◇不思議な体験
水辺に座り水面を見ている主人公。彼の不思議な体験が包み始める。
僕は池の縁にそのまま座り込み、ただ池を、微かに風で揺れる水面を見ていた……。
その日はたまたまなのか平日だったからなのかは分からないけれど、僕が来てからは誰も来なかった。まるで僕のために用意された場所のように思えて、水面を走る風や微かな揺らぎは、僕に癒やしを与えてくれていた。
昔のトラウマも洗い流してくれるような、陽が沈んで暗くなり、間接的に月や星の灯りが照らす不思議で神秘的な空間……僕はそのまま池の縁で膝を抱え、水面を見つめていた。
僕は、ふと水をすくった両手を見た。別に最近ケガをしていない両手を。もし『傷を癒やす』なら、傷を負っていない両手はどうなるのだろう。細かく見つめてみたけれど、どこにも変化は感じられなかった。
「ケガとかをしていなかったら、何も起きないのか……ん? なら、何で飲んだらダメなんだろう……」
僕は水面から池の中を覗き込んだ。生き物の気配がまったくない池。だけど、何の知識もない僕が水を見ても意味はないと思い、灯りが降り注ぐ穴を見上げた。月が穴の中央に来たとき、小さな音が聞こえた。
「え? 何だ……何か開いたような音? が聞こえた気が……いやいや、ゲームじゃないんだから。虫か、この池の奥にいるウサギとかの小動物だろうな」
僕はそう自分を納得させ、再び穴を見ていた。大きさとしては3メートルほどの穴を……。
「うわぁ、月があんな所まで昇ってる……へ? 待って待って、どれくらい時間が過ぎたんだよ……」
月明かりが漏れる穴を見ながら、時が流れるのが早いと感じつつも、僕はその場に立ち尽くしたまま夜空を見上げていた。ずっと……そう、動くことのなかった『月』を……。
「ちょ、へ? いやいや、少しも動いていない……月……星も……まさか……」
僕が足元に視線を落とした瞬間、周辺がいきなり明るくなり、外から鳥の鳴き声が聞こえてきた。思わず穴を覗き込むと、太陽が昇り始めているのか、空が微かに白み始めていた。
訳が分からなくなった僕が、首を横に振りつつ水面を見つめていると、また小さな音が聞こえた。今度は何故か、ゆっくりと閉まっていくような音だった。
「? 水の音? が消えたのかな……」
足元を見ても、風が優しく撫でる穏やかな水面があるだけだ。閉まる音と、生じるはずの水流に疑問を抱きながら、微かに音がした方へと歩を進めていくと、そこだけ人工的な石が建っていた。
僕は呆れつつも、その石を見つめた。
「……ほんとにゲームっぽくなってきた。この石に触れると『ガコンッ』って動くとか無いよな……?」
少し期待しながら石に触れてみたが、何も起こらなかった。押しても引いても動かない。回そうとしてもびくともしない。
「まぁ、それが普通だよな……だけど、回そうとしても動かないって、この下に大きな岩でもあるのかな。人工的な作り物に見えるけど……自然にできた形?」
不思議に思いながら石の隅々を観察していると、突然声が聞こえてきた。
「あれ? 昨日のお客さんですか?」
「え? あっ、運転手さんですか? えぇ、いつの間にか一晩ここにいました。ただ水面を見ていただけだったんですけどね。運転手さんは何か用でも?」
運転手は苦笑いを浮かべた。
「まぁ、用というか、私はここの近くの町に住んでまして……町の風習と言いますか、2ヶ月ほど池山の管理をすることが決められているんですよ。最近はやりたがらない人が多いですから、頻繁に順番が回ってくるんですけどね」
「管理ですか?」
僕は石を調べるのをやめて立ち上がり、運転手の横に並んだ。
「管理って、どういったことを?」
「そんなに大袈裟なことじゃないですよ。ただゴミが落ちてないかとか、奥に人が入ってないかとか、それくらいですよ」
運転手は奥を指さしながら言った。
「奥に何かあるんですか? 祀っている神様みたいなものでもあるんですか?」
「神様っていうか、何と言えば良いんだか……付いてきて」
運転手が歩き出し、僕を手招きするので、その後をついていく。やがて運転手が足を止め、ある一点を指さした。指された方向を見ても、そこには何も無かった。
「何もありませんよ?」
「そっ、何も無いんだ。もう何十年って当番で来てるけど、毎回来ても何もない。何もない方が良いらしいけど、何で良いのかは、まだ分からない。ほんと、迷信ってヤツで、最初から何も無かったのかもしれない。だけど、かつては“何かあった時”があったんだろうね」
運転手はやれやれと肩をすくめ、僕を見て「だけど、その方が安心する自分もいるんだけどね」と優しい笑みを浮かべた。
僕はもう一度、運転手が指さした方を見た。そこに一瞬だけ、『何か』が見えた。
何が見えたのかまでは分からなかったが、すぐに自分のゲーム脳による期待感が引き起こした目の錯覚だと思うことにして、運転手に疑問に思っていたことを聞いてみた。
「運転手さん。さっき、僕は水面を見ただけで一晩経ってたって言ったのに、特に大きな反応がなかったですね。この池山って何かあるんですか?」
「う~ん。確かに、驚きもしなかったね。実際、それが『普通』って思ってるからかもしれない」
運転手のそんな突拍子もない発言に、僕は動揺しながらも問い返す。
「ふ、普通ですか……な、何で普通って思うんです? おかしくないですか? 夜空を見てたと思ってたら、夜明けだったんですよ!?」
「何で?って……お客さん、伝承を聞いて生水にやってきたんでしょ? 伝承の中身を思い出して下さい」
「伝承って……確か、神様が人間の女性に恋心を抱いて、水を治癒の水に変えたという話ですよね? それと関係あるんですか?」
「いいえ、水は関係無いです。けど、『本当に病の神様がいなくなったのか?』って私達は思っているんですよ。単なる何事も無いことの確認でも……」
なんだか運転手の発言に微かな違和感を覚えながら、僕は口を開く。
「運転手さん、さっきと言ってることが少し違う気がするんですけど……さっきの発言だと『ここに来るのが面倒、なんで迷信まがいなことをやる必要がある?』って感じだったのに、今の口ぶりはそうじゃないですよね」
「迷信まがいな事は、信じてるんですよ。昨日もそう言いませんでしたか?『深く信じている』って。だけど、面倒くさいと感じるのも事実ですよ。年ですからね」
運転手は、柔らかい表情を崩すことなく返してきた。確かに、『迷信だと思うけど私達は深く信じている』と言っていたことを思い出して僕が頭を下げると、運転手は気にしないでと言うように小さく手を振った。
「どうしますか? 本当は昨晩、何処か宿泊場所を確保していたんじゃないですか? そこまでお送りしますよ」
「そ、そう言えば……何日間か生水にいようと思っていたから、ホテルを予約してたんだった……」
僕はポケットからスマホを取り出し、ホテルに電話をかけた。しかし「お客様のお掛けになった電話番号は……」というシステム音声が流れ、驚いて画面を見ると『圏外』になっていた。
「あっ、そうそう。この洞窟内は電波が届かないんですよ。あれだけ外が見えるのに不思議でしょ? 外に出ましょうか。外に出ると繋がりますから」
「そうなんですか……確かに結構大きな穴が開いてるのに繋がらないなんて、運転手さんが言ってる『病の神様』は本当にいるのかもしれませんね」
運転手は軽く笑みを浮かべて先を進む。僕は運転手の後をついて歩いていたが、次第に身体に重いきつさを感じ始めていた。
入って来た時とは違う風景が彼を包み込む。不思議な体験が何を意味するかはまだまだ明かされない。




