第四部 第十七話――境界に、火は灯らず
夜明け前。
アルヴァリア公爵領の南東境界。
国境線を示す石柱の列が、霧の中にぼんやりと浮かんでいた。
この時間帯は、魔力が最も安定する。
そのため、魔法による探知や結界維持には最適――
同時に、侵入にも向いている時間だった。
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騎士団の前衛が、足を止めた。
「……おかしい」
隊長格の騎士が、小さく呟く。
通常、国境付近には魔物の気配がある。
小型の獣型魔物、夜行性の魔力反応。
完全な無音など、あり得ない。
「風が……止まっている?」
魔法士が、掌に淡い光を浮かべる。
空気の流れを感じ取る生活魔法だ。
「……いや、止められている」
その瞬間。
霧が、割れた。
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霧の奥から現れたのは、二十名ほどの武装集団。
統一された鎧はない。
だが、武器だけは揃っている。
・魔力付与された剣
・刃に沿って流れる微弱な光
・軽量化された盾
正規軍ではない。
だが、素人でもない。
「中立公国領内だ」
騎士団長の声が響く。
「武装侵入は即時排除対象。
所属を名乗れ」
一瞬の沈黙。
そして――
返答は、火だった。
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敵前列の男が、地面を踏みしめる。
次の瞬間、地表が赤く染まった。
魔力が地中に流し込まれ、
圧縮された熱が一気に解放される。
轟音。
火柱が、騎士団前方を舐める。
「防御陣形!」
騎士たちは、即座に盾を構えた。
盾に刻まれた魔導刻印が淡く光る。
火は、盾に触れた瞬間、流れを変えられる。
単なる防御ではない。
魔力操作による“逸らし”だ。
後方の魔法士が、次の手を打つ。
空気が、震えた。
圧縮された風が、螺旋を描いて前進する。
刃のような風圧が、敵の足元を削り取る。
だが――
敵も、対応が早い。
地面に魔力を走らせ、
土を隆起させて風を受け止める。
「……訓練されているな」
「ええ。
国家の影が見えます」
静かな声。
いつの間にか、椎名が後方に立っていた。
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前線が、動いた。
騎士たちは、盾を前に出しながら間合いを詰める。
剣には、身体強化の魔力が流れている。
一歩踏み出すたび、地面がわずかに沈む。
それほどの脚力。
敵の剣士が、斜めに斬りかかる。
刃と刃がぶつかる瞬間、
魔力が弾ける音がした。
金属音ではない。
空気が破裂するような、低い衝撃。
互いの剣に込められた魔力が、反発し合っている。
騎士は、受け止めると同時に体を捻る。
魔力を抜き、刃を滑らせる。
次の瞬間、逆袈裟。
敵の鎧が、紙のように裂けた。
魔法で強化された剣は、
力任せではなく、流れと角度で斬る。
これが、公爵領騎士団の戦い方だった。
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その裏で。
椎名は、戦場全体を見ていた。
(……魔力操作は優秀。
ですが、剣の間合いが浅い)
敵後方に、指揮役がいる。
魔法の発動タイミングが、そこから揃えられている。
椎名は、一歩踏み出した。
魔力は、使わない。
ただ――
地面を蹴る。
視界が歪むほどの速度。
次の瞬間、椎名は指揮役の背後にいた。
男が振り向くより早く、
椎名の柄が、鳩尾に吸い込まれる。
魔力防御?
意味はない。
内臓が揺れ、呼吸が止まる。
続けて、首筋へ。
意識は、落ちた。
血は、出ない。
「……以上でございます」
椎名が、淡々と呟く。
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指揮が失われた瞬間。
敵の魔法の連携が、乱れた。
火が、風と噛み合わない。
防御が、半拍遅れる。
騎士団は、そこを逃さない。
包囲。
剣を突きつけ、退路を断つ。
「降伏しろ」
数秒の沈黙の後、
敵は剣を落とした。
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戦闘は、短時間で終わった。
死者は、出ていない。
だが――
「所属は?」
捕らえられた男は、歯を食いしばる。
「……傭兵だ」
「国は?」
沈黙。
椎名は、横から口を挟んだ。
「結構でございます」
騎士団長が、目を向ける。
「我々は、中立公国でございます」
椎名の声は、穏やかだ。
「どの国であろうと、
境界を越えた時点で――
敵でございます」
その言葉は、淡々としていた。
だが、重い。
⸻
夜明け。
境界線には、何事もなかったかのように霧が戻る。
だが、周辺国には確かに伝わる。
――中立公国は、
踏み込めば、確実に噛み返す。
椎名は、空を見上げた。
「……火は灯りませんでしたね」
それでいい。
燃え広がる前に、
踏み消すのが――
中立の仕事なのだから。




