完璧な公爵令嬢
前世の私は、都内の東証一部上場企業で働く、いわゆる「仕事一筋の独身貴族」だった。
五十代半ば、年収はそれなり。無能な部下の尻拭いと、上司の理不尽な要求を、研ぎ澄まされた「営業スマイル」と「完璧なタスク管理」で全て捌き切る毎日。恋愛? 結婚? 冗談ではない。なぜ己の貴重な時間と金と労力を、得体の知れない他人のために投資しなければならないのか。休日はマンションの自室で、誰とも口を利かずに猫を愛でつつ、サブスクのドラマを見ながら高いワインを飲み、ひたすらに一人で完結する趣味に没頭する。それが私の至上の幸福であり、完成された人生の形だった。
だというのに。
私のその完璧な人生は、他でもない「他者」の悪意と、現代社会が生み出した歪な構造物によって、あっけなく幕を閉じたのである。
残業明けの金曜日、終電間際の駅のホーム。
疲労で足取りが重かった私は、列車の到着を待ちながら、ベンチの近くに立っていた。人混みの駅。向こうからやってきた、いかにも「俺を避けろ」と肩で風を切る男。
避けようとしたが、気付いた時に間に合わなかった
ドン、と重い衝撃が走る。
「……っ!」
避けなかった私が悪いのか。それとも、私が女だから標的にされたのか。
ビジネス用の、ヒールの高いパンプスを履いていた私は、見事に体勢を崩した。
あろうことか、私の後頭部はその仕切りの角に、ピンポイントで、かつ全体重を乗せた凄まじい速度で激突した。
ゴシャッ、という、自分の頭蓋骨から到底鳴ったとは思えない鈍い音が響いた。
視界が真っ赤に染まり、次いでブラックアウトする。
薄れゆく意識の中で、私は激しい怒りと共にこう思った。
(……嘘。こんな、謎のオブジェクトで、私がこの世から排除されるの?)
誰も座らせないために、あえて尖り、あえて傾斜をつけられた、冷たい石の造形物。
ぶつかり男は振り返りもしなかった。
意識が消える間際、私が最後に思った。
(…… どうせ防犯カメラがある。あいつは捕まる。はぁ〜、だからって何もない。私の命なんて、懲役10何年程度。 あいつは出所後、笑いながら部屋でポテチを食べる。でも私は墓の中……最悪だわ。あんな奴、苦しみながら死ねばいいのに……)
意識が薄れゆく中、ぶつかり男に向かってきた、別の男が刃物を一瞬で、ぶつかり男の首へと突き刺した。
逃げ惑う人々。
ああ、ありがとう神様。バカな役所の代わりに、正しい復讐をしてくれたのね。もし転生することがあれば、私はあなたを心から信仰します。 本当にありがとうございました。さようなら。
いや、その前に、駅のテレビから聞こえたニュースを覚えている。
録画された市長の演説だ。
『本日設置が完了した新たなストリートファニチャーは、我が市が誇る『調和と福祉のシンボル』であります。これによって、この街からはあらゆる不安の要素が払拭され、すべての市民の皆様が、未来永劫、ただの一度も脅かされることのない、完璧に守られた穏やかな日常を手に入れることができるのです。また……』
(ふざけんなクソが!! あのぶつかったやつは絶対に死んだ後も呪ってやる。として、排除アート!! ホームレスを排除する前に善良な納税者の命を排除してどうすんだよ!! 行政の設計ミスだろ責任者出てこい!! ああもう、だから……!!)
しかし、フードを深く被った誰かは、私を突き飛ばしたやつ以外も襲っていた。
それが、私の前世の最後の記憶である。
────
「……セリア様。セリア様、いかがなさいましたか?」
鼓膜を揺らす、鈴を転がすような、それでいてどこか芝居がかった過剰に丁寧な声。
ふわりと香る、むせ返るような薔薇の香水。
私はゆっくりと瞬きをして、意識を現実へと引き戻した。
目の前には、フリルとレースで過剰に装飾された、パステルピンクのドレスを着た同年代の令嬢が立っている。彼女の背後には、煌びやかなシャンデリア、磨き上げられた大理石の床、そして、きらきらと着飾った男女が談笑する、豪奢な王宮のダンスホールが広がっていた。
ここは、どう見ても中世ヨーロッパ風のファンタジー世界である。
そして私は、この国有数の権力を持つ名門、エッカルト公爵家の長女、セリア・フォン・エッカルトとして転生していた。
自分が剣と魔法(一応あるらしいが私は興味がないのでよく知らない)のファンタジー世界に転生したと気付いた時、私が最初に取った行動は「絶望」だった。
だってそうだろう。前世のあの便利で快適な一応先進社会でさえ、人間関係というノイズに悩まされていたのに。貴族社会なんていう、しがらみと見栄と権力闘争と腹の探り合いだけで構成された、人間関係の肥溜めみたいな場所に放り込まれたのだ。控えめに言って地獄である。
だが、私は前世で培った最強の武器を持っていた。
それは「圧倒的な社会スキル」と「鉄壁の営業スマイル」、そして「他者への究極の無関心」である。
私は思考を瞬時に切り替え、眼前に立つピンクドレスの令嬢――たしか、どこかの伯爵家の娘(名前は忘れたし覚える気もない)――に向かって、口角を黄金比の角度で上げ、可憐で、淑やかで、慈愛に満ちた完璧な微笑みを向けた。
「いいえ、なんでもありませんわ。あまりにも美しい夜会なものですから、少し見惚れておりましたの。先ほどの、王都で流行しているというお茶会の話、とても興味深いですわ。ぜひ続きをお聞かせ願えますか?」
声のトーンはワントーン高く。相手の承認欲求を的確に満たす相槌と、適度な質問を織り交ぜる。
これは前世で、話の長い取引先の間抜け社長を相手に散々やり慣れた接待の基本テクニックである。一流の会社でなければ、大抵ベタな演出は嬉しがられる。平静を装っていたとしても、すぐに分かるものだ。
「まあ! 公爵令嬢であるセリア様にそう言っていただけるなんて光栄ですわ! 実はですね、あのお茶会で出された新作のタルトが……」
伯爵令嬢は頬を紅潮させ、嬉々としてどうでもいいゴシップとスイーツの話を再開した。
(あー、はいはい。タルトね。お前のその分厚い化粧の下にある吹き出物の原因、絶対その砂糖の塊のせいだからな。ていうか香水キッツイんだよ、つける量間違えてんのか? 歩く公害かよ。前世でも電車で山ほどいたわ。早く話終わらせてどっか行け、私のパーソナルスペースから半径2メートル以内に立ち入るな、この承認欲求モンスターが)
心の中では、ありとあらゆる罵詈雑言を並べながら、私の顔面は聖母のごとき優しさを保ち続けた。
「まあ、素晴らしいですわ。そのような素敵なお店、私もぜひ一度訪れてみたいものです。お誘いいただける日を心待ちにしておりますわね(※絶対に行かないわよね、社交辞令よ、言わせんな。めんどくさい)」
私の対応は、エッカルト公爵令嬢として一切の隙がない。
礼儀作法、立ち振る舞い、言葉遣い。すべてにおいてトップクラスの評価を修め、両親である公爵夫妻からも「我が家の誇り」「完璧な淑女」と絶賛されている。
だが、その原動力は「愛情」でも「貴族としての誇り」でもない。
単に、「隙を見せて他人に介入されるのが死ぬほど面倒くさいから、完璧な建前で物理的・精神的なバリケードを構築している」だけなのだ。
波風を立てず、誰にも文句を言わせず、ただ息を潜めて、安全で快適な引退生活を送る。それが私のこの世界における至上命題である。他人に期待などしない。他人の心など知ったことではない。根本的に、私は目の前の伯爵令嬢にも、両親にも、この世界の誰一人に対しても、1ミリの興味も抱いていないのだから。




