蝦夷道中膝栗毛
ふう・・・と一息ついたのはいいものの、やはり後悔が鬼ごっこの鬼のようにしつこく襲ってくる。
蝦夷の広大な大地に車は必須。頭では理解していたが、徒歩での移動がこんなにも過酷なものだとは全く理解していなかった。
照りつける太陽は激しさを増し、北の大地とは思えない熱が発生している。剣士養成学校北支部で勃発した例の一件からまだ二日しか経っていない。タケルはたいした怪我を負うこともなかったので、二日経った今、出歩いているのだ。いや出歩いているというのとはちょっと違うかもしれない。今日から数日間はオフになった。本来ならば北支部の生徒達と稽古や試合をする予定だったが、北支部の武道場が半壊するなど設備的に問題が生じたので、休みになったのだ。関東の方に戻るという選択肢も出たが、やはり蝦夷の地で学ぶ方がいいとのことでこの数日の休みが実現した。
といっても休みの日にやることなんて剣術の稽古くらいしかない。しかし北支部が立ち入り禁止の状態になっているため、稽古をする場所すらない。もちろん周りに道場はあるが、タケルのように考えている生徒が続出し、北支部の周囲にある道場はやけに賑わっている。
その結果、タケルは少し遠出をしようと考えたのだった。
たった一人で蝦夷の地を踏み締め、どこまでも続く広大な景色に見蕩れながら歩く。
そういえば自分の出身は蝦夷だった。思い出したように言ったのは実感がないからだ。この広大な景色を肉眼で見たのは初めてだと思う。この美しささえも忘れてしまったのだろうか。
そんな風に考えていると見えてきたのは古びた一軒の平屋。周囲は田んぼや畑で囲まれている。
特別変なところはない。でも不思議と気になった。侘しさと謙虚さが同居したようなタケルが感じる初めての空間。歴史の遡り、過去にきたかのような感覚。それが錯覚なのは重々承知なのだが、そういう気がしたのだ。
人の気配は全くない。逆にひょこっと顔を出されたら驚くだろう。平屋の扉は見るからに立て付けが悪く、開くのが難しそうな感じがする。隣にある建物・・・おそらく物置だと思うが、長らく出入りされていないのか、扉の前に雑草が太陽に向かって一直線に生い茂っている。
「本当に誰もいないのかも・・・・・・」
タケルがそう呟いて引き返そうとしたところ、後ろから何用じゃ?と年配の男性の声が聞こえた。
驚きのあまり硬直するタケル。顔だけを後ろに向けると、そこには白い髭を立派に蓄えたおじいさんが立っていた。齢七十は軽く越えるような見た目だが、腰は全く曲がっていない。
「こ、こんにちは・・・・・・」
「挨拶はいい。ここに何しに来たんじゃ?」
ニコリともせず、目付き鋭くタケルを睨み付ける。まあでも当たり前の話かもしれない。このおじいさんにしたら自分は侵入者であり、不審者だ。厳しい対応をとられてもおかしくない。
「あ、はい。特に用があったわけじゃなくて・・・・すいません、はは。」
タケルは苦笑を浮かべながらゆっくりとその場を離れようとした。
「お主、剣術を心得ているな?」
「え?」
突然の言葉に驚きを隠せない。
今日は木刀を持って歩いているわけでもないのに、何故分かるのか。立ち振舞いだけでそう感じたのならこのおじいさんは只者ではない。おじいさんこそ何者なのか、タケルはそれが気になった。
「見れば分かる。死を恐れぬであろうその瞳を見ればな。」
老人はタケルを追い越していき、平屋の玄関を開ける。そして中からボロボロで今にも朽ち果てそうな木の棒を持ってきた。
「ほれ、これを持ってみろ。」
タケルは困惑しながらもその木棒を手にした。
「わしも剣を嗜んでおってな。昔はよくこうして剣を振るったものだ。ほれ、来てみい。」
剣というかただの木の棒だけどと思ったが、これは稽古をつけてやろうということなのだろうか。見ず知らずの相手にそこまでするのは何故なんだろう。
そんな疑問を覚えつつも、タケルは木の棒を拾い上げた。
不思議と手に馴染むような気がするなと思いながら老人の方に視線をやると、老人はもうすぐそこまで迫っていた。音もなく接近し、今まさにタケルに向かって木棒を振り抜こうとしている。タケルは咄嗟に防ごうとその木棒を迎え撃つ。しかしそれまで視認できていたはずの棒はまるで幻影だったかのように視界から消え失せた。何が起きたのかいまいち理解できぬまま、一秒にも満たない時間が過ぎる。すると突如として強い衝撃を腹部に感じた。押し出されるようにしてタケルは吹き飛んでいき、地面に叩きつけられた。なんとか受け身を取れたので大事には至らなかったが、痛みは相当なものだった。
「しっかりと受け身を取れるとは・・・・基礎はできているようだな。」
老人は少し感心したようにそう呟いた。タケルはそれを耳にしてもあまり嬉しくはなかった。痛みを堪えるのに必死だったのだ。それからしばらくして、ふうと一息つけるくらいには回復したタケルに老人はペットボトルに入った水を差し出した。
「どうじゃ、痛みは収まったかの?」
「あ、はい。ある程度は。」
「何が起こったのか分からなくて、びっくりしたか?まあ無理もないのぉ。剣術とはまた違うところから取り入れた技じゃからな。」
得物が瞬間的に視認できなくなり、気付いたときには攻撃が当たっていた。しかもその威力はただの木の棒とは思えなかった。金棒さえも越えるような鈍器で殴られたような感覚。タケルはそっとお腹に触れる。まだズキズキと腹筋が痛みを記憶しているよだ。
「剣術とは違うところって何ですか?」
「知りたいか?」
「はい、知りたいです。」
「まあ教えてやらんこともないが、その前にわしは少し腹が減った。お主もちょいと上がっていきなさい。」
「は、はあ、わかりました。お邪魔します。」
タケルはこんな風になるとは思っていなかった。ただ少し気になってこの平屋を観察していただけだったのだが、まさかお邪魔することになるとは・・・・
そしてこの老人が何者なのか一切分からない。聞くのも不思議と拒まれる雰囲気を纏っていた。
平屋はテレビや冷蔵庫などの電化製品が一切ない空間だった。木板が張り巡らされており、照明が天井から虚しい様子でぶら下がっている。タケルが想像していた以上に簡素な場所だ。嫌いではないし、苦手でもないが、不便さは感じないのだろうか。それに辺境の地というほどに街と離れているわけでもない。ここで暮らす意味は何なのだろう。
「こんなところで暮らす理由が知りたいか?」
「え!?」
タケルは素っ頓狂な声を出した。考えていることが暴かれて驚いた。
「ふむ、ここで暮らしているのは何故か・・・まあ簡単にいうと人混みが苦手なんじゃよ。息苦しさを感じてしまうんじゃ。」
ほっほっほと愉快そうに笑ってから老人は思い付いたように拳と手の平をぽんと叩く。
「そういえば名乗っていなかったのぉ。わしはゼンドウという者じゃ。まあ何もしとらん。ただの老いぼれじゃ、うむ。」
いや絶対に普通の老人なわけがない。普通の老人があんな技を繰り出せるわけがない・・・と思う。もしかしたら出来るかもしれないけど、可能性はかなり低いはず。
「僕は鶴来 タケルって言います。」
「ほほう、鶴来 タケルか。そうか、よろしくのぉ、タケル。」
ゼンドウは孫を見るような優しい空気を醸し出しながらタケルに向かって何度かゆっくりと頷きを見せた。
「うむ、ここに座ってくつろぎなさい。・・・・・・それであの技を教えてほしいんじゃったかな?」
「はい、一体どうやってあんな威力の技を?」
「ただの木の棒で叩いても、もちろんああはならん。何故あそこまで凄まじい威力になったのか・・・・・・それは武法の理を剣術に昇華させたからじゃ。」
「武法・・・聞いたことがあります。亜細亜帝国で生まれた古から続く武術ですよね?」
「うむ、そうじゃ。今の時代・・・武法はあらゆる国で用いられているが、剣術へと昇華させているのは欧州をはじめとした数国しかない。」
世界最強の軍事帝国である新欧州帝国は特にこの武法を採り入れた剣術を重要視し、国全体で武法剣術士の育成に励んでいる。
「もちろん大和でも使える者は多くいる。剣術士として上に行きたいのなら、これは使えなければ話にならんじゃろうな。」
「ゼンドウさん、僕にその技を教えてもらえないですか?」
「もちろんじゃ。お主はまだ若い。だが、剣術の基礎をよく理解している。武法も身に付けられるだろう。」
タケルはこの状況におかしさを感じつつ、自らの幸運に感謝した。
ゼンドウはタケルにカッチカチに固まったパンを手渡した。これを食べろということだろう。思い切り嚙み千切るとバキバキという食音とは思えない響きが聞こえた。向かいではタケルと同じようにゼンドウが一口でパンを食べきっていた。
よし、行くかと言ってゼンドウはそのまま外に出る。慌ててタケルもそれに続く。
さっきよりも幾分暑さは和らぎ、微かながらそよ風が吹いていた。
ーーーあれ?どっちから来たっけ?ーーー
見渡す限りの田畑の向こう側がどういう状況になっているのか分からない。それくらいの距離をタケルは歩いてきたということだろう。
「む、どうした?」
「あ、いえ、何でも。」
「ではさっそく・・・・・・」
ゼンドウは先程と同じように木の棒を手にして、タケルにもそれを渡した。
ただの棒切れなのに真剣と変わらぬ鋭い剣気を感じる。一方でタケルが持つ木の棒は何ら変わらない木の棒だ。何が違うのか、それはやはり持ち手の実力だろう。今から少しでもそれを学べることができれば、タケルはもっともっと強くなれると確信している。
ゼンドウが住まう平屋の裏側に小さな空き地がある。そこで稽古をつけてくれるようだ。ありがたいなと思いつつ、この場所がやはり少し変わった場所なのだとも感じ始めていた。
空に広がる雲がぐにゃぐにゃに曲がって、とても自然現象とは思えない形を要していたからだ。ゆっくりと動くのではなく、小刻みに震えるような動き方をしている。
「あ、あのゼンドウさん、ここってどこですか?」
タケルの問いにゼンドウは首を傾げる。質問の意図が分からないといった感じか。ただ彼の表情はどこか楽しんでいるような表情にも見えた。
「はて?どういうことかの?」
「空がなんか変ですし、こんなに何もないところじゃなかった気が・・・」
「ほほほ、まあ察するのは難しいことではないようじゃな。」
タケルは特別自分の勘が良いと思ってはいない。それでも異質な空間にいることは理解できた。そしてその疑問にゼンドウは正の解答を示す。ということで、ここはちょっと普通ではない場所らしい。
「ここがどこだか知りたいかの?」
「それはもちろんです。」
いまいちピンときていないのか、あまり驚きや焦りの感情は沸き上がってこない。現実離れしすぎているからかもしれない。
ゼンドウは楽しげに小さく笑った。
「わしが教えることをマスターしたら教えてやろう。閉じ込めてるわけじゃないからな?そこだけは勘違いするでないぞ?」
そういう発想はまるでなかった。そうか、確かに誤解されそうなやり方だ。そう思われるのもゼンドウは嫌みたいだ。
「マスターしてみせます!」
「うむ、では早速・・・」
精神統一をするように目を閉じて、集中を高めていく。
「タケルよ、木の棒を横にして、そのままの態勢を保つのじゃ。」
タケルはゼンドウに言われた通りの態勢を取った。するとゼンドウはすかさず横に構えられた木の棒に一撃を叩き込む。木の棒は見事なまでに綺麗な断面を見せて、折れた。
「どうじゃ?できるか?」
「やってみます。」
タケルはゼンドウから木の棒をもらい受けて、目を閉じ、集中する。
沈黙の時間が流れ、そこから一気に木の棒を振りかぶる。
同じように横にしていた棒にタケルの一撃が当たる。カアンと乾いた音が鳴るだけで何の変化もない。
ただ単に木の棒を振っただけ。ゼンドウのような高威力の一撃には全くならない。
「ほっほっほ、まあそうなるだろうな。これですぐ出来るようなら開いた口が塞がらんじゃろうな。」
これが当たり前だと宣言されると少しだけ悔しさが募る。同時に自分が凡人なのだと強く理解させられる。
「そこまで落ち込むこともないぞ?これが初見でできる者などそうそういないからな。最後にマスターできているかどうかが最も大切じゃよ。」
諭すように言葉をかけてくれるゼンドウに向かってタケルは頷きをひとつ返す。
「まずは身体的な動きの向上が必要かもしれんな。得物を捨てて、向かってこい。」
「素手でってことですか?」
「そうじゃ。来ないならこちらから行かせてもらうぞ。」
年老いているとは思えないスピードで瞬時にタケルの目の前まで移動したゼンドウは正拳をタケルの腹に叩き込んだ。
「っおお!!!」
足が地から離れ、車に轢かれたかのような衝撃がタケルを襲う。これは何度も持ちこたえることができるものではない。ただゼンドウは加減する様子はない。
タケルは思いきって駆け出した。小さな微笑みを浮かべたゼンドウは後ろで手を組んで、その場から一切動かない。
目を閉じる勢いでまったりとした顔。タケルの体術を全て避けきり、またも正拳を叩き込まれる。
「いたたたたた・・・・・・・・・」
一時間ほどの一方的な戦闘。いや、戦闘とも言えないくらいの暴撃だった。
ゼンドウは笑みを浮かべる。明らかにタケルの動きが俊敏になってきていたからだ。一時間前とは違う。慣れもあるだろうが、それ以上に才能があるのだろう。本人が気づいているかどうかは定かではないが。
最初は息遣いが荒々しく、そのせいで動きにブレが生じていたが、集中していくとそれすらなくなった。タケルもその感覚の違いに気付いた。
呼吸の流れと身体の動きが認識下で同化し、今までにない底知れぬ力を僅かだが感じることができた。ただこの奥底にある力をどうやって具現させればいいのかは分からない。吐き出す方法は・・・・・・
「ひたすら剣を振るうしかあるまい。そこから武法は見えてくるじゃろう。」
ゼンドウの言葉にタケルは深く頷いた。
手首が腫れてしまうくらい木の棒を振るう。それをただただ繰り返す。相手を想像するわけでもなく、無心でただひたすらに。
何かが変わったわけではないが、何かを変えようとしたその意思がタケルの力の蓋を僅かだが開いた。
木の棒を振った後の一閃の軌跡が目に見えるほど濃密に具現している。
空気を切り裂く高鳴りにそれを引き起こした本人も驚きを隠せない。
「これは驚いたな。こんなにも早く成果を出す者がおるとはな・・・・・・」
成果?ということは今のは武法のひとつの答えなのだろうか。いまいち実感が湧かないが、確かに今までとはまるで異なるひと振りだったのは間違いない。
「今のが武法を用いた剣術じゃ。まあ、まだ一歩踏み出した程度じゃろうがな。今なら何も持たなくても強い一撃を引き出すことができるじゃろう。」
ゼンドウはタケルに向かって駆け出した。
「わしの拳にお主の拳をぶつけてみぃ。」
何が何だか分からないが、とりあえずやってみるしかない。でもめちゃくちゃ恐い。下手をすれば拳が砕けて、片方の腕が使い物にならなくなるかもしれないのだから。
・・・・・・ただそんなことを考えていたら何も始まらない。
タケルは集中する。変わりたい、変えたいという意思を強く、さらに強く心に秘める。自分の腕がだんだんと熱くなっていくのが手に取るように分かった。その力の根源に不思議と懐かしさを抱きつつ、右腕を勢いを込めて突き出した。
拳と拳のぶつかり合い。力の混合と衝突が生じる。
「お見事。早いのぉ、マスターするのが。」
タケルは手の平を開いたり、閉じたりしてみた。痛みは全く感じなかった。
普通の拳ではゼンドウの打撃と張り合うなど到底不可能だったろう。自分はやはり武法の一端を捉えることができたらしい。
「そういえば、ここがどこかという質問じゃったな。ここはわしが数年掛けて造り出した空間じゃ。」
空間を造り出す・・・・・・そんなことができるのだろうか?あまりにも突飛なことを言うので、タケルは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「これもひとつの異能剣技じゃよ。」
「・・・あなたは一体何者なんですか?」
「ただのしがない老人じゃ。まあ少しだけ普通の老人よりも刀剣の扱いに長けているというだけじゃな。ほっほっほっ。」
こんな見たこともない大規模な異能を発動させられる人など限られている。もしかして剣聖の一人?
タケルはそこで深く後悔した。剣聖についてもっと学んでおくべきだった。優奈に教えられた記憶が少しあるだけで、あとの剣聖についての記憶はない。
「まあわしが誰でもよいのじゃ。お主のその新たな力は始まりに過ぎない。これからそれをどう使い、どう伸ばしていくかはお主次第じゃ。」
「はい、武法を完全にマスターしてみせます。」
「うむ、楽しみにしておるぞ。」
ゼンドウはにこりとタケルに笑いかける。
すると突然タケルの視界が砂嵐のようなものに覆われた。目の前にいたゼンドウの姿も、彼が住んでいる小屋も見えなくなった。この現象について思考を巡らす前にそれは収まる。
タケルはホッとしたが、目の前にゼンドウは居なかった。加えて小屋もないし、空の色も普段通りの青だった。
「・・・夢?いやそんなわけ・・・・・・」
異能剣技を解いたと考えれば良いのだろうか。そうだとしてもゼンドウがこの場にいないことの説明が付かない。
本当に夢なんじゃと思ったタケルであったが、ゼンドウに殴られたお腹の痛みが消えていないことで、現実だったんだとその痛みを堪えながらそう思った。




