかった。
だからきっとあそこは特別で……それをよかったと思う。
あそこで数年だけでも過ごせたことと……他があそこのようでなくてという、二重の意味で。
あのモラトリアムのような時間がなければ、多分相馬はこの世界の過酷さに耐えられなかった。
剣術にも出会えていなかったかもしれず、何があっても相馬がそれでもと足を進めることが出来たのは、あの間に基礎的なものを作り上げることが出来たからだ。
けれど他の場所も優しい場所であったら、きっと相馬はここまで来れてはいなかった。
適度に厳しく、辛かったからこそ、今があるのだ。
「ま、なればこその楽しさ、というものも沢山あったであるしな」
迷宮と呼ばれる場所にも行ったし、沢山の魔物や、時には龍とも戦うことすらあった。
その全ては貴重で大切な経験となり、この身に積もったことだろう。
それを一分の無駄もなく糧とし、剣の腕を磨いてきた。
必死に走って走って走りぬいて……気が付けば、追っていたはずの背は、視界に映っていない。
いつの間にか追い越し、置いてきてしまった。
ふと思い出すのは、その瞬間のことだ。
もう、三年は前になるか。
剣聖と呼ばれた師の後を継ぎ、自らも剣聖と呼ばれるにまで至った相手に打ち勝った時のことを、昨日のことのように覚えている。
達成感を覚えると、そう自分では思っていた。
だが床に膝を着いたその姿を見下ろした時に相馬が覚えたのは、飢餓感であった。
これではまだまだ足りていない。
道はもっと先に続いていると、そこに至ったからか、そんな確信を持っていた。
しかし、先達が到達出来たのは、そこまでだったのだ。
そこから先には自分一人で歩かねばならないのである。
彼らがそうしてきたように、今度は自分の番であった。
それはまるで、この草原のようだ。
誰も踏み入れたことのない場所を、その先に自分の求めるものがあると信じてひたすらに進んでいく。
焦りがなかったと言えば嘘になる。
とうに肉体の衰えは進んでおり、後はもう坂道を転がるように、落ちる一方だろう。
今はまだそれよりも剣の腕を磨く速度の方が上だが、限界が近いことは自分が一番よく分かっている。
だがだからこそ、ここに来たのだ。
出来る限りのことは全てやった。
今の自分が最高だと、胸を張って言える。
あとは――
「――それを証明するだけである」
呟き、歩みを再開した。
目の前には小高い丘が存在しており、先に何があるのかは見えない。
見えない、が……分からないとは言わなかった。
見るまでもなく、感じ取れているからだ。
そうして上った先には、また広大な土地が広がっていた。
だがそこには草木の一つも生えてはおらず、ただ荒れ果てた地だけがある。
まるで、それ以外の存在など不要だと言わんばかりに。
視線の先にあったのは、巨大な龍一つのみ。
何を言うでもなく、何をするでもなく、ただこちらをジッと見つめてきているだけだというのに、身体の震えが止まらなかった。
恐怖は、当然のようにある。
しかしそれは龍に対するものではない。
自分が目指す場所へと辿り着けていなかったらという、そういう類のものだ。
だがだからこそ、相馬は剣を引き抜いた。
結局のところ、出来ることなどそれしかないのだから。
龍も全てを理解しているかのように、ゆっくりと動き出した。
その瞳には嘲りも油断もなく……気のせいでなければ、少しだけ楽しそうでもある。
そこまでを考え、相馬も口の端をゆっくりと持ち上げていった。
そうだその通りだと、気付いたからである。
これは全てを確かめるための戦いであり、挑戦だ。
なればこそ、それを楽しめないでどうするというのか。
そこにまで思考が至った時には、相馬の顔にははっきりとした笑みが浮かんでおり……剣を引き抜いた腕を、だらりと下げる。
油断しているのでなければ、ふざけているのでもない、それこそが、我流の極みによって到達した、相馬の構えであった。
「さて……では、参るのである」
余計な言葉は必要なかった。
次の瞬間には相馬は地を蹴り、龍は空へと舞い上がる。
そして――
「ま、何だかんだあった末に、こうなっている、ということであるな」
随分と懐かしい話を終えたソーマは、そこで話の区切るをつけるようにして溜息を吐き出した。
思い出しながらであったため、所々曖昧であるものの、十年以上前の……異世界にやってきた頃を基準とするならば、主観時間で三十年以上前の出来事なのだ。
むしろよく覚えていた方だと言えるだろう。
だが――どうやら相手は不満があるようであった。
「その、何だかんだあった末、という部分こそが、最も気になるところなのですけれど?」
「そこはさすがに秘密なのである。当事者同士の秘密、というところであるな」
「そうですの……では、それに関しては諦めるしかなさそうですわね」
そう言ってその相手は……少女の形をした見知らぬ誰かは、本気で残念そうに息を吐き出した。
桃色の髪を揺らしながら、嘆くように頭を左右に振る。
「本当に残念ですわ……彼女の弱点の一つでも見つかれば、と思ったのですけれど。そういう意味でしたら、あなたがそうなのでしょうけれど……むしろあなたの方が強そうですものね。弱点足りえない弱点に意味などありませんわ」
「ふむ……それは残念だったであるな」
「ええ……心底残念ですの」
憂いを帯びたような息をそれが吐き出すのに、ソーマは意味ありげに頷きを返しながら……さて、と心の中だけで呟く。
どうしたものだろうか、と。
というか――
「ところで、一つお聞きしてもよろしいですの?」
「我輩に答えられることであれば構わんであるが?」
「ええ、それは大丈夫ですわ。むしろあなた様以外に答えられる方はいらっしゃいませんから」
「ふむ……そう言われれば心当たりがないとも言わんであるが……して?」
「はい。――わたくし、まだあなた様に名前すら申し上げてはいないのですけれど、不審者相手にこのような対応をしても問題ありませんの?」
その言葉に、ソーマは肩をすくめた。
まさにそれこそが、どうしたものかと思っていた理由であり、心当たりだったからだ。
とはいえ勿論のこと、無意味にソーマの過去話などを語って聞かせたわけではない。
「なに、問題はないのである。おそらくそれが最も汝が聞きたかったことであろうしな。どうせ後で話すことになるだろうと考え、面倒なことになる前に先に話しておいただけであるし」
「……それではまるで、わたくしが何者かを既に分かっていらっしゃるようですけれど?」
「ふむ……むしろ逆に聞きたいのであるが、何故聖女を前にしてそれと分からないと思ったのである?」
「……っ」
笑みを浮かべたまま、僅かに息を呑んだあたり、どうやら本気で気付かれていないと思っていたらしい。
随分と侮られたものである。
「……わたくし、何か失敗でもしてしまったですの? 悟られるような真似をした覚えはないのですけれど」
「そうであるな……敢えて言うのであれば、存在そのものであるか? というか、言ったはずであるが? 汝を前にして分からないわけがない、と」
「……そのままの意味でしたか。なるほど、確かにこれはわたくしが侮っていただけのようですわね。無礼を謝罪いたしますわ」
「いや、別にそこまで言われることではないのであるがな」
ちなみにソーマが口にしたことは本当のことである。
夜中に窓が僅かに開いたかと思えば、そこからこの少女のようなもの――聖女が部屋へと侵入してきて、それに気付きながらも何かをすることはなく、ばかりか昔話などを始めたのは、見た瞬間にそれと理解出来たからなのだ。
確かにソーマは聖女を見たことがない。
普段聖都にいてそこから滅多に出てこないと言われているのだから当然ではあるが、それでも幾つか話を聞いたことはあるし、ヒルデガルドからも情報を得ていた。
だから、見ただけでも何となく察する程度のことは出来たのである。
「……なるほど。理解したつもりではいましたけれど、本当につもりでしかなかったのですわね。重ねて謝罪いたしますわ」
「だからそういうのは必要ないのであるが……というか、実は我輩としてはそれよりも、別のことの方が気になっているのであるが?」
「あら……何ですの?」
「いや、その口調なのであるが……」
別に口調そのものに文句があるわけではなく、最初に耳にしたのと違う気がするのだ。
昔話を始める前にも幾つか言葉は交わしており、その時はこういう喋り方ではなく――
「あなた様相手にはその方がよろしいかと思ったのですけれど……不快でしたでしょうか? もしそうなのでしたら、今すぐおやめいたしますけれど」
「いや、不快というわけではないであるし、確かにその通りではあるのであるが……」
「そうでしたか……それでしたら、よかったですわ。そこも間違っていたとすれば、『瞳』の名折れですもの」
そう言って安堵したように息を吐き出すと、聖女は――聖都の主は、一度ソーマへと改めて瞳を向け、眺めた後で、スカートを摘むと軽く持ち上げた。
そのまま小さく一礼をし――
「では、そろそろ参りましょうか。時間に多少の余裕はありますけれど、そこまでのんびりとしていられるほどではありませんの」
「ふむ……ま、やはりそうなるであるか」
「察しが早いというのは、非常に助かりますわ。と言いますか、もしかして、最初から分かっていましたの?」
「ま、自分のことであるしな。この程度のことは分かるのである」
だからこそ、どうしたものかと思っていたのだが……やはりと言うべきか、どうしようもないようだ。
ならば、素直に諦めるしかないだろう。
さすがに聖都の主に喧嘩を売ったところで、いいことなど一つもあるまい。
「ええ、本当に助かりますわ。それでは、参りましょうか。最も新しき――様」
半ばからかいが混ざったようなその言葉に肩をすくめると、ソーマは歩き出したその背に続き、窓からその身を躍らせたのであった。




