第五部 第二話――魔族の使者
朝の空気は、どこまでも澄んでいた。
アルヴァリア公爵領の城館は、
いつも通りの静けさを保っている。
門前の衛兵たちは、規律正しく交代し、
庭師フランクは鼻歌混じりに剪定を続け、
厨房からは焼きたてのパンの香りが漂っていた。
――日常。
だがその日常の輪郭に、
わずかな“歪み”が差し込んでいた。
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椎名は、中庭の端で掃き掃除をしていた。
落ち葉が舞う方向。
風の重さ。
空気の湿り方。
それらが、ほんの少しだけ――
整いすぎている。
「……風向きが、揃いすぎておりますね」
独り言であっても、
言葉遣いは変わらない。
彼は箒を止め、
南の空を静かに見つめた。
そこには、何もない。
だが、
“何かが来る”という感覚だけが、
はっきりとあった。
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正午を少し回った頃。
城門の警鐘が、短く二度鳴った。
異常事態ではない。
だが、通常とも言い切れない合図。
衛兵の声が、城内に届く。
「――公爵閣下!
南より、魔族の使者が参っております!」
一瞬、空気が張りつめる。
魔族。
その言葉だけで、
多くの者の背筋が反射的に伸びる。
だが、騒ぎにはならなかった。
なぜなら――
正式な使者だったからだ。
武装は最低限。
随行もわずか。
敵意を示す魔力の放出はない。
それは、戦争ではない合図。
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執務室。
ラルト・アルヴァリア公爵は、
報告を最後まで聞くと、短く言った。
「通せ」
声は低く、部下に向ける口調だ。
「城内ではなく、応接の間だ。
儀礼は最低限。
だが、無礼は許すな」
側近たちが即座に動く。
その中で、
一人だけ、静かに一歩下がる影があった。
椎名である。
彼は、
進み出ることも、退くこともせず、
ただ“そこにいる”。
公爵は、ちらりと彼を見る。
「椎名」
「はい、公爵閣下」
「今回は、表には出るな」
命令だ。
「だが、近くにはいろ。
何かあれば、即座に判断してもらう」
「承知いたしました」
椎名は、深く一礼した。
その表情に、
不満も、誇りもない。
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応接の間。
高い天井、
柔らかな光を取り込む窓、
過度な装飾のない空間。
そこに現れた魔族は――
あまりに“整って”いた。
角は短く、装飾もない。
肌の色も人族と大差なく、
衣装は実用的で簡素。
だが――
魔力の密度だけが、異常だった。
空間そのものが、
その存在に“慣れようとしている”。
「初めてお目にかかる」
穏やかな声。
「私は、インテグより遣わされた交渉官だ」
名乗りはあったが、
肩書きは伏せられた。
それ自体が、
魔族なりの礼儀だった。
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「中立公国に、敬意を」
交渉官は、そう前置きした。
「貴国が、
人族国家間の争いにおいて
一定の距離を保っていること」
「そして――
無用な流血を避けていることを、
我々は評価している」
公爵は、表情を変えない。
「評価など、求めていない」
冷静な部下口調。
「用件を言え」
交渉官は、わずかに笑った。
「では、率直に」
「魔族国家は、
この戦争を“機会”と見ている」
一瞬、室内の空気が重くなる。
「だが、
中立公国は、その“外”にある」
「だからこそ――
話がしたい」
⸻
応接の間の外。
壁一枚隔てた場所で、
椎名は立っていた。
音は、ほとんど届かない。
だが、
声の“重さ”
言葉の“選び方”
間の“取り方”
それだけで、
内容の輪郭は見える。
「……なるほど」
小さく、誰にも聞こえない声。
「力の誇示ではなく、
価値の確認ですか」
彼は理解した。
魔族は、
中立公国を敵として見ていない。
だが――
味方としても見ていない。
「試されておりますね」
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応接の間では、
話が核心に近づいていた。
「要求は、三つ」
交渉官は指を立てる。
「第一に、
今後も中立を維持すること」
「第二に、
人族国家への肩入れをしないこと」
「第三に――」
一瞬、言葉を切る。
「魔族国家に対しても、
“抑止”を行わないこと」
公爵の眉が、わずかに動いた。
「……それは、中立ではない」
「そう」
交渉官は、はっきり頷く。
「それは、
無干渉だ」
「だが、
貴国はすでに――
無干渉ではない」
静かな指摘。
公爵は、沈黙する。
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その瞬間。
城の外で、
風が一段、強くなった。
椎名は、
その変化を即座に感じ取る。
「……言葉が、刃に変わりましたか」
彼は、足音を立てずに一歩近づく。
まだ、剣は抜かれない。
だが――
交渉は、すでに戦争の一部だ。
⸻
魔族は、手を差し伸べている。
だがその手は、
掴めば鎖になる。
公爵は、答えを保留した。
椎名は、まだ表に出ない。
だが――
彼は確信していた。
これは、始まりだ。
魔族が、
“理解できるかどうか”を試しに来た。
そして――
理解できなければ、次は違う形で来る。




