第五部 第二十二話 ――魔王という存在
魔族領の空は、いつもどこか静かだった。
それは暗いわけではない。
むしろ、空は澄んでいる。
遠くまで広がる群青の天井には、昼であれば深く濃い青が広がり、夜になれば星々が驚くほど鮮明に輝く。
だが――
その静けさは、人族の世界とはどこか違っていた。
風が吹く。
乾いた大地を撫でるその風は、城壁を越え、魔王城の高い塔の上へと流れていく。
その塔の最上階。
そこに、魔王は一人で立っていた。
外套が、風に揺れる。
長く黒い髪が、ゆっくりと背中に流れ、
その視線は遥か遠く――
人族の領土の方角へと向けられていた。
「……始まりましたか」
その声は、独り言に近かった。
だが、その言葉には確かな実感があった。
人族の国同士の戦争。
それは既に、魔族領にも情報として届いている。
アルスト王国。
カンフリークト帝国。
互いに大軍を動かし、
国境線では既に幾度もの衝突が起きている。
魔王は、それを止めるつもりはなかった。
止める理由がないからだ。
人族は、人族の意思で戦争をする。
それは魔族が決めることではない。
だが――
「椎名」
その名を、魔王は静かに口にした。
その瞬間、
魔王の瞳の奥に、わずかな興味が浮かぶ。
魔王は、長い時間を生きている。
人族の王。
英雄。
賢者。
戦士。
数多くの者を見てきた。
だが――
椎名という存在は、
そのどれとも違っていた。
「戦争を止めない人間……」
魔王は、小さく息を吐く。
普通の英雄ならば、
戦争を止めようとする。
国王ならば、
戦争を利用する。
だが、椎名は違う。
彼は戦争を止めない。
しかし、戦争を広げもしない。
戦場の外から、
ただ静かに世界の流れを整えている。
まるで――
「……観察者のようですね」
その言葉を口にした瞬間、
魔王は少しだけ笑った。
「いえ、違いますか」
観察者ではない。
椎名は、
必要ならば動く。
それも、
誰よりも正確に。
◆
その頃。
中立公国。
夜の街は静かだった。
石畳の道にはランプの灯りが並び、
暖かな光がゆっくりと広がっている。
酒場からは笑い声が聞こえ、
旅人たちの足音が、時折通りを横切る。
戦争の噂は届いている。
だが、ここではまだ現実味がない。
その街の一角。
屋敷の庭。
椎名は、
夜風の中で一人座っていた。
テーブルの上には、
数枚の報告書。
蝋燭の灯りが、
その文字を静かに照らしている。
「……やはり、予測通りですね」
椎名は紙を閉じる。
その表情に、
焦りはない。
だが、
思考は深く沈んでいる。
アルスト王国の兵力。
カンフリークト帝国の補給線。
国境線の地形。
それらすべてを踏まえて、
戦況はほぼ計算できる。
「三ヶ月……」
椎名は静かに呟く。
「長くても、半年」
この戦争は、
それほど長く続かない。
どちらかが完全に勝つわけでもない。
だが、確実に疲弊する。
そして――
「その隙を、誰かが狙う」
椎名は夜空を見上げた。
星が、
静かに瞬いている。
その先にいる存在を、
彼は知っていた。
魔族。
そして――
魔王。
「あなたは、どう動かれますか」
椎名は、
丁寧な口調で空に問いかける。
「魔王」
その声は風に消える。
だが椎名は、
その問いがいつか届くと確信していた。
◆
再び、魔王城。
玉座の間。
高い天井。
巨大な柱。
黒い石で造られた広間は、静寂に包まれている。
そこへ、
一人の魔将が歩み寄った。
膝をつき、
頭を垂れる。
「魔王様」
魔王は、
ゆっくりと視線を向ける。
「人族の戦争が拡大しております」
「帝国軍は既に第二軍を投入。
王国側も騎士団を動員した模様」
魔王は静かに聞いていた。
そして、
少しだけ考える。
「……椎名は」
魔王が尋ねる。
「動いておりません」
魔将は答える。
「中立公国にて、静観している模様です」
その言葉を聞いた瞬間、
魔王は小さく頷いた。
「そうでしょうね」
当然だ。
椎名は、
今動くべきではないと理解している。
そして――
魔王もまた、
今は動かない。
「魔王様」
魔将が問う。
「我々は、どうなさいますか」
その問いに、
魔王はゆっくりと玉座にもたれた。
しばらく沈黙が続く。
そして。
「待ちます」
その言葉は、
静かだった。
だが、
絶対だった。
「世界が、
どこまで歪むのか」
「それを見届けましょう」
魔王は、
薄く笑う。
「そして――」
その瞳が、
遠くを見た。
「椎名」
「あなたが動く時」
「私も、動く」
広間の空気が、
静かに張り詰める。
それは宣言ではない。
だが確実な未来だった。
◆
同じ夜。
椎名はまだ庭にいた。
蝋燭は、
もう短くなっている。
「……魔王」
椎名は静かに呟く。
「いずれ、
お会いすることになるのでしょうね」
その声には、
恐れはない。
だが、
わずかな覚悟があった。
「その時は」
椎名は立ち上がる。
夜風が、
外套を揺らした。
「丁寧に、お話しさせていただきます」
「できれば――」
彼は空を見上げる。
「戦わずに済む形で」
だが、
その可能性が低いことも、
椎名は既に理解していた。




