第五部 第十七話――魔王は静かに嗤う
北方。
人族の地図では、
荒野と氷雪に覆われた不毛の地と記される場所。
だが、その地下深く――
大地そのものを削り出したような黒曜の宮殿が存在する。
魔族国家インベイ。
侵略を是とし、
殲滅を理とする国家。
その中枢、
魔王の玉座の間は、
広大でありながら、
異様なほど静まり返っていた。
天井から垂れ下がる結晶が、
淡く赤黒い光を放ち、
空気そのものが、
呼吸するたびに肺を刺す。
魔力の濃度が、
桁違いだった。
並みの魔族でさえ、
長居はできない。
玉座の前に立つのは、
インベイの上位魔族たち。
全員が爵位持ち。
一国を単独で滅ぼせるほどの力を持つ存在。
だが――
彼らは、
一様に口を閉ざしていた。
玉座に座る者が、
まだ、何も言っていないからだ。
魔王。
角は短く、
外見は驚くほど整っている。
だが、
その瞳だけが、
底の見えぬ深淵のようだった。
「……報告は、
すでに受け取っている」
静かな声。
怒気も、
苛立ちもない。
それが、
この場の緊張を、
より一層強めていた。
「人族同士の戦争は、
予定よりも、
少しだけ早く、
進行している」
魔王は、
玉座の肘掛けに指を置き、
ゆっくりと組んだ。
「だが――」
わずかに、
視線が下がる。
卓上に投影された、
魔力による地図。
その中央付近。
人族諸国に囲まれた、
一つの小国。
中立公国。
「ここだけが、
戦場になっていない」
沈黙。
上位魔族の一人が、
重々しく口を開いた。
「……防衛力が、
高すぎるのです」
「正規軍だけではない。
侵入した傭兵、
盗賊、
偽装部隊――」
「いずれも、
痕跡すら残らず、
排除されています」
魔王は、
小さく頷いた。
「名前は?」
その問いに、
一瞬、
空気が揺れる。
「……椎名」
名を告げた魔族は、
無意識のうちに、
唾を飲み込んでいた。
「魔力を持たぬ人間。
剣のみで、
我が配下を討った者です」
魔王は、
その名を、
心の中で反芻するように、
ゆっくりと繰り返した。
「椎名……」
「……実に、
興味深い」
口元が、
わずかに、
歪む。
それは笑みだったが、
喜びの色はない。
「魔力がない。
それなのに、
魔族を斬る」
「それだけなら、
偶然や、
特異な技術で、
片付けられる」
「だが――」
魔王は、
指先で地図をなぞった。
「彼は、
勝利を誇示しない」
「恐怖を、
利用しない」
「支配を、
広げない」
低く、
静かな声。
だが、
その一言一言が、
上位魔族たちの神経を、
じわりと締め上げる。
「……強者が、
強者として振る舞わない」
「それは、
最も厄介だ」
別の魔族が、
苛立ちを隠さず言った。
「排除すべき存在です。
今のうちに」
「力を持たぬ人間など、
数で潰せば――」
魔王は、
視線を上げた。
ただ、それだけ。
だが、
その瞬間、
その魔族の喉が、
言葉を拒んだ。
視線に、
殺意はない。
だが、
“理解されている”という感覚が、
全身を縛り上げる。
「潰せると思うか?」
静かな問い。
答えられない。
魔王は、
ゆっくりと息を吐いた。
「我々は、
力の論理で、
世界を見てきた」
「奪い、
従わせ、
踏み潰す」
「だが――」
指が、
地図の中立公国を、
軽く叩く。
「彼は、
その論理の外にいる」
「力を、
“抑止”として使っている」
「それは――
我々の常識では、
測れぬ行為だ」
場に、
沈黙が落ちる。
魔王は、
静かに続けた。
「だから、
すぐに殺すのは、
惜しい」
その言葉に、
数名の魔族が、
驚いたように目を見開いた。
「人族の戦争は、
これから、
本格的に燃え上がる」
「その炎に、
我々は、
どう触れるべきか」
「彼は――」
一瞬、
言葉を区切る。
「“触れ方を間違えれば、
火傷では済まぬ存在”だ」
魔王は、
玉座から立ち上がった。
その瞬間、
空気が、
一段、
重く沈む。
「監視を続けろ」
「だが、
直接は動くな」
「人族の戦争が、
さらに深まった時――」
魔王の瞳が、
わずかに、
細められた。
「彼が、
何を選ぶのか」
「それを見てから、
我々は、
次の一手を打つ」
会議は、
それで終わった。
誰も、
反論しなかった。
玉座の間に、
再び静寂が戻る。
魔王は、
一人、
地図を見下ろした。
中立公国。
椎名。
「……力を持ちながら、
支配を望まぬ者」
「果たして、
その在り方が、
どこまで通用するか」
低く、
誰にも聞こえぬ声で、
そう呟く。
だが、その口元には、
確かに――
愉悦が、
浮かんでいた。
世界が、
予定外の形に、
歪み始めている。
それを、
魔王は、
心から楽しんでいた。




